レフとスヴェトラーナ、No.27。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.156〜p.162。一部省略している。
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 第7章③
 (31) 移送車に乗せられるという危険は、1948年には現実的だった。その頃、第四入植区が開発中で、木材工場の受刑者たちがそこへ運ばれていた。
 <以下、略>
 (32) レフは6月24日にスヴェータに書き送った。「収監者たちの大部隊」が不穏状態に対処するために北シベリアの収容所へと移されるという噂がある、と。
 彼は状況を明らかにできるまではどんな小荷物も送らないように、スヴェータに警告した。自分自身を含む政治犯が最初に、可能性としては「つぎの数日以内に」、移送車へと選抜されるのではないかと予期していたからだ。
 6月25日にもう一度書いて、今度はペチョラへの旅を計画しないように助言し、自分が移送された場合に備えて、Aleksandrovich 経由で手紙を送るように頼んだ。/
 「スヴェティッシェ(Svetische)、来ることを考えているきみへの助言です。旅をするために休暇をとってはいけない。
 仕事の旅行に特別の努力が何も要らないとき、本当にそのときだけ、ここに来ることを考えて。
 うまくいく可能性は、あさっての段階では実際には無きに等しくなるだろう。
 最も重い条項(58条)による者はみんな、仕事をやめさせられているように見える—『一般的』業務をしている者以外は。そして彼らは、「増強体制」〔原書注記—省略(試訳者)〕と再定義されている第三入植区(川そば)へと再配置されている。
 きみがたとえ短時間でも、工業地帯(僕たちが今働いている所)に滞在するのは完全に不可能だろう。
 ただ個人的な例外があるときにだけ、可能だろう。
 でも、もう一度言うけど、その可能性は実際にはゼロです。—今度は、とても困難になりそうだ。…
 一番良いのは、訪れようとしないことだ。
 スヴェト、聴いていますか?
 僕が言うようにして下さい。
 これが僕の最終決定だと受け入れて下さい。… 
 スヴェト、分かった?
 これが今の状態です。
 先のことは、後で話し合いましょう。今の時点では何が起きるのか推測すらできないのだから。…
 必要なときには、'Zh(aba)'(Aleksadrovich)が新しい仕事を得たときに数日以内に、新しい宛先の住所を伝えます。
 でも、その住所は、頻繁には使わないで。
 当面かぎりのものです。 
 スヴェティッシェ、もう一つだけ。
 この手紙を保管してはならない。—番号を振っていないのは、そのためです。
 受け取ったことを僕に知らせるよう、手紙を下さい。—念のため、25日付で配達されたもの。」/
 スヴェータは、レフが望んだようにはしなかった。
 彼の手紙は貴重だった。スヴェータは、全てを残し続けた。
 レフと逢うという計画を断念することも、しなかった。//
 (33) レフとスヴェータは、4月以降、二度目の旅について語り合ってきた。
 スヴェータは今度は、前よりはるかに不安がった。
 元々の計画は、夏に行くことだった。
 彼女の上司のTsydzik は、前年よりも多く時間をとるように助言して、その考えを励ました。 
 4月16日、スヴェータは、レフにこう書き送った。
 「昨日、M. A.(Tsydzik)が、いつKirov へ行こうと計画しているのかと尋ねました。
 8月の休暇を申請した、その月のKirov のタイヤ工場の定期検査のために名前を登録した、と彼に告げました。
 でも、彼は言いました。『7月に行きなさい。その方が暖かい。また『sit』〔原書注記—刑務所に「座っている」人々をこう呼んだ〕でしばらくの間は、きみは去年と全く同じように全てのことをする必要がないから』。
 そして、今はそうなっています。
 でも、今度は前回よりもはるかに恐ろしい。
 どういう訳か、うまく行かない結末への覚悟を、前よりもしています。そして、ほんの少し無感情です。
 でも今は、考えることすらできない。」//
 (34) 5月の末、Kirov への業務旅行の終わりに北へ旅するというスヴェータの計画は、危うくなった。
 研究所が、協力組織から予定されている支払いがまだ行われていないので、科学者による検査は延期すべきだと警告していた。
 スヴェータはレフに書いた。
 「仕事の旅行を夏の間にすることになれば、7月の休日を利用します。
 望んでいることではありません。
