レフとスヴェトラーナ、No.26。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。p.148〜p.156。一部省略している。
 ——
 第7章②。
 (16) スキーとスケートは、スヴェータの気分を高めた。
 3月10日、彼女はレフに書いた。
 「いま躊躇なく楽しめるのは、スキーをすることです。—文学、演奏会よりも、人々さえよりも。
 日光が隙間から入り込む森林はとても美しく、とても(言葉の全ての意味で)純粋だから、生きるのはよいことだと思い(そしてふと大声を上げて)わが身を感じます。
 なぜか分からないけれど、辛くはありません。
 ある種の幸福の生理学(psysiology)なのでしょう。」/
 スヴェータは、冬のスポーツをもっとして過ごしたかった。彼女の母親は、スヴェータは体調がまだ良くないと思って、家に閉じ込めようとしたけれども。
 レフだけが、彼女自身の生活をして抑鬱に打ち克つために、もっと外出するよう励ました。
 4月15日に、彼は書き送った。
 「どこかへ行って下さい。
 身体に良いうえに、きみの内面状態にとって重要なことです。外部的側面と同様にきみの心に大きな効果があり、ときには感情の根源になるかもしれない。」
 彼は、スヴェータの健康を心配して、叔父のNikita に手紙を出して、彼女を見守ってくれるように頼んだ。
 4月にNikita にこう書いた。
 「彼女は直接にはそう言わないけれども、いろいろな点でとても辛い状態なのです」。
 (17) スヴェータには、信頼できる女性友達の小さな仲間があった。
 Irina Krause とAleksandra Chernomoldik は別として、とくに長い時間をともにした三人の女性たちだった。
 それぞれみな、夫と子どもを失っていたが、それでも苦しみと共に生きる術を見つけていた。スヴェータは、彼女たちの苦しみに同情し、自分もその仲間だと考えるようになった。
 まず、Lydia Arkadevna という同じ研究所出身の女性がいた。この人はスポーツと登山がとても好きで、スヴェータがスキーに熱心になるのを促した。/
 <以下、略>
 (18) つぎに、Klara という若い女性もいた。この人は研究所の技術助手の一人で、その家族は戦争中に抑圧された。
 Klara 自身も、研究の最初の年にKharkov 化学技術研究所から追放され、その後に数年間の流刑に遭った。スヴェータの手紙の一つでの論評から判断すると、「地理の知識が多すぎたこと」が彼女の問題の根にあった。
 <中略>
 Klara も子どもを亡くしていた。
 夫はペチョラにいる受刑者で、そこへと複数回旅をしてその夫と逢っていた。その際、Tamara Aleksandrovich の所に滞在した。
 <以下、略>
 (19) 最後に、物理学部以来のレフとスヴェータの友人である、Nina Semashko がいた。この人は戦争で夫のAndrei を失い、その後に赤ん坊の男の子を亡くした。
 Nina の子どもの死についてレフに書き記しながら、スヴェータは自分自身の苦しみに触れた。/
 「誰かを埋葬するのはいつも辛いことですが、小さくて幼い子の場合は全く違います。
 外部者は子どもの現在だけを知るでしょうが、その母親にとって現在は過去にさかのぼり、また未来へと展開します。
 9ヶ月待って、11ヶ月間育てただけではなく、その前に長く、願望と失望(あるいは可能かどうかすらについての不安)があったのです。
 私が詳細を知っているかは分からないけれど、この未来は全てであり、直前まではたくさんの計画と夢です。これには、孫をもつという望みも含まれます。
  そして、それ(子どもの死)はこの全てを剥ぎ取ってしまい、これを満たすものは何も残されていないように見えます。
 幸いにもこの世界では、苦痛が時間が経つにつれて和らぐものです。…
 Nina はまだ十分に若くて、自由があります。—新しい子どもで空虚を充たすことを決意する自由。でも今は、そんなことについて彼女と話題にするときではありません。
 彼女は今は、人が不運であれば何かを追い求めたり、幸せを探したりする所はない、と言うだけです。」//
 (20) スヴェータは、子どもをもつことを強く望んだ。
 彼女は、30歳だった。
 レフが釈放されるまで、少なくともあと8年間待たなければならないだろうことを、知っていた。あるいはそもそも、彼が戻ってくることはないかも知れなかった。
 彼女が「人生が始まる」のを待っていると書いたときに意味させていたのは、おそらくこのことだつた。
