レフとスヴェトラーナ、No.18。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。原書、p.92-p.98。
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 第5章①。
 (01) 収容所システムで働く人々のうち重要な部分は、受刑者たちでは全くなく、賃金を支払われる自由労働者(free workers)だった。
 労働収容所にはいつでも一定割合の自由労働者がいたが、戦後になって、とくに材木引き揚げや建設の部門で、その数が増加した。それらの部門では、大きな集団の収監者たちが手でかつて行ったいた作業が、次第に機械化されていたからだ。
 このために、新しい機械類を運転する技術や専門能力のある賃金労働者を募集する必要が生じた。
 1940年代の末には、建設にかかる収容所の労働力のうち4分の1以上が、自由労働者だった。
 (02) 自由労働者たちのほとんどは、判決に服したあとどこにも行けない、従前の受刑者だった。
 大テロルの時代の8年や10年の判決が終わった戦後には、数百万人のこうした労働者たちがいた。
 官僚制的な障害によって、彼らの多くは収容所から出て行くのを妨げられた。
 典型的に言えば、MDV〔内務省〕が出所証の発行を拒んだとすれば、専門家や熟練技術者は労働収容所で働きつづけることを余儀なくされただろう。
 他の者たちは、帰るべき家庭がないため、家族との関係を失なっていたため、あるいは収容所の誰かと結婚していたために、労働収容所にとどまった。
 (03) ペチョラ木材工場には、1946年に、445人の自由労働者がいた。
 ほとんどは、管理者や専門家としてMVDに雇われていた。
 彼らは、種々の場所で—ある程度は刑務所地帯内部に—家族と一緒に住んでいた。刑務所地帯には発電施設から遠くないところに自由労働者用の家屋地区があり、他の家屋地区は、内部で働く者用だったが地帯の外にあつた。
 生活条件は、収監者たちと比べてはるかに良い、ということはなかった。
 多くの者が、寄宿舎や仮設家屋で群がって生活した。一つの部屋を6人ほどの多数で分け合っていた。
 木材工場の党指導者が検討した1946年10月の報告書によると、刑務所地帯内部の自由労働者たちには、一人あたり1.8平方メートルの居住空間があった。—この数字は、収容所規則で各受刑者に許された1.5平方メートルと比べて、大して広くはなかった。
 一階建ての木造家屋には、水道の供給や衛生設備がなかった。ほとんどの屋根は、雨漏りしていた。
 そのような木造家屋には、基本的な家具もなかった(労働収容所ではそれを製造していた)。
 居住地区自体は収容所のきたない一角にあり、外には街灯、洗い場やトイレはなく、水を汲む井戸が一つだけあった。
 その場所には木材工場のおが屑、樹皮や焚き付けが散乱していた。—これらは火災の危険があり、ねずみを喜ばせた。
 (04) 自由労働者は木材工場の運営に重要な役割を果たしたけれども、徐々に受刑者に似た状態になっていった。自由労働者に疑念を持っていたMVDや労働収容所の党指導者が想定した以上に、彼らはかつての収監者として同情の気持ちをもった受刑者に近づいていった。
 木材工場の党書記であるVetrov は、1945年12月に、自由労働者を論議する会合で、こう発言した。
 「我々はソヴィエト権力に抵抗してきた、不満をもつ者たちに囲まれている。
 もっと警戒し、自発分子の中への我々の宣伝活動を増加させなければなない。」
 (05) 収容所運営者の懸念の対象は、とくに自由労働者と収監者たちの混合だった。
 収容所内部では、居住区画の実際上の分離がなかった。—居住区画には、自由労働者の家屋、管理用の建物、職員用食堂、クラブ・ハウス、店舗があった。—そして、工場地帯の残りは、レフのような収監者が勤務交替時に監視なく自由に歩き回ることができた。