 私が不在であると研究所で目立つので、必ず気づかれます。そして、みんながどこにいたの、何を見たの、と訊き始めるのです。」
 レフは同意しなかった。 
 Tsydzik の助言に従った方がよいと感じた。彼女の旅を隠す彼の助けに依存しているのだから、と。
 レフはまた、7月よりも後に旅行するのは「困難なことになるかもしれない」と怖れた。
 7月8日、スヴェータに手紙を出して、かつてペチョラに来たときに出逢いを提供したTamara Aleksandrovich に旅行の詳細について書き送るように言った。
 (35) しかし、今ではシベリアへの移送の噂が広まった。レフは、自分は第三入植区へと移動されようとしていると考えて、6月25日にスヴェータに、全ての計画を廃棄するように促す言葉を送った。
 このメッセージを送った後で、6月27日に判明したように、状況は再び変化した。
 レフは書いた。
 「気まぐれな地方の(または地方のでない)権力の最新の決定で、全ては現状のままに、またはほとんどそのままに、残ります。少なくとも来月の間は。提起された改革(6月25日の僕の手紙を憶えている?)が実施されないと、計画の達成がひどく困難になるからです。」
 受刑者たちの移送車が、シベリアから第二入植区に到着したばかりだった。
 レフは「シベリアは、第三入植区の後に我々を動かすと計画されていた場所だ」と説明した。そして彼は、これは受刑者たちを送るのを遅らせる決定が下されたことに「ある程度の信憑性」を与える。と考えた。
 彼はこう思った。
 当局は「最も重い条項による『信頼できない者たち』を集中させる場所にしようとしている、というのはあり得る。
 スヴェータ、25日の僕の手紙の助言は生きたままだ。
 この手紙の紙切れは、速読のためのものにすぎない。
 すみやかにもう一度書きます。でも、これを今すぐ送らなければならない。」//
 (36) 7月1日、レフは、第二入植区が政治犯たちの「増強体制」になろうとしていること、より軽い判決の者たち、いわゆる「ふつうの条項」(窃盗、殺人、ごろつき、労働放棄等々)による者たちは生活条件がまだましな第三入植区で維持されようとしていること、を確認した。 
 レフはこう付け加えた。
 「見るところ、我々(第二入植区にいる政治犯)に特別の制限を加えようとしているのではない。でも、いま工業地帯の内部で生活している自由労働者たちは、立ち退かされようとしている。自由労働者と専門的被追放者が雇用されていた小さな生産単位とともに」。
 自由労働者たちが工業地帯から離れることは、スヴェータがAleksandrovsky の家でレフと逢った、前年のような取り決めを反復するのを全て排除することになるだろう。//
 (37) 工業地帯内部での治安確保措置が強化されたことについて、レフは正しかった。自由労働者たちの排除が切迫しているという風聞は、全体としては正確ではなかったけれども。
 木材工場の収容所幹部たちは実際に、自由労働者と受刑者の間の接触を撲滅するためにより警戒することを決定していた。
 5月12日の秘密の党会合で、彼らは、手紙類の密送(smuggling)、ウォッカの黒市場、収監収容所への権限なき訪問者による悲合法の立ち入り、等の多数の治安違反について、こうした〔自由労働者と受刑者の間の〕接触が原因となっている、ということに合意していた。
 彼らは、自由労働者を工業地帯から外に移動させることについて考えた。しかし結局は、地帯の外での新しい家屋の建築が必要になるので実際的ではないという理由で、その案を却下した。
 その代わりに幹部たちが決定したのは、自由労働者が生活する居住区画と残余の工業地帯の間の分離を、監視員小屋付きの新しい鉄条網の塀を立ち上げることで強化する、ということだった。//
 (38) スヴェータはその夏にペチョラへ旅するという計画を進行させていた。
 6月25日、まさにレフが彼女にまだ届いていない手紙を書いていた日に、レフに書き送った。
 「問題は解消されました。
 Kirov へ行き、そして昨年のようにすぐに向かうつもりです。
 休暇期間を延長して、私が本当にいたいところで、できるだけ長く過ごします。」
 4日後、研究所の会計主任が、早くても8月末まで業務旅行用の金がない、と彼女に告げた。それでスヴェータは、休日の日程を7月へと変更することを申し出た。
 そのときにペチョラへと旅するつもりだった。
 彼女は、7月10日頃に出発する予定にした。そして、Lev Izrailevich〔レフの同名人—秋月〕に手紙をすでに出して、自分の到着予定を知らせた。 
 Tsydzik は休日について同意したが、スヴェータの本当の計画を隠す手段として、ともかくもKirov へ行くように彼女に助言した。//
