リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 試訳をつづける。第13章に入る。第1節に当たる部分に目次上の表題がないので、たんに「序」とする。
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 第13章・ブレスト=リトフスク。
 「党の煽動活動家は、わが党はドイツとの分離講和を支持している、という資本主義者が投げつける汚い中傷に対して、何度も、何度も、抗議しなければならない」。
 レーニン、1917年4月21日。(1)
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 第1節・序。
 (1)十月以降のボルシェヴィキの主要な関心は、その権力を確固たるものにし、全国土へと拡張することだった。
 彼らはこの困難な任務を、現実的な外交政策の枠組みの中で行わなければならず、その中心に位置したのは、対ドイツ関係だった。
 レーニンの判断では、ロシアがすみやかにドイツとの停戦に署名しなければ、自分が権力を維持することのできる機会は皆無に近い。
 逆に言えば、停戦とそれに続く講和は、ボルシェヴィキが世界制圧を始めるドアを開けるだろう。
 1917年12月、ほとんどの支持者がドイツが提示した条件を拒否していたとき、レーニンは、ドイツの言うがままにする以外の選択の余地は党にはない、と論じた。
 問題は、きわめて単純だ。ボルシェヴィキが講和をしなければ、「戦争に耐えられないほど消耗している農民軍は、…社会主義労働者政権を打倒するだろう」。(2)
 ボルシェヴィキには、権力を堅固にし、行政運営を管理し、自分たち独自の軍隊を建設するために、<peredyshka>あるいは休息時間(breathing spell)が必要だ。
 (2)このような想定から進めて、レーニンには、自分に権力基盤が残されるかぎりはどんな条件でも中央諸国と講和を締結する心づもりがあった。
 党員たちの抵抗は、ボルシェヴィキ政府は西ヨーロッパで革命が勃発する場合にだけ生存し続けることができるという考え(レーニンも同じ)や、 それは今にも発生するに違いないとの確信(レーニンは完全には同じでない)によっていた。
 「帝国主義」中央諸国との講和、とくに屈辱的な条件でのそれは、レーニンの反対者たちからすると国際社会主義に対する裏切りだった。
 講和は、長期的には革命ロシアの死を意味するだろう。
 彼らの見方では、国際プロレタリアートの利益よりも、ソヴェト・ロシアの短期的でナショナルな利益を優先させてはならない。
 レーニンは、これに同意しなかった。
 「我々の戦術は、どうすれば、自らを強固にし、あるいは他諸国が加わるまで<一国で>あっても生き抜く可能性を、社会主義革命に関して、より信頼できより希望がある方途で確実なものにすることができるか、という基本的な考えにもとづいている。」(3)
 ボルシェヴィキ党は、1917-1918年の冬、この問題で、真っ二つに分かれた。
 (3)ボルシェヴィキ・ロシアの中央諸国との関係の歴史、とりわけ十月のクー以降の12ヶ月間のドイツとの関係の歴史は、そのときに共産主義者がその外交政策の戦術と戦略を理論上定式化し、実務で作り上げていくものだったため、きわめて興味深いものだ。
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 (1) Lenin, PSS, XXXI, p.310.
 (2) 同上, XXXV, p.250.