 1949年に、この二つの区域は、鉄条網の塀で分けられた。それには、監視小屋が統制する、居住区画内外への通路が付いていた。そのときでも塀は完全ではなく、収監者たちは、発電施設と川沿いの外部フェンスの間にある荒地を通って比較的容易に、居住区画に入り込むことができた。
 しかし、塀が立てられるより前は、居住区画に行くのを監督する間に合せの監視小屋以外には何もなかった。
 収監者たちは、定期的に行き来した。
 クラブ・ハウスで自由労働者と一緒に酒を飲む収監者たちを、しばしば見ることができた。
 収監者と共同生活をし、収監者と一緒の家庭をもったりすらしている自由労働者による多数の報告が存在している。—また、監視員や党員による報告も。
 MVDは継続的に、収容所規則順守のための防御の強化を呼びかけていた。しかし、そうした努力は、財源不足、誰もが耐えていた恐ろしい生活条件や人間的弱さ、そして同情心によって、実らなかった。些少な諸自由が、システムの端まで拡大するのが許された。
 (06) 自由労働者の多くが、収監者ための手紙の秘密の出し入れ(smuggling、密輸・密送)に関与した。—これは、ときどきは金銭または物品による報酬を得るためだったが、より多くは友情または連帯から生じた。
 彼らは、自分の衣服に隠して刑務所地帯から手紙類を持ち出し、Schanghai 地域にある町の郵便局からそれらを送った。
 反対に、自分の住所あてに送られた手紙類を受け取り、それらを密かに刑務所地帯へと持ち込んだ。
 どちらの方法も、収容所による検閲を回避する非合法なものだった。収監者とその文通相手には、手紙類を運ぶ者が監視員に捕まったならば犯罪者になってしまうのを避ける方法で手紙類を出すことが、依然として勧められたけれども。
 MDV は秘密の発送(smuggling)がなされていることを十分に気づいており、根絶をしばしば決定した。
 その際の関心は、収監者が収容所の生活条件をあからさまに書いて、収容所システムの秘密が掘り崩されることではなく、より直接的には、脱走を準備するのを助けるべく、収監者に偽造文書や金銭が送られることにあった。
 (07) レフは、1947年までには、彼とスヴェータの手紙を郵送し受け取る心づもりのある、かつ増加している自由労働者の仲間たち(circle)を得た。
 彼の手紙が全て非合法に送られたのではなく、スヴェータに重要なことを書きたいときに、この連絡網(channel])を彼は用いた。
 この仕組み(system)は、〔1947年の〕3月と6月の間に完全に作動するに至ったと考えられる。
 3月1日、レフは以下のように、重要な手紙を密かに送ってくれる人物の登場を、まだ待たなければならなかった。
 「大切なスヴェータ、僕はあらゆることに関する手紙をきみに書き送る必要がある。
 でも、それができるのはいつなのか、分からない。
 きみの手に、かつきみの手にだけ渡るのが確実になって、その機会ができたときにのみ、書き送るつもりだ。
 いったん手紙を書いてしまえば、その機会を待つのはむしろ危険でもある。
 僕は、二つの件について書こうと計画している。—最短化〔minimaxes〕(レフの判決に対する異議申立ての問題)と出逢う可能性。」
 5月14日までに、レフは「新しい仕組み」によって手紙類を送っていた。但し、初期の問題がまだあった。
 「手紙類を発送する新しい仕組みは一時的に行き詰まった—そして二通の手紙が、発送されるのを二週間待っていると、この手紙で言わなければならない」。
 そして6月2日、彼はこう確認することができた。
 「新しい仕組みによって、僕の手紙類は時期厳守できちんと配達されるように思えます。もう、tar (収容所による検閲の暗号語)を通過する必要がなくなったからです。
 何かに嵌まって渋滞する危険はもう多くはありません。」
 (08) この段階で、レフの手紙類を主に密送したのは(chief smuggler)は、彼と「同名人物」(namesake)のLev Izrailevich だった。この人物は、生き生きとした眼と丸く禿げた頭をもつ、背の低いユダヤ人男性だった。 