 (39) 7月8日、スヴェータは、レフの手紙を受け取った。治安が強化されたこと、彼女が来るのは勧められないこと、が書いてあった。
 彼から新しい知らせを受け取るまでは何もしようとはしなかった、とスヴェータは〔後年に?—試訳者〕語った。
 夏の期間の実験所について責任をもつ、誰かがいる必要があった。
 それで8月中ずっと、Tsydzik が休暇で過ごしている間、モスクワにとどまろうとした。そして9月には出発して、ペチョラへか、またはそこはまだ可能でなけれぱ、モスクワから北東に100キロメートル離れたPereslavl'-Zalessky へ行くつもりだった。Pereslavl'-Zalessky では兄のYaroslav が一週か二週の間別荘を借りていたので、そこに滞在することになるだろう。//
 (40) レフはこの頃、治安強化の影響を感じていた。
 7月7日付でスヴェータにこう書いた。
 「彼らはゆっくりと、あらゆる種類の新しい厳しい規則をここに導入している。今のところは重大な不快さを被ってはいないけれども。」
 彼は10日間、スヴェータからの手紙を受け取っていなかった。そして、これが新しい体制〔「増強体制」〕の結果なのかどうかを知らなかった。
 「全てのものは変化し得る。一振りで色は変わる。カレイドスコープのように」。//
 (41) 翌日、レフはLev Izrailevich と連絡をとった。
 発電施設から電話をかけた。そこには工場ので火災が起きた場合に備えて一台の電話器があった。そして彼から、スヴェータはなおも旅行を計画していることを知らされた。
 治安確保措置が、順調に稼働していた。
 7月半ば、政治的受刑者用の新しい移送車が到着する準備として「特別追放者」が工業地帯から移動させられた。このことは、木材工場は特殊な体制の収容所になるだろうとのレフの考えを強めた。
 7月21日、レフはスヴェータに対して、この夏に出逢いを計画するのはきわめて困難だと、再び警告した。
 彼は書いた。
 「たぶん1949年はより良い年だろう。
 いわゆる増強体制が、来週を待たずに実施されようとしている。」//
 (42) 休暇を遅らせると決めたにもかかわらず、スヴェータの母親は、休みをとって、Pereslavl'-Zalesskyにいる兄の家族に7月半ばから加わるよう説得した。
 彼らの木造の夏の家には果樹園があり、松林に囲まれた静穏な湖を見渡せた。
 美しくて、閑静だった。
 彼らは湖上にボートを浮かべ、きのこ狩りをした。
 スヴェータは、たくさん寝た。
 しかし、レフなしでは精神的な安らぎを見出すことができない、と感じた。
 7月23日に、こう書いた。
 「私の大切なレフ、一週間がもう過ぎ去り、私は何も書かなかった。
 睡眠を取り戻し、日光浴をしました。
 みんなが、私は少し明るくなったと言います。
 私は自分らしく、分別をもって振る舞っています。泣いてはいません。
 あなたについて考えないようにしていますが、朦朧とした中であなたに逢っているところの夢を見ました。
 あなたの手紙、そこに書かれていること、何が可能で何が可能でないかについて考えないように、きつい皮ひもで自分を縛りつづけています。
 ここでひどく悪いということは決してありません。でも、これは私の頭が語っていることで、心(heart)の言葉ではありません。
 湖、森林、あるいは私の存在とともにある空気を、楽しむことはできません。
 私の身体は休んでいますが、心(soul)はそうではありません。」//
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 第7章③、終わり。
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 下は、原書の巻末にある地図・図面の一つ。
 青緑で囲まれた(鉄条網つき)区域がWood-Combine=「木材工場」と試訳。この中に〔下で記載はないが、斜め下半分弱?〕、Industrial Zone =「工業地帯」があり、その端(工場全体では中心に近い所)に<発電施設>がある。
 木材工場地区の中に「2nd Colony 」=「第二入植区」がある。第三入植区と診療所は外。
 右上からの赤色の線は、1947年にスヴェータが来るときはLev Izrailevich と二人で、帰りは一人で歩いた道〔ほとんどが「ソヴィエト通り」で、角から正門までだけをSchool Street と言うようだ)。


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