秋月瑛二の想念-2020年6月①。
 いろいろなことを考える。
 最も深くは、人間にとっての、正確には現在の人間や社会にとっての「知」・「知識」の意味だ。脳内の一定部分に強くか弱くか、継続的か一時的にか蓄積される<認識>の束のようなもので、「教養」とか言われるものを含む。
 ヒトと人間の「進化」に<精神>活動、<知識獲得・継承>活動が不可欠だったことは論じるまでもなく、「精神」活動・「知的」活動一般を否定するつもりはないし、否定できるはずもない。
 だが、世界の国や地域で同じ程度ではないとはいえ、いずれかの時代から、「教養」を含む「知」の意味は、あまりに高く、大きく評価されすぎになってしまって、ほとんど誰も疑問視していない(つまり当然視している)。
 これは人間または国民・住民に一様に言えることでもない。
 「専門知識」・諸概念を伴う「理論」を知っている者たちが、人間の世界の中にいることは必要だ。しかし、どの程度の人が、どの範囲の数の人々が、「知識」や「理論」を知っている、身に付けている必要があるのか。
 「知識」は個人的にも獲得でき、「家庭」でも教えることができるが、「知識」提供がおおむね<社会化>(・国家化)されたのは大雑把に言って<近代>以降のことだろう。
 「国家」自体が強く大きくなるために、「国民」自体に対する「公教育」が必要だった。
 日本に限ればもともと日本人の識字率は高かったところ、明治以降の「義務教育」制度等々によって、基礎的な素養・教養程度において、日本人は高いとか言われている。
 しかし反面で止目しておいてよいと思われるのは、本来は、もともとは、-その意味が<本来は>問題になるが-必要ではない「知識」も<教え込まれた>ということだ。
 それぞれの人々、ある程度の範囲の人々には<本来は不要>だったとすると、その人たちに対する「教育」にかけたエネルギーは、浪費、無駄だったことに論理的にはなる。
 戦後日本もまた、<高教育>の方向へとつき進んだ。
 戦前は小学校・高等小学校までくらいが<ふつうの庶民>の最終学歴だったところ、新制高校への進学率は100パーセント近くになり、かつての旧制中学への進学率以上にするかに高く、同一学年の45-50パーセントが「大学生」になっている、とされる(旧制度期の実際については時代・時期により異なるだろうが、こだわらずに書いている)。
 彼らは、4-6年を「大学生」として過ごす。
 この「大学教育」の現在の日本での意味はいったい何か。
 大学教授等の大学教師たちがいて、一方では「研究者」でもあるようだが、おそらく少なくとも過半数はろくに「研究」もせず、「論文」もほとんど書かず、「教育」だけをしている(正確には、「教員」人事を含む大学・学部運営への関与もある)。
 彼ら「大学教師たち」の今日での存在意義は、いったいどこにあるのか。
 彼ら「大学教師たち」こそ、「知識」や諸概念を伴う「理論」について、あくまで<大衆>と比べて相対的に見てというだけだが、かつまた一定の「分野」に限ってのことだが、<より高く、広く>知っている、とされる。
 だが、彼らの「知識」等とそれをいちおうは享受する「学生」たちにとって、そもそも具体的な「知」や「精神活動」はいったい何のために役立っているのか。
 大学進学・卒業の意味が実質・実体ではなく<レッテル・ブランドの獲得>に代わったと指摘されて久しいだろう。むろん一部は除外して、総体としては、という意味だ。
 馬鹿馬鹿しい<レッテル・ブランド>のために、壮大な精神的・物理的エネルギーが無駄に使われている、という感触を拭いがたい。当然に、膨大な数の親・保護者、学校教育関係者を巻き込んでいる。
 医師、あるいは専門法曹、専門技術者等々、必要な職業・資格があることは否定できない。
 しかし、そうした職業に就かない、資格を獲得しない、おそらくは最少でも過半数の学生たちにとって、「大学教育」とは何なのか、何のために「大学教師」が必要なのか。
 <レッテル・ブランドの獲得>が第一で、第二は(社会人としての?)「教養」だとすると、こんな馬鹿馬鹿しい、無駄なものはない。
 クイズ番組で優勝することができるほどの多数で雑多な「知識」を各人が持つ必要はない(アメリカで諸種の辞典類を全て詰め込んで必要語句を探索できるAIが優勝したとの話を読んだことがある。勝利しても彼=AIロボットは「喜ばなかった」そうだ)。
 現実社会を「現実に」生活していくためには何ら役に立たない「教養」も、-あるいは「教養」をそういう限定された意味で使うと-それを習得することは無意味で、無駄だ。
 最近のコロナウイルス禍に引きつけて言うと、ウイルス・細菌・生命といった基礎的概念、産まれ落ちたときにすでにある、あるいは生後に社会的に獲得した「免疫」(遺伝、自然免疫)、そうした「機構」をもつ「細胞」やその集積体について、基礎的にではあれ、何らかの「知識」を持っている方が、はるかに有益ではないだろうか。
 あるいは広げると、<何故、見えるのか(脳は外界を画像として知覚するのか>、<何故、皮膚は感じるのか(触覚)>等々といったヒト、人間(あるいは多くの生命体)そのもの全員に関係がある、まさに<自分自身のこと>に関する「知識」をもっていることの方が、はるかに意味があるのではないだろうか。
 とある外国の歴史上の王朝名・国王名を知らなくとも、外国での「~戦争」やその勃発年について知らなくとも、まさに<自分自身のこと>である人体・脳・細胞・生命に関する「知識」を持っている方が、はるかに有益だ。
 明治以降のどこかで、<教育・教養>政策には、根本的な見直しが必要だったかに見える。
 だが、これを<変革>するにはよほどの大きな<時代意識>の変革が必要だろう。
 単純に言えば、<無駄な知識・精神活動>よりも<健全なヒト・人間としての活動>だ。「知」ではなく、「感性」あるいは今日に必要な「人間的な=同種の生命体への共感を持つ感情」や適度に鍛えられた健康な身体の培養により意識と配慮をむけて重視することだ。
 むろん、むつかしい。意味・内容自体も問題だが、そのような基礎的な関心自体に乏しいだろう。
 現在の日本で<知的精神活動>を行っている者たちの大半は、明治以降・戦後日本へと続いた<教養教育>の優等生・少なくとも劣等生ではなかった者、で占められている。彼らはほぼ「知育」に限っての<学校での成績・順位>を自己存在の根拠にしているゆえに、根本的に「知」のありようを問うたりするのは、<自己否定>につながる危険性がある。従って、「知識」にかかわる教育の意義を、根本的に疑問視することはない。大まかな分類のもとで差異がもうけられても、全員が、又はほぼ全員が、真の必要性を問うことなく、<同じような>教育を受けるべきだと考える。
 コロナ禍が「終息」して「日常」に回帰するという場合の「日常」は近代日本と戦後日本が作り上げてきた相当程度に人為的なものなので、例えば現在の<学校>のあり方や<学校制度>は、日本人にとっても、当然の「日常」であるはずはない。
 つづく。