 Izrailevich はKozhva に住んでいた。そこは、ペチョラから見て川の向こう側に広がる居留地だった。そして彼は、鉄道運転指令員として勤務していた。
 レフは5月16日にスヴェータにこう書いた。
 「僕」は、面白い紳士と知り合いになりました。
 「彼の名をまだ尋ねていませんでしたが、我々は気持ちよく会話しました。…
 彼は知的な、教養のある人です。
 分かったところでは、レニングラード出身で、工芸(polytechnic)を勉強し(卒業は止められた)、そして1937年までジャーナリストでした。…
 彼はレニングラードのお偉方や企業のトップたちを、みな知っています。」
 (09) Lev Izrailevich は、1937年に逮捕される以前は有名な雑誌<科学と技術>の学術幹部で、ソヴィエトの大衆に科学を伝えるのを意図した数冊の書物を書いていた。その中には、<自分の手による物の製造方法・40の図面付き案内書>もあり、この本は、顕微鏡やカメラから衣服掛けのような簡単な家庭用品までの範囲にわたる、物品の作り方を読者に示していた。
 彼はペチョラ労働収容所から釈放された後、Kozhva に落ち着き、分離して土地に半分埋まった木造家屋に住んだ。
 運転指令者として働いていたので、彼はしばしば、技術者および修繕者としての契約業務で木材工場に来るようになった。
 いつでも工業地帯に出入りすることのできる通行証(pass)を持っていた。
 熱心な写真撮影者でもあったので、収監者たちの写真を撮り、彼らの家族に送ることでおまけの現金を稼いだ。
 (10) 密送の仕組みは、以下のようにして作動した。
 スヴェータはレフあての手紙類を彼の「同名者」に、写真用紙、化学製品やLev Izrailevich が頼んだその他の物の積送品と一緒に発送する。
 Izrailevich は、木材工場のレフに手紙類を配達して、そうした物品の対価をレフに支払い、スヴェータへの手紙を取ってやる。
 このようにして、スヴェータは、レフあての手紙や小包類でけではなく、そうでなければ監視員たちに盗まれるだろう金銭をも、レフに送ることができた。
 レフの手紙は、この仕組みの作動をこう叙述している。
 「〔6月16日〕僕は最近、もう一度 Izrailevich に会いました。
 彼は今でも、写真撮影で稼いでいます。彼はいつも現像液を切らしていて、我々の実験室の資材では本当に彼を助けるには少なすぎるのだけれども。
 ところで、彼は、誰かが僕に手紙を書き送ったり写真を送ったりする必要があるのなら、彼の住所を利用すれば速くかつ安全に僕の手に入る、と提案しました。L.M.c/o Lev Izrailevich, Freight Office, Kozhva Station, Komi ASSR。
 彼はいつでも、発電施設への電話で我々と話すことができます、」
 「〔7月24日〕L. Y.〔Izrailevich〕は、きみの努力に本当に感謝しています。
 薬用粉末の形態以外にはHgC12 の必要はありません。硝酸(nitric acid)の方がもっと良いだろうけれど。…
 彼はまた、6x9フィルムと礬水紙(glazed paper)—どんな大きさでも—柔らかいのと硬いのと、を欲しがつています。
 もちろん、代金を払うでしょう。…
 今ではきみの手紙類を全部受け取ることができて、幸せです。…
 これを可能にするのに必要な唯一の物は、写真用材です。
 彼は炭酸ナトリウムや重炭酸ナトリウムのことを、何か言っていました。
 これらは(少なくともこれらは)安価ですが、必要とされる約1キログラムほども送るのは困難です。だから、これは明確な注文には含めないで下さい。」
 「〔8月23日〕昨日、I〔Izrailevich〕が二通の手紙を運んでくれた。—8月10日と12-14日、〔番号〕46と47。でも、前の番号のものが出てこない。…
 発電施設の住所ではなくI〔Izrailevich〕の住所を使わなければならないと、きみに書いた。そうしないと、きみの手紙類は、前の番号のもののように、失くなってしまうだろう。」
