Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。次の章へ。p.786-9。一行ずつ改行。番号付き注記は箇所だけ記して、訳さない。
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 第16章/死と離別。
 第二節・征圧されない国①。
 (1)革命の4年間は、Andreevskoe の村民たちを再統合しなかった。
 村民は、二つの古い対立陣営に分かれたままだった。
 一方は、進歩的農民で改革者のSergei Semenov の側に立った。この人物は、近代世界の装飾物を貧しくて惨めな農民たちにもたらすことを夢見ていた。
 他方は、体格が良くて大酒飲みの老農民のGrigorii Maliutin の側に立った。この人物は、古い信仰者であり、全ての変化に反対し、この30年間の最良部分のためにSemenov の改革に抵抗した。//
 (2)彼らの間の確執は、1890年代に始まった。Maliutin の娘のVera が私生児を死亡させ、近くの林に埋葬したときだった。
 警察が取調べのためにやって来た。金持ちのMaliutin は、彼らを買収せざるを得なかった。
 彼は、Semenov が警察に知らせたのだと非難し、村から排除すべく脅迫する運動を開始した。—Semenov の小屋を焼け放ち、家畜を殺戮し、黒魔術師だと非難した。
 Maliutin はついに1905年に、その狙いを達成した。その年にSemenov はAndreevskoe に農民同盟の支部を設立したのだが、その地方の司法部の目からすると、彼は危険な革命家となった。そして、Semenov は国外へ追放された。
 しかし、3年後に彼は、Stolypin の土地改革の先駆者としてAndreevskoe に戻って来た。 
 Semenov は、西欧で学んだ先進的な農業方法を、村落から分かれた私的区画に導入しようとした。
 何人かの若者や進歩的農民たちが、彼の囲い込み運動に加わった。
 だが、Maliutin は再び腹を立てて—彼は村落共同体の実力者だった—、村落の長老たちと一緒になって、首尾よく改革を阻止することができた。 
 Semenov は1916年に、友人の一人にこう書き送った。「より良い生活を求める私の夢は、頑固で嫉妬深い男によって壊された」。//
 (3)革命は、Semenov に決定的に有利に天秤を傾けた。
 Maliutin が依存していたかつての権力構造、つまりvolostの長老、地方警察、大地主たちの権力構造は、一夜にして崩れ落ちた。
 若者や進歩的農民たちの意見が、村落内でより強くなった。一方で、革命を良いものとは全く思わなかったMaliutin のような伝統的指導者の力は、ますます無視された。 
 Semenov は改革の旗手として、村落集会の支配的人物の一人となった。
 彼はつねに、かつての伝統的秩序や教会の影響力に反対して発言した。
 1917年に彼は、Andreevskoe での土地分割に協力し、Maliutin の農地の規模を半分に削減した。 
 Semenov は、地区ソヴェトの土地関係部署と地方協同組合の両方で活動した。最新の道具の購入、市場用野菜栽培のための諸組合を設立し、日常的な農業や亜麻栽培の方法を改良した。農学に関する小冊子を書き、研修を行った。また、アルコール中毒と闘う運動を展開し、村に学校と図書館を建てた。さらに、近くのBukholowo 街区に学校教師の友人と設置した「人民劇場」用の戯曲をも自ら執筆した。
 彼は、Volokolamsk の村々をモスクワ・ソヴェトに繋がる電信および電話線で覆いつくす計画を練り上げすらした。
 Semenov はTolstoy主義の信条を持っていたので村落やvolost ソヴェトでの役職を引き受けるのを固辞したけれども、ある地方人が述べたように、
「Andreevskoe のみならずその地方の農民たちは、彼を自分たちの指導者でかつ代表者だと見なした」。//
 (4)Maliutin とその仲間たちは、その間、Semenovの全ての動きに反対しつづけた。
 彼らは、Semenovは共産主義者だと断言した。—そして、村落での彼の改革は村落に新体制の全ての邪悪さを持ち込むたけだ、と主張した。
 地方の聖職者は、彼は黒魔術師だと非難し、彼の「無神論」は悪魔につながると警告した。
 Volokolamsk の正教執事(Archdeacon)Tsvetkov も非難に加わり、Semenov は反キリスト者だと主張した。
 Semenov が1919年に設立した村落の新しい学校は、とくに彼らを怒らせた。木材で建築されていたが、それらは国有化されるまではMaliutin と教会の所有物だった森林から伐採されたものだったからだ。
 さらに、その学校には宗教教育が全くなかった。
 教室の壁の上の十字の場所には、義務的に、レーニンの肖像画があった。
 ある夜に、Semenov の小屋が燃やされた。別の夜には、彼の農具は奪われ、湖に沈められた。
 名前を明かさないままの非難文書が地方チェカに送られたが、それらは、Semenov は「反革命」で「ドイツのスパイ」と主張するものだった。
 Semenov はしばしば、行動に関して答えるようにチェカに拘引された。彼が少しだけ知っているモスクワ・ソヴェトの議長のカーメネフにちょっと電話するだけで、彼を釈放するには十分だったけれども。
 ロシアに多種の畜牛伝染病が広がった1921年の間、Maliutin とその仲間たちは、村落の家畜の死の原因はSemenov の「悪魔の改革」にあると追及した。
