池田信夫ブログマガジン2020年12月7日号の<名著再読/資本論の哲学>の中に、つぎの文章がある。
 池田信夫が扱っている主題のうち、こんな点にだけ注目しているのでは全くないが、興味をそそる。
 「価値自体を否定するポスモダンは、社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべりにすぎない。問題は、根拠のないはずの価値がなぜ信じられ、特定のイデオロギーが多くの人々に共有されるのかである」。
 とくに面白いのは、「…は、社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべりにすぎない」という表現部分だ。
 「社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべり」の何と多いことか。文芸評論の意味・価値を認めないのではなく、人間の精神活動の一つとして、音楽や絵画とともにある詩・戯曲・小説を含む文学活動に付随した、あるいはその一部としての「文芸評論」を評価しないわけではない。
 問題は、文学や文芸評論と銘打つことなく、例えば「創作」としての小説だと明言することもなく、政治評論・社会評論を行う者たちがいて、もともとは<自己>(の名誉・顕名)のための表現活動であるにもかかわらず、社会や国家等について真摯に?思索したもののごとく文章や「作品」を発表していることだ。とりわけ世間的には明確に「文芸評論」家として出発したはずの者たちの文章・書物に著しい(古くは西尾幹二から新しくは小川榮太郎まで?)。
 <歴史>もの、<日本>ものの書物の中には、結局は「社会に何の影響ももたない文芸評論的なおしゃべり」にすぎないようなものも多い。