No.2334の<「知識」・「学歴」信仰の悲劇①>との表題を、少し改める。
  古田博司・使える哲学(Discover、2015)は、全篇にわたって面白そうだ。
 ヨーロッパ近代、同哲学についても、西尾幹二批判についても、関係する、かつ刺激的な文章が多々ある。
 また、学問論・大学論についても、面白い、かつ刺激的な言辞が並んでいる。
 とりあえず、以下の文章に、ほとんどそのまま大賛成だ、と書いておきたい。
 全て、そのままの引用。一文ずつに改行。p.98-。
 「先ごろ話題になった、文科省が廃止に言及した人文系学部の見直しについても基本的には結構なことだと思っています」。
 「研究者たちは自分の学問を、今を説明できるような学問にどんどん変えていかなくてはいけないというのが私の考え方です」。
 「どんな学問であっても『すぐには役立たないが、教養として必要だ』という考え方には意味がないと思います」。
 「学問の目的を、常に今の説明に置くことが大切です」。
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  学問とは何のためにあるのか。さらには、学校での「勉強」は何のためにあるのか。
 古田は学者・研究者として、誠実に思考していると思われる。自分の「名誉」とか「名声」と関係なく。
 ①上の「今を説明」するの中には、厳密には「今」の中には、我々個人もその一個体である<ヒト・人間>の客観的・現実的な諸相も含めたい。
 「今」の中には、「今」を生きる人間の諸条件も当然に含まれているからだ。ここには<(生命体として)生きている>ということの(観念的・哲学的意味ではなく)物質的ないし生物学的意味が含まれる。
 心臓の拍動、呼吸、脳・脊髄等の「神経」等があってこそ「生きている」(自分だけではなく全ての人間が)ことを、小学生くらいから教育しておくべきだ。生存条件としての食事(・栄養)から必要な自然環境(水、空気、樹木等々)までも当然に。
 したがってまた、ヒト・人間の肉体的(・精神的)生存に関係する学問、簡単には医学・生物学・薬学等々(感染症学等々も入る)等は重視されなければならない。基礎としての数学・物理学等々も。
 ②上の広い?意味での「今」と関係がない、または関係が薄い諸「学問」分野は、「学問」性がないか乏しいもので、大学または学者・研究者が行う必要はない。<法学>についてはその意味合いも含めて、別途触れたい。
 勉強・学習→教養→「人格」陶冶・完成、といった、西尾幹二が好みそうな、または旧制高校生が(エリート意識=反・非大衆意識でもって)想定していたような、時代遅れの(だがまだ残っている)観念・意識を捨て去るべきだ。
 ③何のための大学か、したがって何のための「受験」か、「受験勉強」かを、真剣に問う必要がある。
 断片的「知識」の多寡、あるいは「記憶」力や「連想」力の差でもって、せっかく同じくヒト・人間として生まれてきた者たちを<分類>したり<区別>してはならない。
 18-19歳の時点での「記憶」力や「連想」力を基礎にしている「学歴」というものは、文字通りそれだけのことだ。第三者が正解・正答をあらかじめ用意して作った問題に、要領よくかつ可能な限り迅速に解答する能力の、多少の違いを示すだけだ。だが、それ=「学歴」に(良くも悪くも?)一生拘泥する人々がいるのは、悲劇であり、かつ喜劇だ。
 「今」と無関係の、または関係のうすい知識・教養をいくら豊富に持ってても、無意味かほとんど無意味だ。
 「今」を説明し、把握し、少しでも「改める」または「変える」(または改めない・変えない・維持する)判断をするのに役立たない学問は(そもそも「学問」ではないか)無意味だ。
 このあたりは、<人間は、いったい何のために生きるか>という問題に、究極的にはかかわる。
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  文科系学部ないし人文系学問の不要論は、だいぶ前だが池田信夫も主張していた。経済学部は除外されていたかもしれない。
 最近、茂木健一郎は、YouTube 上で、(たぶん文科系でも)大学入試科目に日本史・世界史は不要で、数学が必須だと発言していた。その他、茂木は、いまの入試のあり方・「偏差値」教育に、きわめて批判的だ。
 数学論は別として、現在の高校での(または私に記憶のあるような)日本史・世界史教育や大学入試での出題傾向を前提にすると、これらは「歴史」ではなく、ほとんどたんなる「事項記憶」力を鍛えるだけに終わっている。
 そもそも「歴史」が理解できるためには<ヒト・人間>を知っていなければならない(その意識・心理も含めて)。また、<社会>または人間相互の諸関係のありようを知っておかなければならず、土地や食料等の重要性、自然環境に影響され得ることも、知っていなければならない。
 しかし、現在の高校教育まででは、高校生以下は、これらを理解するにはあまりに幼なすぎる。人間や社会の「歴史」は、絶対にまだ「理解」できない。
 本郷和人が日本史が「暗記科目」になっていると嘆くのは当然のことで、そもそもまだ難しすぎるのだ。
 また、重要な「教養」として日本史・世界史の学修は必要なのだ、と本郷和人や山内昌之は主張するかもしれないが(そのような二人の対談書を読んだことがある)、歴史を学習して「教養」が身についても、それだけでは「今」に役立つという保障は全くない。つまり存在意味がない。
 極論すれば、<お飾り>だけの「教養」など、不要なのだ。
 歴史学ですらそう思えるので、その他の現在「文学部」に配置されている狭義の「文学」や「哲学」なるものの存在意義自体を、したがってまた、「哲学」や狭義の「文学」の研究者・学者の存在意義を、厳しく問わなければならない。
 再び、冒頭の古田の文章に戻る。
 「研究者たちは自分の学問を、今を説明できるような学問にどんどん変えていかなくてはいけない」。
 「どんな学問であっても『すぐには役立たないが、教養として必要だ』という考え方には意味がない」。