Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).=オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 試訳のつづき。p.776-8。注記は箇所だけ記す。
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 第一節・革命の孤児。
 (7)1921年春までに、ソヴェト・ロシアの農民の4分の1が飢えていた。飢饉はヴォルガ地帯だけを襲ったのではなく、ウラルやKama盆地、ドン、Bashkiria、カザフスタン、西シベリア、南部ウクライナをも襲った。
 飢饉に伴ったのはチフスとコレラで、これらは空腹ですでに弱っていた数十万の人々を殺した。
 最も酷かったのは、ヴォルガ平原だった。
 Samara 地方ではほとんど200万人(人口の4分の3)が1921年の秋までに飢餓で死にかけていた、と言われている。彼らのうち70万人は実際に、その危機が終わるまでに死んだ。
 典型的な行政区画のBulgatovaには1921年1月に1万6000人の人口があったが、1000人が死亡し、2200人が自分たちの家を捨てた。そして6500人が、その年の11月までには植えと病気で動けなくなつた。
 ヴォルガ地帯全体で、飢えた農民たちは、草葉、雑草、木の葉、苔、樹皮、屋根の葺き藁、どんぐりで作られた床、おが屑、粘土、馬の肥料を食べ始めた。
 彼らは、家畜を殺戮し、ねずみ類や猫、犬を捜し求めた。
 村落には、死の静寂があった。
 ほとんど骨だけになって腹をふくらませた人々、子どもたちは、犬が死ぬときのように静かに横たわった。 
 Saratov のある救援労働者は、こう記録した。
 「村民は、生きることを諦めていた。疲れ果てて、不平を言うことすらできなかった。」
 強さを残す者は荒れ果てた農場を板で囲い、荷車の上に僅かの持ち物を包んで乗せて、食糧を求めて町へと逃げ去った。
 町の市場では、数塊のパンを、一頭の馬と交換することができただろう。
 多数の人々はそうできずに、消耗して、道端で死んだ。
 膨大な数の群衆が、他地方へ行く列車に乗ろうという虚しい望みをもって、鉄道駅に集中した。—他地方とは、モスクワ、ドン地域、シベリア、そして食糧があると噂されていればほとんど全ての地方。
 彼らは、疫病蔓延を制限せよとのモスクワの命令によって、飢饉の地帯からの輸送は全部止められていたことを、知らなかった。
 以下は、1921年夏の、Simbirsk 駅での光景だ。
 「汚いぼろ服の一団の民衆を、想像してみよ。その一団の中には、傾けた裸の腕があちこちに見える。顔には、すでに死斑が捺されているようだ。
 とりわけ、ひどく厭な臭いに気づく。通り過ぎることはできない。
 待合室、廊下、一歩進むたびに人々が覆ってくる。彼らは、身体を広げたり、座ったり、想像できるあらゆる姿でうずくまっている。
 近づいて見れば、彼らの汚れたぼろ服にはしらみ〔虱〕が充満しているのが分かる。
 チフスに冒された人々が、彼らの赤ん坊と一緒にいて、這い回り、熱で震えている。
 育てている赤ん坊たちは、声を失なった。もう泣くことができない。
 20人以上が毎日死んで、運び去られる。しかし、全ての死者を移動させることはできない。
 ときには、生きている者の間に、死体が5日間以上も残っている。/
 一人の女性が、幼児を膝の上に乗せてあやしている。
 その子どもは、食べ物を求めて泣いている。
 その母親は、しばらくの間、腕で幼児を持ち上げる。
 そのとき、彼女は突然に子どもをぶつ。
 子どもは、また泣き叫ぶ。これで、母親は狂ったように思える。
 彼女は、顔を激しい怒りに変えて、猛烈に子どもを叩き始める。
 拳で小さな顔を、頭を雨のごとく打ち続けて、最後に、幼児を床の上に放り投げ、自分の足で蹴る。
 戦慄の囁き声が、彼女の周囲でまき起こる。
 子どもは床から持ち上げられ、母親には悪態の言葉が浴びせられる。
 母親が猛烈な興奮状態から醒めてわれに戻ったとき、彼女の周りは、全くの無関心だ。
 母親はその視線を固定させる。しかし、きっと何も見えていない。」(*6)
 〔試訳者注記—Richard Pipes, Russia under the Bolshevik regime (1993) のp.412-3 (第8章第10節)に、上と全く同じ長い文章が引用されている。試訳済み→No.1516/2017.04.25。
 (8)ある人々は、飢えによって人肉喰い(cannibals)に変わった。
 これは、歴史家がこれまでに推測してきた、きわめてふつうの現象だった。
 飢饉が最悪だったBashkir 地方、Pugachov やBuzuluk の平原地帯では、数千の事例が報告されている。
 人肉喰いのほとんどは、報告されないままでもある。
 数人の子どもを食べて有罪とされたある男は、例として、こう告白した。
 「我々の村では、全員が人肉を食べ、それを隠した。
 村には、カフェテリアがいくつかあった。—それらはみな、幼い子どもたちを提供していた。」
 このような現象は、冬が始まるとともに、およそ1921年の11月頃にはなくなった。その頃には、地上にある食糧の代用物を初雪が覆い、食べるものが何もなくなった。
 子どもたちを育てるのに絶望した母親たちは、死体から四肢部分を切り取り、生肉をポットで茹でた。
 人々はみな、自分の縁戚者だった。—しばしば幼い子どもたち。子どもたちはふつうは最初に死に、その生肉はとくに美味かった。
 いくつかの村では、農民は死者を埋葬するのを拒んで、獣肉であるかのように、納屋や牛小屋に貯えた。
 彼らは救援労働者に対してしばしば、死体を持っていかず、食べさせてくれ、と頼んだ。
 Pugachev 近くのIvanovka の村では、死んだ夫を食べたとしてある女性がその子どもと一緒に逮捕された。そして、警察が夫の遺体を取り去ろうとしたとき、彼女は叫んだ。
 「私は彼を捨てない。我々には食料として彼が必要だ。彼は我々の家族だ。だから、誰にも我々から彼を取り去る権利はない。」
 墓地から死体を盗むのがありふれたことになったので、多くの地域で武装監視兵が墓地の入口を監視するために配置された。
 生肉を求めて人々を探したり殺したりすることもまた、ふつうの現象だった。
 Pugachev の町では、暗くなってから子どもたちが外出するのは危険だった。そこには人喰い者の盗賊と商売人がいて、子どもたちを殺し、柔らかい人肉を売っている、と知られていたからだ。
 Novouzensk 地方では、人肉を求めて成人を殺害する子どもたちの盗賊団もあった。
 そのような理由で、救援労働者たちは武装していた。
 自分たちの赤ん坊—たいていは女児—を殺す親たちの事例すらがあった。その肉を自分たちが食べる、または他の自分の子どもたちに食べさせるために。//
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 ④へとつづく。
 左は2017年版、右は1996年版の各表紙。本文の頁番号、各頁の内容は同じ。


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