 ペチョラへと旅したあとで、スヴェータは、自分の未来—彼女の「全て」—はレフと結びついている、と確信した。
 しかし、レフが収監者であるぎりは子どもを持つことはしない、と二人は決めていた。
 レフは、後年になって、この自分たちの決定について想起する。
 「私は、彼女の将来を自分の現在や将来と妥協させたくなかった。
 私への愛を理由として、彼女の運命を犠牲にするのを望まなかった。
 だから、子どもたちに縛られるのを私は望まなかった。
 スターリンが生きているかぎり、何が将来に起きるか、誰にも分からない。
 私は、良いことを何も期待できなかった。
 そのような状況で—私は彼女を助けられず、彼女と子どもは恐ろしい生活条件のもとに置かれるかもしれない—、スヴェータに子どもという負担を課すのは、私にはできなかった。
 スターリン時代には、労働収容所から釈放された元受刑者は、つまり私のような「人民の敵」は、ふつうの生活をすることが不可能だった。
 しばしば再逮捕され、あるいは流刑〔国外追放〕に遭った。…
 私は、スヴェータと彼女の家族に恐ろしい困難と不幸を負わせることができなかった。二人が子どもを持てば、彼らはきっと苦しむことになっただろう。
 しかし、スヴェータは、子どもが欲しかった。」//
 (21) スヴェータは全ての母性的愛情を、Yara〔実兄〕の子どものAlik に注いだ。
 彼女の手紙類は、明らかに熱愛した、甥の男の子に関する定期的な報告を含んでいる。
 彼女は、こう書いた。
 「レーヴァ、Alik は8歳ではなく、7歳になりました。日曜日にわれわれは彼の誕生日を祝いました。
 <中略>
 すでに書いたように、Alik は7分の1は5分の1よりも小さいことを理解します。Lera が(学校から来て)全数字から一部を減じる仕方(とてもむつかしくはない)を教えました。
 彼はいま、工作に興味をもつようになりました。
 何かを分解し、もぐり込み、すっかり逆にして戻します。
 まだ自分の綺麗好きに気がついていません。
 でも、私には、子どもを『教育する』方法が全く分かりません。」//
 (22) 実際に、スヴェータの母親のAnastasia は、保育園の教師として働くことを考えるよう彼女に提案していた。
 スヴェータは自分の科学者としての能力を疑っていて、母親は、小さな子どもたちと一緒にもっと過ごせば彼女は幸せになるかもしれない、と考えた。
 レフは、その考えを勧めた。
 しかし、スヴェータは結局は、それに反対することに決めた。母親となる経験がなく、「子どもたちがどのようにして成長するか」について知らないのが、その理由だった。//
 (23) その間、Alik が来て彼女と一緒にいるのをスヴェータが好んだ。
 その子のやんちゃぶりは、自分の子ども時代を彼女に思い出させるものだった。
 <以下、略>
 (24) 偶然に一致して、レフも、「相談者、兼子ども世話係」の役割を果たしていた。
 〔1947年〕10月5日、スヴェータがペチョラからモスクワに到着したその日、レフに訪問者があった。
 「一人の女の子が発電施設にやって来て、僕が『われわれに会うために来たの?』と尋ねた。『そう』、『じゃあ、こっちにおいで』。
 <中略>
 われわれはすぐに親しくなった。僕は、彼女の名前がTamara Kovalenko で、Vinnytsa 出身、そして父親は厩舎で働いていることを知った。」/
 Tamara は11歳だった。
 彼女にはLida という姉、Tolik(Anatoly)という弟がいた。
 彼らは、洗濯所で働いていた母親に遺棄された子どもたちで、ぼろ服を着て、靴を履いていなかった。そして、父親が家計のほとんどをウォッカに使っていたため、いつも腹を空かしていた。 
 Kovalenko 家は木材工場の中の500の「特殊流刑房」の一つにあった。彼らの多くは刑務所地帯のすぐ外の第一入植地区の営舎に住んでいたが、Tamara のような子どもたちは、自由に労働収容所の周りを歩き回った。
 子どもたちは停止を求められず、監視員に探索されることもなかった。それで、収監者たちのために使い走りをし、収監者は彼らに甘菓子や金銭を与えたり、作業場で木材の玩具を作ってやったりした。
 町の子どもたちは、刑務所地帯の近くの周囲で、玩具を探したものだ。収監者はときどきそこへと、塀越しに木製玩具を投げていた。
 この何ということのない贈り物は、労働収容所の周囲の多くの家庭にあった。木製玩具は、収監者たち自らの子どもたちへの恋しさを思い出させるものとして、また、彼らへの人間的同情を得るものとして、役立っていた。//
 (25) Tamara は、毎日レフを訪問するためにやって来た。
