Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.781-2。番号付き注記は箇所だけ記す。
 —— 
 第16章/死と離別。
 第一節・革命の孤児⑥。
 (15)革命の孤児たちは、彼らが失った幼年時代のおぞましい風刺画だった。
 路上で生き残る闘いをするため、彼らはやむなく成人のように生活した。
 彼らには独自の用語群、社会集団、道徳規準があった。
 子どもたちは12歳ほどの若さで「結婚し」、自分たちの子どもをもった。
 彼らは積年のアルコール、ヘロインまたはコカインの中毒者だった。
 乞食、密売、小さな犯罪や売春は、彼らが生き残る手段だった。
 彼らは駅に蠅のように群がり、列車から投げ捨てられる食料の切れ端をめがけて突進した。
 多くの子ども乞食は、公衆の前で自らを苛み、辱めて、僅かばかりの褒美を得た。
 Omsk 駅に住んでいたある少年は、5コペイカを貰えるならば自分の糞便を顔に塗りつけたものだ。
 彼らと犯罪者の地下世界の間には、緊密な関係があった。
 子ども暴力団は市場の屋台から盗み、歩行者を襲い、人々のポケットから掏摸をし、店舗や家屋に侵入した。
 捕まえられた者たちは、孤児たちにほとんど同情していない公衆に路上で殴られそうになった。だが、こうしても、彼らの行為をやめさせられなかっただろう。
 市場広場でのつぎのような光景が、ある観察者によって目撃されている。/
 「私は、およそ10歳から12歳くらいの少年が、鞭で打たれながら、手を伸ばして、すでに汚れまみれの一枚のパンを欲しがってがつがつと口の中に詰め込んでいるのを見た。
 背中が、止むことなく打たれた。しかし、その少年は四つん這いになって、パンをなくさないように、急いで一欠片ずつ噛みちぎり続けた。
 これは、パン売場の行列のそばで起きたことだった。
 大人たち—女性—が周りに集まって、叫んだ。
 『悪党そのものだ。もっと、鞭を打て!! こんなシラミがいては安心できない。』」/
 このような孤児たちのほとんど全員は、簡略に売春行為を行なっていた。
 1920年の調査では、少女たちの88パーセントが一時的には売春行為に従事しており、一方、少年たちの中でも同様の数字が出ていた。
 少女の中には、7歳という幼い者もいた。
 性的行為のほとんどは、路上、市場広場、駅のホール、公園で行われた。
 少女たちには、<ひも>がいた。—彼ら自体が通常は10歳代の少年にすぎなかった。そしてしばしば、客から物品を強奪するために少女たちを利用した。
 しかし、いわゆる「おばちゃん」が経営する小児愛的売春宿もあった。彼女たちは子供に食べ物と部屋の一角を提供した。働かせて、その稼ぎで生計を立てた。
 数百万の子どもたちにとっては、これはかつて得たことのない母親的な世話を受ける、親密な事柄だった。//
 (16)1920年4月、Gorky はレーニンに、「すでに3回の殺人を犯した12歳の子どもたちがいる」と書き送った。
 かつて彼自身が路上の孤児だったが、Gorky は、「未成年者の非行」と闘った最初の一人だった。
 その年の夏、彼はその問題に取り組む特別委員会を設置し、居住区画を与えて子どもたちを守り、彼らに読み書きを教えた。
 Kuskova とKorolenko によって1919年に設立された青少年救済同盟も、同様の活動を行った。
 しかし、全部で50万箇所しかなく、路上には700万の孤児がいたので、そうしたことは、問題の表面を引っ掻くことができたにすぎなかった。
 ボルシェヴィキは、1918年の自分たちが宣言した原理では「子ども用の法廷や刑務所はあってはならない」とあったにもかかわらず、ますます刑罰による対処へと移っていった。
 刑務所や労働収容所には数千人の子どもたちがいた。その多くは刑事上の責任能力のある14歳以下の者たちだった。
 この問題を処理するもう一つの方法は、工場が低賃金労働者として子どもたちを雇用するのを認めることだった。
 数千人の労働者が解雇された内戦時ですら、青少年の雇用が増大していた。そうして雇用された者の中には、とくに搾取的実務が消え去っていない小さな工場には、6歳の子どももいた。
 青少年については6時間に労働時間を制限し、雇用者に2時間の教育を義務づけるべきだ、という広範な呼びかけにもかかわらず、当局は介入しないことを選び、「路上での犯罪で生活させるよりは、働かせる方がよい」と主張した。その結果として、未成年者の多くが毎日12時間ないし14時間働くこととなった。(*14)//
 (17)子どもたちは、立派な兵士になった。
 赤軍の中には、多数の十歳代の若者がいた。
 物心ついてからの人生全てを戦争と革命の暴力に包まれて過ごしてきたため、彼らの多くは、間違いなく、人を殺すのはふつうの生活の一部だと考えるようになっていた。
 この小さな兵士たちは、言われたとおりに行う気持ちをもつ、という点が顕著だった。—上官たちはしばしば威厳ある父親の役割を果たした。また、とくに両親の殺害者に対して復讐をしていると信じるに至ったときには、敵を容赦なく殺戮する能力をもつ、という点についても。
 皮肉なことだが、路上でそのまま生活していただろうときよりも、この子どもたちは、軍の中にいる方がはるかに恵まれていた。—軍は彼らを自分の子どものように扱い、衣服、食べ物を与え、読み方を教えすらした。
 ——
 ⑦へとつづく。