レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。第2章②。この書物に、邦訳書はない。
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 第二章・名声(fame, 有名さ)について②。
 (6)このように考察すると、名声はいくぶん「不公正に」配分されている、という愚かな考えが生まれる。
 このような考え方は、名声の「公正な」配分とはどのようなものかを、さらにはそれをどうすれば実現できるかを、我々は知らないがゆえに、愚かだ。
 実際そうであるように、ほとんど読み書きのできない何人かのボクシング王者は、純粋に人類の利益のために働く偉大な学者や科学者が、例えば医学研究者が一握りの者たちにだけしか知られていないのに対して、世界じゅうに有名であり得る。しかし、これのどこに問題があるのか?
 なぜ名声は、知的な大きな成果に対する正当な褒賞である<べき>で、スポーツ技量またはテレビ・ショーの司会術に対する報償であってはならないのか?
 名声は、しばしば全くの好運の問題だ。宝くじ当選者ですら、自分の努力や長所がなくとも、短期間は有名であり得る。
 我々自身もまた、しばしば、聴衆や観衆として誰かを有名にすることができる。例えば、その女優が出演している映画を観に行くことによって、ある女優を有名にすることができる。
 多数の人々—Xanthippe〔ソクラテスの妻〕、Theo van Gogh〔画家ゴッホの弟〕、Pontius Pilate〔キリスト処刑許可者〕 —は、たまたま何らかのかたちで有名な人々と関係があるために有名さを獲得している。
 そして問おう、なぜそうであってはならないのか?
 名声の「不公正な」配分について、文句を言っても無意味だ。名声は、善良さ、知恵、勇気その他の美徳の報償ではないし、かつそう考えられてはならないからだ。名声とはそのようなものでは全くないし、決してそうはならないだろう。//
 (7)これは良いことだ。なぜなら、かりに我々の生活がその大部分が予見不可能でなく、偶然に支配されていないとすれば、そのような生活はじつにひどく退屈なものになるだろうから。偶然は総じて我々の有利にはならないという事実があるとしても、やはりそうだろう。
 世界は、公正な報償なるものを基盤にして編成されてはいないし、実際そうであるのとは異なって世界を編成し得ると言うことが何を意味するのか、思い描くことすらできない。
 おそらく天界では、名声や栄誉は異なる規準で従って授与される。おそらく最高のレベルにまで昇りつめた有名な人々がおり、彼らは地上では誰もその名を聞いたことがない人々なのだろう。
 しかしながら、地上で熱烈に名声を追求する人々は、偶然によって有名になった者たちを見て嫉妬心を使い果たして、有名な人々の中には入らない、と想定しておくのが安全だ。
 ノーペル賞受賞者やアメリカ大統領になろうとする絶望的な多数の者たちは、彼ら受賞者らが明瞭に獲得した褒賞を拒否されたという憤懣をもって、天界に行けば自分たちの苦痛に褒美が与えられる、と考えることに慰めを見出してはならない。
 なぜなら、実際には、神は、我々の嫉妬心や虚栄心に対する褒賞として我々を着飾ってくれそうにはないからだ。//
 (8)名声を求める渇望やそれを得られないこと、または値するほどには多く名声を得ていないことは不公正だとする感情は、もちろん虚栄心の結果であり、聡明さとは何の関係もない。
 道徳家たちはこの数世紀の間に、我々の知性はその我々の虚栄心や傲慢さを前にしては無力だ、と知ってきた。
 我々はみなたぶん、さもなくば全く知的な人々が、尊大で傲慢で独善的だという理由で、疫病のごとく避ける人々に遭遇したことがある。
 我々に説教をしたり望んでいない助言をするこの種の人々は、我々がその仲間でなくなるときには、それに気づいていないふりをするか、または自分たちの道徳の高さや知的な卓越性に原因を求める。
 我々はみな、知識と先見性があるにもかかわらず、誰も自分を認めてくれないと常時不満をこぼしている、そして、自分たちが嘲弄に値する者であると理解するのを拒否する、全く知的な人々を知っている。
 彼らは、自分たちを殉教者に仕立て、絶えず我々の同情を惹こうとする。我々の時代の出来事からして、彼らの殉教ぶりは些細な程度であるとしても。
 彼らはまた、自分たちの馬鹿げさ加減を理解するのを拒む。
 我々にあらゆる機会を使って、世界の女性たちは全員がベッドに一緒に行くことしか望んでいないことを明確に教えようとする、完全に知的な人々がいる。
 知性は、虚栄心を克服できない。
 「虚栄(vanity)」という言葉が「空虚(void)」に近いのは、決して偶然ではない。//
 (9)しかしながら、名声の追求は、二つの条件が充たされるならば、卑しいことでも、無価値のものでもない。
 第一に、主要な目標に対して付随的なものでなければならない。主要な目標とは、それ自体が価値があるものを達成することだ。
 その目標へと、我々の努力は傾注されなければならない。その結果として生じ得る名声の見込みに、誘惑されることがかりにあるとしても。
 第二に、名声の追求は、強迫観念(obsession)に転化してはならない。ほとんど余計なことを追記すれば、この強迫観念は、世間に対する憤懣という破壊的な感情を生むことがあり、これは人生を破綻させてしまうことがあり得る。
 概して言えば、名声については全く考えないで、家族や良き友人たちの小さな仲間うちの愛情や敬意に満足しておくのがよいだろう。//
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 第2章、終わり。