Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.795-8。一行ずつ改行。
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 第三節・レーニンの最後の闘い②。
 (8)レーニンは9月までに回復して、仕事に戻った。
 このときにはスターリンの野心を疑うようになっていて、その権力の増大に対する対抗策として、トロツキーを人民委員会議(ソヴナルコム、Sovnarkom)の議長代理(deputy)に任命することを提案した。
 トロツキーの支持者はつねに、このことによって自分たちの英雄がレーニンの後継者になるだろうと論じていた。
 だが、この地位は多くの者には小さいものと見られていた。—権力は政府機構にではなく、党機関に集中していた。そして疑いなく、スターリンはこの理由で、政治局でのレーニンの決定に全く不満でなかった。
 実際、最も抵抗したのはトロツキーで、自分の投票札に「断固として拒否する」と書いた。
 トロツキーは反対する理由として、先だっての5月に導入されたときにその職位を原理的に批判した、と主張した。
 のちに彼は、自分はユダヤ人だからその職位に就かない、そうなれば体制の敵による情報宣伝に油を注ぐだろう、とも主張した(803-4頁を見よ)。
 しかし、彼が拒んだのはおそらく、たんなる「議長代理」でいるのは自分にふさわしくないと考えたからだった。//
 (9)これは、レーニンがソヴナルコムの職務について曖昧な見方をしていた、ということを意味しない。
 また、トロツキーにその職位を提示したのは、レーニンの妹の言葉を借りると「Ilich〔レーニン〕がスターリンの側に立つ」見返りとしての「外交的な素振り」だったと、たんに意味しているのでもない。
 レーニンはつねに、党の仕事以上にソヴナルコムのそれにより高い価値を見ていた。
 ソヴナルコムはレーニンが生んだものであり、それへと彼の全活力を集中させてきた。驚くべきことに、党の活動を知らなくなるまでにすら至っていた。
 彼は1921年10月に、スターリンにこう告白した。
 「知ってのとおり、私は組織局の多大な『割当て』仕事に習熟していない」。
 これは、レーニンの悲劇だった。
 政治家として活動した最後の数ヶ月の間、指導的党組織の権力拡大の問題に取り組んでいたとき、レーニンはいっそう、党と国家の間の権力分離の手段としてソヴナルコムを見ていた。
 だが、レーニンの個人的な権力が所在するソヴナルコムは、彼が病気になり政治から撤退するにつれて、その力を衰退させた。
 彼の代わりにトロツキーが据わるとしても、スターリンの手中にある党組織への権力移行を止めるには、もう遅すぎた。そしてトロツキーは、このことを知っていたに違いない。(*34)//
 (10)レーニンのスターリンに対する疑念は、10月にスターリンがトロツキーを政治局から排除することを提案したときに深まった。それは、トロツキーがソヴナルコムでの地位を傲慢にも拒否したことに対する制裁だ、とされた。
 レーニンは三頭制の活動をよく知るにつれて、それが支配党派のごとく振る舞い、自分を権力から排除するのを意図している、ということが明瞭になった。
 このことが確認されたのは、レーニンは疲労のためにしばしば早めに退席せざるを得なかったのだが、ある政治局の会合から彼が引き上げるとすぐに、三人組が、レーニンは翌日に初めて知ることとなる重要な決定を行なったときだった。
 レーニンは、そのあと(12月8日に)政治局会合は3時間を超えて進行してはならないこと、決定されなかった案件は次回の会合に持ち越されるべきであることを、命令した。
 同時に、またはトロツキーがのちに主張したところでは、レーニンは、「官僚主義に反対する陣営」への参加を提示するためにトロツキーに接近した。これは、スターリンと組織局内の彼の権力基盤に対抗する〔レーニンとトロツキーの〕連合を意味した。
 トロツキーの主張は、信頼できる。
 これがなされたのはしかし、レーニンの遺言の直前だった。そしてこの遺言は主としては、スターリンとその官僚機構の掌握の問題にかかわっていた。
 トロツキーは、すでに党官僚機構、とくにRabkrin と組織局を批判していた。