 スヴェータはある手紙で、レフに、彼の「同名者」に宛てた封筒に「For Lev」と書く必要があるかどうかを訊ねた。
 レフは答えた。「書いたように、これからは、発電施設に宛てて書かないように。
 僕の同名人物には正しい住所があります。有難いのは彼のおかげです。きみは『For』なしで書くことができます。」
 (11) レフは同名者との交際を楽しんだ。
 二人ともに、数学と科学に対する関心をもっていた。そしてレフはいつも、二人の会話は面白いと感じていた。
 「彼と話していて、勉強になります。
 全くの愉しみという以上に、最も好ましいことは、彼の知識は僕よりも少ないかもしれないけれど、彼は数学的に思考し、事物を僕よりも十分に把握している、ということです。
 そして、僕が早合点をすると、彼は確実に訂正してくれます。それで、二人の間では物事はいつもうまく進みます。」
 しかし、数学以上に、二人のレフを結びつけたのは、写真撮影だった。
 Izrailevich は、収監者の写真を数百枚撮していた。—これは収容所ではきわめて稀なことだった。
 レフはスヴェータに、自分と友人たちの写真を何枚か送った。
 彼は最初は、収容所でほとんど6年間が経ったので自分は大きく変わったので、彼女は自分を認識すらできないのでないか、と怖れた。
 彼はスヴェータに対して、4月にこう書き送った。
 「先日、—全く予期していないときに—僕の写真が撮られる機会がやって来ました」。
 「その結果のものを封入しました。これは原物とほとんど同じものです。
 G. Ia.〔Strelkov〕が正面にいます。
 説明しておく必要があるかもしれない。他の二人のうち、右側にいるのが、僕です。
 きみはこれらの写真で、僕がまったく健康で、僕についてのきみの心配を鎮めたいという僕の望みに十分な理由があると、分かるでしょう。…
 僕は同じ写真をOlya 叔母とKatya 叔母にも送りました。—Olya の住所で(局留め)。
 一枚だけ送りました。
 機会があれば、怠けぶりを直すようつとめて、別のものを送ります。でも、多数の写真を配りたいというほどには、自分の顔が好きではありません。」
 スヴェータはこの写真について、返事を書いた(この写真は失われた)。この写真は、彼女がレフを1941年に見て以降、最初のものだった。
 「Katya 叔母が今日、我々に会いに来ました。
 叔母はあなたの写真をまだ受け取っていませんでしたが、私のものを見て喜びました。
 叔母は、あなたはいい表情と快活な眼をしている、と言います。
 私の考えでは、強いレンズなしで見たために、あなたの表情はまるで反対であることを彼女は分かっていないのです。
 でも、いろいろと考えてみると、私が今のあなたについて想像していた以上に、あなたはあなた自身であるように見えます。
 よくない光が、あなたの顔に陰影を運びました。そのため、半分は陰鬱です。そして、完全にあなたではないように思えます。
 でも、スヴェータは、あなたの同名人物に対して、やはり感謝しています。」
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 第5章①、終わり。

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 左は、当時あったclub-house/クラブ・ハウス(4章⑤・5章①に出てくる)。原書p.180-1。人物像は中央はレーニン、右はスターリンだろう。左はマルクスか。
 右は5章①最後に出てくる写真ではなく、第4章④の途中の本文内に挿入されている写真。原書p.88。上より少し以前の写真と思われるが、正面または前列中央が実験室を持つ Strelkov、その右側が Lev 、である点では同じ。後列の右が、発電施設にレフを推薦したLileev(老Nikolais)、後列の左が若い方のNikolais=Nikolais Litvinenko。
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