 彼は「黒魔術で畜牛を病気に罹らせた」とすらも、主張された。
 ロシアじゅうで同じ病気で畜牛が死んでいるのを知っていたけれども、非難者たちは自分たちの損失に関する説明を欲しがった。そして、Semenov に対してますます疑念を抱いた者がいた。//
 (5)Maliutin は最終的には、古くからの対抗相手の殺害を組織した。
 1922年12月15日の夜、Semenov がBukholovo へと歩いていたとき、彼はMaliutin の2人の息子を含む数人の男たちに襲撃された。男たちは、村落の端にある姉のVeraの家から突然に現れた。
 彼らの一人が、Semenov の背中を銃撃した。
 Semenov が振り向いて攻撃者を見たとき、男たちはさらに数発を発射した。彼が死んで地上に横たわったとき、男たちは、彼の顔に息を吹きかけた。
 彼らは、Semenov の胸に、赤い血で十字の印を切った。//
 (6)これは、卑劣な殺人だった。
 Semenov は対抗相手につねに公正に向かい合ってきて、その立場について公平だった。
 しかし、対抗相手たちは彼に対して悪意をもち、背中を射撃した。
 殺害者たちがのちに逮捕されたとき、彼らは、Semenov は「悪魔のために働いていた」、畜牛伝染病を呪文で呼び出した、と主張した。
 彼らはまた、Grigorii Maliutin とArchdeaconのTsvetkov にSemelov を殺すように命じられた、とも告白した。—後者が言ったように、「神の名において」殺した、と。
 彼らは全員が共謀殺人で有罪となり、各々が極北での重労働10年の判決を受けた。//
 (7)Semenov は、Andreevskoe にある愛した自分の土地区画に埋葬された。彼が生き、この数年間をそのために闘った土の一部になった。
 周囲の諸村落から数千の人々が、葬礼に参加した。その中には、彼が個人的にも教えた、数百人の生徒たちもいた。
 友人のBelousov は、弔辞でこう語った。「その働きと教えを人々が甚だしく必要とするようになった、まさにそのときに、こんなに貴重な生命を失うのは悲劇だ」。
 Semelov の功績を追悼して、村の学校には彼の名が付けられた。また、彼の農場は国家によって維持され、彼の子息が経営した。それはモデル農場として、農民たちに最新の農業革新による利益を示すものとなった。
 Semelov は大いに感動したことだろう。彼が生涯をかけて夢見たものだったのだから。(*21)//
 (8)党のプロパガンダに利用する機会が見逃されるはずはなく、<プラウダ>は、この小さな地方的物語に焦点を当てた。 
 Maliutin は悪の「kulak(富農)」として、Semelovは貧しいが政治的意識のある農民として描かれた。
 これはもちろん全て馬鹿げていた。—Semelov は「kulak」のMaliutinより決して貧しくなく、いずれにせよ、二人を分かつのは階級ではなかった。
 殺人事件が本当に示したのは、モスクワから100マイルも離れていない所に、Andreevskoe のような近代文明がまだ到達していない村落が存在した、ということだ。
 人々は魔術を信じ、まるで中世に閉じ込められているような生活をしていた。
 ボルシェヴィキはまだ、この見知らぬ国を征圧していなかった。
 外国にいる軍隊のように、誤解してその国に見入った。
 アマゾンの森林の探検者のごとくモスクワの周辺へと向かった初期の民族文化学者たち(ethnography)は、つぎのことに気づいた。ロシア人たちの多くは、地球は平らだと、天使たちは雲の中で生活していると、太陽は地球を回っていると、まだ信じている。
 彼らは、時代遅れの長老支配様式に浸された不思議な村落を発見した。それは、月とは異なる宗教祭日や季節をまだ規準として時間が区切られる世界であり、異宗派的儀礼と迷信、妻叩き、リンチ、拳骨での決闘と数日間続く飲酒、といったもので充ちた世界だった。//
 (9)ボルシェヴィキは、このような世界を理解することができなかった。—マルクスは、黒魔術について何も語らなかった。ましてや、統治することなど。
 ボルシェヴィキによる社会基盤作り(infrastructure)が及んだのは、volost の町部分にまでだった。
 村落のほとんどは、依然として自分たちの共同体によって統治された。共同体の小土地所有(smallholding)の「農民」体質は、革命と内戦によってむしろ大きく強化された。
 実際には、この数年間にロシアは全体として、はるかに「農民」的になった。
 革命によって、大都市の住民は大きく解体し、工業は事実上破壊され、地方的文明の表層は剥ぎ取られた。
 小土地所有農民層が、残されたものの全てだった。
 多くのボルシェヴィキが、農民大衆によって威嚇されていると感じたのは、何ら不思議ではない。
 「野蛮な農民たち」に反抗心をもっていたGorky は、ボルシェヴィキの恐怖心を表現した。ベルリンへと発つ直前に、外国からの訪問者にこう言った。
 「農民は、全くもってその数の力によって、ロシアの主人になるだろう。
 そしてそれは、我々の将来にとっての大厄災だろう。」(*22)
 農民に対するこの恐怖は、1920年代の、解消されない緊張の原因だった。—これが、否応なく、集団化という悲劇へとつながった。//
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 第二節①、終わり。