レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。注記はドイツ語訳書にのみ付いている。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
 ----
 第2節・認識の社会的性格と実践的性格②。
 (3)カントの二元論に代わってヘーゲルの観念論が提示した解決方法の恣意性と観想性(Spekulativität)をマルクスに最初に感得させた者は、フォイエルバハだったと思われる。
 ヘーゲルは全く単直に、現実の存在は疎外された自己意識であって、外部化した自己意識のために世界を回帰させるためのものにすぎない、ということから出発する。
 しかし、自己意識は、それを疎外することでは、現実の事物ではない、それの抽象的な見せかけ以上のものを生むことができない。
 そして、人間生活でこの自己疎外の産物が人間を支配するに至って、その支配に人間が服するときには、我々人間の任務は、それを本来の場所へと立ち戻らせて、実際の姿の抽象物だとそれを見分けることだ。
 人間はそれ自体が自然の一部であり、人間が自然のうちにある自らを認識するならば、それは、人間がそのうちに、絶対的に自然に優先する自己意識の働きを再認識するという意味でではない。そうではなく、労働を通じた人間の自己創出の過程で、自然は人間<のための>対象となるという意味でのみだ。これは人間的方法で知覚された対象であり、人間の必要という規準に従って認知的に構造化されており、種の実際的な働きかけと連結してのみ生じる。
 「しかし、自然もまた、人間と切り離されて固定され、抽象的に把握されると、人間にとっては<何ものでもない(nichts, nothing)>」。(5)
 人間という種と自然との間の能動的な対話が出発点だとすれば、また我々が認識する自然も自己意識も純粋に固有の意味でではなくこの対話によってのみ生まれるのならば、人間は、我々人間が知覚する自然を人間化された自然(vermenschlichte Natur)と称することができる。同様にまた、自己意識を自然の自己意識と称することもできる。
 人間は、自然の産物および自然の一部として、自然を自らの一部に変える。自然は、人間の実践の素材(主体的事項)であり、同時に、人間の物理的身体を延長したもの(Verlängerung, prolongation)だ。
 このような観点からすると、世界の創造者に関する問題を設定するのは無意味だ。そういう問題設定は、自然と世界は存在しない(Nicht-Seins)という、人間が本当は架空の出発点としてすら設定することのできない、非現実的な状況を想定しているのだから。
 「きみが自然と人間の創造に関して問うとき、人間と自然を抽象化している。
 きみは人間と自然は<存在しない>ものと考えつつ、私がそれを存在しているときみに証明することを望んでいる。
 そうなら、こう言おう。きみは抽象化を止めよ、そうすればきみはその問題も捨て去るだろう。」(6)
 「しかし、社会主義的人間にとって<いわゆる世界史全体>は人間の労働による人間の創出に他ならず、人間のための自然の生成に他ならないがゆえに、社会主義的人間は、自分の誕生それ自体に関する、つまり自分の<発生過程>に関する、直想的で異論の余地のない証拠を有していることになる。
 人間と自然の<本質性>が、つまり人間が人間のための自然の存在としてあり、自然が人間のための人間の存在としてあることが実践的、感覚的に直観することができるようになっていれば、<外部(fremd)の本質>に関する問題設定、自然と人間を超える本質に関する問題設定は、…実践的には不可能になっている。
 この非本質性を否認する<無神論(Atheismus)>は、もはや意味を有しない。なぜなら、無神論は<神の否定>であり、その否定によって<人間の存在>を設定するものだからだ。
 しかし、社会主義は社会主義として、そのような媒介物をもはや必要としない。
 社会主義は、人間と自然は<本質>だという<理論的かつ実践的に感覚的な意識>から出発するのだ。
 社会主義は、積極的な、宗教の止揚にもはや媒介されることのない人間の自己意識だ。<現実の生活>が、積極的な、私的所有権の止揚、つまり共産主義、に媒介されることのない人間の現実であるのと同様に。」(7)
 (4)ここから見て取れるように、マルクスにとって、認識論上の問題設定は、形而上学上の問題設定とともに、正当性を失う。
 人間は、自分がまるでその外にいるように世界を見ることはできないし、人間の行為の全体性から純粋に認識行為だけを取り出すことはできない。なぜなら、認識する主体は、自然への積極的な関与者である全的な統合的主体の一面だからだ。
 自然が人間についてそうであるように、人間の係数(Koeffizient, coefficient)は自然のうちに現存する。そして、他方では、人間は世界との交渉から人間自身に固有の受動性という要素を排除することはできない。
 この点で、マルクスの思考は、伝来的な唯物論の諸範型と対立するとともに、固有の外部化として対象を構成するヘーゲルの自己意識の理論とも同等に対立している。マルクスが衝突する伝来的な唯物論では、根源にある認識行為は対象の受動的な反応であり、対象を主観的な内容へと変形させる。
 マルクスは自分の立場を、「徹底した(durchgeführt, consistent)自然主義」、あるいは人間主義(humanism)と称した。これらは、彼が言うには、「観念論とも唯物論とも同等に区別され、両者を同時に統合した真実(Wahrheit, truth)だ」。(8)
 これは人類学的な立場であり、人間化された自然のうちに実践的な人間の意図の反対項(Gegenglied, counterpart)を見ている。人間の実践が社会的な性格をもつように、その認識上の効果、つまり自然に関する像は、社会的な人間が作り出した物なのだ。
 人間の意識はたんに自然との社会的関係に関する思考に表現された物であり、共同社会的な種の活動の所産だと、把握されなければならない。
 従って、意識の変形もまた、意識自体の逸脱または不備によるものとして説明されるべきではなく、その根源はより固有の過程のうちに、とくに労働の疎外のうちに探し求められなければならない。//
 -------------
 (5) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 587
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、510頁。
 (6) 同上, p.545. =同上、466-7頁。
 (7) 同上, p.546. =同上、467頁。
 (8) 同上, p.577参照。=同上、500頁。
 ----
 第2節、終わり。第3節の表題は、<労働の疎外・脱人間化される人間>。