 そして我々は、外国通商およびジョージア問題の両者について、レーニンはスターリンに反対するトロツキーと立場を共通にしていたことを、知っている。
 要するに、12月半ばにかけて、レーニンとトロツキーは、ともにスターリンに反対していた。
 そのとき突然に、12月15日の夜、レーニンは二回目の大きな脳発作を起こした。(*35)//
 (11)スターリンはすぐにレーニンの医師たちの管理を担当し、 回復を早めるという口実で、中央委員会から自分への命令を与えさせた。その命令は、訪問者や文書のやり取りを制限することで、レーニンを「政治から隔離」し続ける権限をスターリンに付与するものだった。
 12月24日の政治局のつぎの指令には、「友人も周囲の者も、Vladimir Ilich に政治ニュースを語ることはいっさい許されない。彼を反応させ、昂奮させる原因になり得るからだ」とある。
 レーニンは車椅子に閉じ込められ、「一日に5分ないし10分」だけの口述が認められ、スターリンの囚われ人となった。
 レーニンの二人の主な秘書、Nadezhda Alliiuyeva(スターリンの妻)とLydia Fotieva は、レーニンの言ったことを全てスターリンに報告した。
 のちの事態が示すことになるように、レーニンは明らかにこのことを知らなかった。
 スターリンは一方で、薬物に関する専門家を自認して、発送するよう教科書を注文した。
 スターリンは、レーニンはまもなく死ぬだろう、そして自分に対する公然たる侮蔑心をいっそう示すだろう、と確信した。
 スターリンは同僚に12月中に、「レーニンはだめだ(kaput)」と言った。
 スターリンの言葉は、Maria Ul'ianova を通じて、レーニンの耳に届いた。
 兄は妹に伝えた。「私はまだ死んでいない。だが彼らが、スターリンの指導で、私をもう埋めてしまった」。
 スターリンは、その評価の基盤をレーニンとの特別の関係に置いていたけれども、レーニンに対する本当の感情は、1924年に暴露された。レーニンが衰亡し、死ぬまでまる1年を待たなければならなかったとき、つぎのようにつぶやくのが聞かれたのだ。
 「<本当の>指導者らしく死ぬこともできないのか!」。
 実際に、レーニンはもっと早く死んでいたかもしれなかった。
 12月末にかけて彼は、自殺できるように毒を懇願した。
 Fotieva によると、スターリンは毒を与えるのを拒否した。
 しかし、彼は疑いなくそれを後悔することとなった。
 作業をするのが認められた短い間に、レーニンは、来たる党大会のための一連の文書を口述していたからだ。その中でレーニンは、スターリンの権力増大をを非難し、その解任を要求した。(*36)//
 (12)のちにレーニンの遺書として知られるようになったこれらの断片的な覚書は、12月23日と1月4日の間に短い文章で口述筆記された。—そのうちいくつかは、イアフォンを両耳にはめて隣室に座っている速記者に電話で伝られた。
 レーニンは、厳格に秘密にするように命じ、自分かKrupskaya だけが開封できるように、封筒を密閉した。
 しかし、彼の年配の秘書たちはスターリンのためのスパイでもあり、彼らはその覚書をスターリンに見せた。(*37)
 この最後に書いた文書全体に、革命が明らかにした現実に対する圧倒的な絶望意識が溢れている。
 レーニンの乱れた文体、誇張した執拗な反復は、麻痺によって悪化してはいないがやはり苦悩している彼の心裡(mind)を露わにしていた。—おそらくは、過去40年間ずっと設定してきた単一の目標が、今や奇怪なほどに大きな(monstrous)間違いだったと判明したことに気づいたがゆえの、苦悩だった。
 この最後の文書全体を通じて、レーニンは、ロシアの文化的後進性に苦しめられている。
 まるで彼は、そしてたぶん自分に対してだけ、メンシェヴィキは正しかったこと、ブルジョアジーに取って代われるだけの教育がロシア民衆にはないためにロシアはまだ社会主義へと進む段階ではないこと、そして、国家による介入によってこの過程の進展を速める試みは結局は必然的に専制体制を生んでしまうこと、を認めているがごとくだった。
 これは、ボルシェヴィキはまだ「統治の仕方を学ぶ」必要があると自身が警告したとき、レーニンが意図したことだったのか?//
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 ③へとつづく。