 彼はTamara を好み、食料を与え、読み方と計算の仕方を教えることを始めた。
 10月25日に、スヴェータに書き送った。
 「僕は、今日再び、父親のリストに載りました。
 <以下、略>」/
 まもなく、Lida もやって来た。
 「彼女は年上で、…成長した振る舞いをした。
 二人の姉妹は、三人の電気技師と一人の機械操作者の娘たちになった。
 でも、二人は僕を第一の『パパ』と思っているように見える。」
 <以下、略>
 (26) レフは、懸命に勉強した。見つけた全ての本で電気技術について読み、発電施設の機能を改良するよう努めた。発電施設の容量が乏しいことは、木材工場での生産を妨げることを意味した。
 <以下、略>
 (27) レフは、木材工場の気まぐれな作業文化に対して、きわめて批判的だった。
 この場所は「まぬけたち」が運営していてると思い、上司たちが冒している「愚かさ」についてしばしば書いた。生産を高めようとする彼らの全ての決定が、頻繁な機械の故障、事故、火災その他の混乱につながった。—これで、計画を達成するのが困難にすらなった。
 <以下、略>
 (28) レフが発電施設の働きを改善しようと努力したのは、完全に自発的なものだった。
 彼の動機は政治的なものではなく、言ってみれば、システムを信じて発電施設を稼働させようとしている古参ボルシェヴィキのStrelkov のためだった。 
 レフはその本性からして真面目で、仕事に誇りと関心を持っていた。
 スヴェータにあてて書いた。
 「時計の音が何か奇妙だと、部屋で平穏に座っていることができません。
 『チクタク』と『タクチク』の間の時間が一定していないと、落ち着けないのです。
 われわれの電気技師たちの仕事を見ると、最良の者でも、もし僕が管理者であれば、彼らに対する非難はどんなものになるだろうか、と思います。」
 これに、当の技術者たちも同意しただろう。/
 「ここの操作者の一人が、僕はいつも何かすることを探している、と言った。
 『レフ、きみは頭脳(smack)のない馬鹿のようだ』。
 これは、ぞんざいだが、適確な比較だ。
 ある人間は、歩き回って何か建設的なことを得るために探し、それを見つけると安心する。
 別の人間は手間取って、余計なことに口を出し、みんなを邪魔し、ついにはそのために頭をぶたれる。そして、教訓を得るが、何にもならない。」//
 (29) しかし、工場でのレフの努力には、真面目さ以上のものがあった。
 それは、自負心、収監者でいる間に何か肯定的なものを達成したいという情熱、だった。おそらくは、こう認識してのことだろう。すなわち、もし時間をすっかり無駄に費やして収容所から出ために、精神の適切な枠組みをもって自分の人生を再構築しなければならないのだとすれば、この数年のうちに何らかの新しい技能を少なくとも学んでおく必要がある、と。
 (レフは収容所時代を振り返って、木材工場を稼働させるために発電施設の能力の改良によって達成したことを、いつも誇りとした。)
 彼にはまた、消極的で自己破壊的な考えが生じて、仕事して日々が過ぎていくうちに自分自身を見失わないように、気晴らしをする必要もあった。これは多くの受刑者が採用した生き残りの方法だった。〔原書注記—これは、Aleksandr Solzhenitsyn(A・ソルジェニーツィン)の小説、'One Day in the Life of Ivan Denisovich' の主要なテーマの一つだ。〕//
 (30) 自己防衛もまた、一つの役割を果たした。
 電力施設での有能性を示すことで、彼は特権的な地位を維持し続け、移送車で別の場所に送られる—レフの最大の恐怖—または材木引き揚げ部員に戻される、という危険を減少させることができた。
 1948年5月、木材工場の「補助活動部署」(発電施設を含む)のための新たな賞揚(credit)制度が導入れた。
 これ以来、受刑者がその生産割当の100から150パーセントを達成した日々について、一日あたり1.25が加算される。
 150から200パーセントの場合は、一日につき1.5。
 200から275パーセントの場合は、一日につき2。
 そして、275パーセント以上の場合は、一日に3。
 レフは、スヴェータに、こう書き送った。
 「それで、一日について〔プラスが〕4分の1だとすると、一月あたり6.5日と同じを意味し〔0.25x26日=6.5—試訳者〕、あるいは一年あたり2.5ヶ月と同じを意味する〔6.5x12月=78—試訳者〕。
 組織の長がとくに優秀と評価した場合に賞揚が付加される可能性もある。また、成果が少ない場合には賞揚を全て失うこともある。…
 一種の賭けだ。」//
 ——
 第7章②、終わり。