レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第一巻第6章の試訳のつづき。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第3節・労働の疎外・非人間化される人間〔Die Entfremdung der Arbeit. Der entmenschte Mensch〕②。
 (4)しかし、労働者の解放はたんに私有財産〔私的所有〕の廃棄にもとづくのではない。
 共産主義は、ゆえに私有財産の否定も、多様な形態をとり得る。
 マルクスはとくに、古代の共産主義ユートピアの原始的な全的(totalitär)平等主義を考察した。
 マルクスからすると、これは、いかなる者の私有財産にもなり得ない物を全て、ゆえに諸個人を特徴づける点を全て、廃棄しようとする、一つの共産主義だ。
 この共産主義はまた、才能を消失させ、人間的個性の全てを消去しようとするもので、文明を摘み取ってしまう。
 このように理解される形態の共産主義は、疎外された世界を決して我が物にすることはなく、反対に、疎外を極端に増大させる。そこでは、労働者の現在の条件はかき乱されるだろう。
 かりに共産主義が私有財産〔私的所有〕の<完全な>(positive)廃棄を、そして自己疎外の廃棄を意味するのだとすれば、共産主義は<人間のために人間によって>人という種の固有の本性を獲得し、社会的存在として人間が回帰することになるはずだろう。
 このような共産主義は、人間と人間の、本質と存在の、個体と種の、自由と必然の間の矛盾を解消する。
 しかし、その言う私有財産の「完全な」廃棄とは、いったいどこに存在するのか?
 マルクスは、宗教の廃棄に喩えることを示唆している。
 人間を肯定するために神の否定にもはや依拠しないならば、無神論はその意義を一瞬にして失う。これと全く同様に、完全な意味での社会主義は人間性の直接的な肯定であり、私有財産の否定に依拠する必要はない。
 ゆえにまた、完全な意味での社会主義とは-確実に-、財産〔所有制度〕の問題が解消され、人々の意識に上ることがなくなる、そういう状態なのだ。
 社会主義は、長期間の残虐な歴史過程の結果としてのみ成立し得る。しかし、その完全な形態での社会主義は、全ての人間的本質の、全ての人間的特性と能力の全的(total)な解放なのだ。
 社会主義の新しい生産様式のもとでは、国民経済上の<富裕と困窮>に代わって、<豊かな>人間とそれと同時に豊かな<人間的>需要が生じるだろう。
 そして、「<豊かな>人間とは同時に、人間的な人生表現の全体性(Totalität)を<必要とする>人間のことだ」。(11)
 疎外された労働の条件のもとでの人間の需要の増大は疎外という現象の深化をもたらす。つまり、生産者は人為的な手段でもって需要を増加させようとし、人々を量的にますます多くの生産物に依存させようとする。この環境ではこうしたことは隷属状態を増加させる。これに対して、社会主義の条件のもとでは、需要の豊かさは、人間の本当の豊かさのうちに認められる。//
 (5)『経済学哲学草稿』(パリ草稿)はこのようにして、社会主義を人間性の本質を実現するものとして設定することを試みる。この論脈では社会主義は同時に、たんなる純粋で単純な理想だと叙述されるのではなく、歴史の必然的過程が進む自明の前提として想定されている。
 マルクスはこの理由で、私有財産も、労働の分割も、あるいは人間の疎外も、人間が自分自身の条件を適正に理解するに至るならばいつでも訂正することのできる『誤り』だとは考えない。そうではなく、マルクスはそれらを、将来の解放のための不可欠の条件だと考えている。
 『草稿』がかなり概括的にだけ述べている社会主義観(Sozialismus-Vision)では、それは人間相互、そして人間と自然の間の<全的で>かつ<完全な>調和だと考えられている。それは、人間の本質と人間の存在の完全な一体化は、すなわち人間の究極的宿命とその経験的存在の完全な調和は、将来に達成可能であることを前提にしている。
 このような意味での社会主義社会は、需要が完璧に充足される場所であるに違いない、ゆえにさらに発展する必要はなく、発展のための動機づけも必要がない究極的な社会に違いない、と想ってしまうだろう。
 マルクスは、このような言葉を用いてその社会主義観を表現してはいない。しかし、彼はこのような解釈を排除するように限定してもいない。そして、社会主義に関する彼の展望から明らかになるのは、社会主義は人間の対立の全ての根源が除去されている状態であり、経験的生活で『人間』(人間性の本質)が実現される状態だと把握されている、ということだ。
 マルクスが叙述するように、共産主義とは、「歴史の謎(Rätsel, riddle)を解くものであり、自らがその解決だと知っているものだ」。(12)。
 しかして、ここで生じる疑問は、歴史の謎の解決とは歴史の終焉と同じ意味ではないのか否か、だ。//
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 (11) MEW, Ergänzungsband(補巻), 1. Teil, S. 544を参照。
 (12) 同上, S. 536. <=マルクス・エンゲルス全集第40巻(大月書店、1975)、457頁。
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 第3節、終わり。次節の表題は、<フォイエルバハ批判>。