古田博司・ヨーロッパ思想を読み解く—何が近代科学を生んだか(ちくま新書、2014)
  古田博司が東洋思想畑の研究者らしく韓国あたりの諸問題について発言していたことは知っていたが、韓国問題についてはもうほとんど関心がなくなっていたこともあって、この人の書物を読むこともなかった(但し、何冊かは所持していた)。
 たぶん昨年あたりに入手した上掲書は、面白い(正確には、面白そうだ)。
 思い切り簡略化して(つまり一部を勝手に削除して)、目次の一部を(体系構成を)紹介すると、こうなる。
 プロローグ/「向こう側の哲学」。
 第一部/「向こう側」をめぐる西洋哲学史。
  第一章・バークリ、第二章・フッサール、第三章・ハイデッガー、第四章・ニーチェ、第五章・デリダ。
 第二部/「向こう側」と「あの世」
  第六章・時間論、第七章・「生かされる生」、第八章・「あの世」と「向こう側」。以上。
 興味深いのは、たぶん「哲学」の基本問題に関係していることだ。それも、ある前提または枠の中で「認識」や「存在」を論じる、その態様の違いではなく、認識・知覚といったものの対象という前提そのものについて、「西洋」・「東洋」・「日本」には違いがある、と指摘していることだ(これをふまえて、バークリからデリダまでの叙述がある)。
 そうだとすると、日本人(または「日本」的思考・認識方法に馴染んだ者)がこの相違に気がつかないで「西洋哲学」に接近しても、根本的なところはほとんど何も理解できないことになるだろう。
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  古田によると、「思考様式」には西洋・日本・東洋の三パターンがある。
 そのまた前提に古田がしているのは、ヒト・人間の「五感」(眼耳鼻舌身・ゲンニビゼッシン)による知覚・認識、ということだろう。問題は、それらと<外界>の関係だ。
 図表らしきものが付いているが、言葉で表現するとやや面倒になる。
 ①「すべて」を「この世」として対象とするのが、日本を除く「東洋」(単細胞型)。
 「あの世」のない儒教的世界観・「この世一元論」だ。
 ②日本は「この世」と「異界」を区別する(単純型)。
 「異界」にはギリギリまで接近するしかない。異界=「向こう側」を「探求」することはできず、「地道で職人的」に「接近」するしかない。
 ③ 西洋では、日本での「異界」の一部は「向こう側」であっても「この世」に属する。この「向こう側」は「この世にありながら見えない世界、我々の五感でとらえることのできない世界」だが、「直観や超越」でもってそれを「とらえ」ようとする(複雑型)。「直観」と「超越」の違いは省略。なお、「この世」に含まれる「向こう側」の奥に?日本では「異界」の一部である「神域」がある。
 「職人芸」によって「接近」するだけか、それとも何とかして「とらえる」のか。ここに日本と西洋の違いがあるようだ。
 そして、まだきちんと読んでいないが、この「とらえ」ようとする試行錯誤が、<西洋哲学史>だ、ということになるのだろう。
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  哲学は森羅万象を対象とするとか、森羅万象の「万物」とかというが、視神経等によっては「見えない」世界(宇宙の深遠から体内のウイルス、電子・光子まで)、死後の世界、生前の世界(あるいは「歴史」)まで、哲学には、あるいはヒト・人間の「思考」には、ひょっとすれば、普遍的なものはなく、あるいは普遍的なものがあっても全部についてそうではなく、大まかには西洋・東洋(・日本)といった違いがあるのかもしれない。
 インドやイスラム世界を含めると、どうなるのだろうか。
 古田の上のような基本的主張・前提も、突っ込もうとすれば、ツッコミ所は多いだろう。
 しかし、「西洋哲学」を逍遥・渉猟して少なくともある程度は理解しているらしきことも含めて、古田には理性的・知性的な(あるいは「学者」らしい)<追求>の姿勢があると見られる。
 この点は、月刊正論(産経新聞社)の執筆者だとしても、渡部昇三、櫻井よしこらとは大きく異なるように見える。
 また、明らかに、西尾幹二よりも、はるかに深いところでの「思考」をしている、と見られる。
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  西尾幹二は、「『哲・史・文』という全体によって初めて外の世界の全体が見える」と書いた(同・歴史の真贋(新潮社、2020))。
 「哲・史・文」の僅か三つだけでは「見えない」し、かつ西尾における「哲・史・文」はいずれも中途半端・表面だけ、ということはすでに書いた。問題は、そんなことよりも(これらも重要だが)、「外の世界の全体を見る」と西尾が記すときに、この人はその意味するところをどの程度深く「思考」したことがあるのか、だ。
 「外界を認識する」と書くことは簡単だが、自分の「外界」の中に、自分の手・足等は入るのか、自分の脳細胞は入るのか、といった問題がある。
 「認識」(見る)主体である自分=「私」とは何か、という問題もある。
 シロウトの秋月瑛二でも知っているような問題を、西尾幹二は思考したことすらないのではなかろうか。根本原因はおそらく、西尾における「自己」の異常肥大、「私」の絶対視にある。ずいぶんと日本的に?、「真実」などよりも絶対的に「私」が重要なのだ。
 これに比べれば、古田博司はずいぶんと冷静だし、深く物事を考えている。物事を、「言葉」の問題に、あるいは「解釈」の仕方だけに、矮小化することはないように(今のところは)感じられる。