 (3) 同上, p.247. <>は挿入した。
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 第2節・ボルシェヴィキと伝統的外交。
 (1)西側諸国の外交の起源は、15世紀のイタリア都市国家に遡る。
 そこから外交実務が残りのヨーロッパに拡がり、17世紀には国際法の編纂が見られた。
 外交は主権国家間の関係を調整し、紛争を平和的に解決することを意図するものとされた。
 外交が失敗して武力行使に訴えられれた場合には、国際法の任務は暴力の程度を可能な限り小さいものにし続け、敵対関係をすみやかに終わらせることだった。
 国際法が成功するか否かは、全ての当事者が一定の原理を受け容れているかによる。
 1.主権国家は、生存の権利を疑いの余地なく有することが承認される。どんな見解の差異が諸国家にあろうとも、それぞれの存在自体は決して問題になり得ない。
 この原理が1648年のウェストファリア条約を支えた。
 この原理は18世紀の終わりにポーランドの第三次分割によって侵犯され、国の消滅をもたらしたが、例外的な場合とされた。
 2.国際関係は、政府間の接触に限定される。ある政府が別の政府の頭越しにその国民に対して直接に訴えるのは、外交上の規範を侵犯する。
 19世紀の実務では、国家は通常は外務省を通じて意思や情報を連絡し合う。
 3.外務当局間の関係は、正式合意の尊重も含めた、一定レベルの誠実さと善意を前提とする。これらなくして相互信頼はなく、信頼がなければ、外交は無意味な活動となるからだ。
 (2)15世紀から19世紀の間に発展したこうした原理と実務は、キリスト教諸国の超国家的共同社会の存在はむろんのこと、自然法の存在を想定している。
 自然法に関するストア派の観念は永遠で普遍的な正義の規準を想定しているが、H・グロティウス(Hugo Grotius)以降のその国際法の理論家たちが、国家間関係にその観念を適用した。
 キリスト教徒の共同社会という観念は、どんな差異があってもヨーロッパ諸国とその海外地は一つの家族の一員だ、ということを意味した。
 20世紀以前に、国際法の観念は、ヨーロッパ共同社会の外にいる人々に適用されるとは考えられていなかった。-この姿勢が植民地征服を正当化した。
 (3)明らかに、こうした「ブルジョア」概念の全複合体が、ボルシェヴィキには不快だった。
 革命家は既存の秩序を転覆しようと決意しているので、国際的国家システムの神聖さを承認するとはほとんど期待されていなかっただろう。
 政府の頭越しにその国民に訴えることは、革命戦略のまさに根本だった。
 かつまた、国際関係での誠実さと善意について言えば、ボルシェヴィキは、その他のロシア急進派と共通して、道徳という規準は運動内部でのみ、同志間の関係についてのみ義務的なものになると見なしていた。すなわち、階級敵との関係には、道徳ではなく戦争の規則が当てはまる。
 戦争の場合と同じく革命では、重要な原理はただ一つ、<kto kogo>、誰が誰を喰うか、だった。//
 (4)十月のクー以後の数週間、ほとんどのボルシェヴィキは、ロシアの例がヨーロッパ全域に革命を始動させると期待していた。
 産業ストライキや暴動に関する外国からの全ての報告が、「始まり」だと歓迎された。
 1917-1918年の冬、ボルシェヴィキの<Krasnaia gazeta>やこれと類似の党機関紙は、毎日のごとく、横大見出しで、西ヨーロッパでの革命的爆発を報告した。
 ある日はドイツ、つぎはフィンランド、そして再びフランス。
 このような期待が生き続けているかぎりは、ボルシェヴィキには、外交政策を作り上げる必要がなかった。
 しなければならないのは、いつもやってきたことの繰り返しだった。つまり、革命の炎を燃え立たせること。//
 (5)しかし、この希望は、1918年春に、いくぶんか衰えた。
 ロシア革命にはまだ、競争する仲間相手がいなかった。
 西ヨーロッパでの反乱やストライキはどこでも弾圧され、「大衆」は「支配階級」を攻撃しないで、お互いに殺戮し合った。
 このような事態を認識しはじめたとき、革命的な外交政策を作り出すことが喫緊となった。
 この点で、ボルシェヴィキには指針がなかった。マルクスの書物も、パリ・コミューンの経験も、大した助けにならなかったからだ。
 この困難さは、主権国家の支配者としての利益と世界革命の自認の指導者としての利益と、これら二つの矛盾する条件があることからも生じていた。
この後者の点での理解では、ボルシェヴィキは他の(「非・社会主義的」)政府の存在する権利を否定し、外交関係を国家の長や閣僚たちに限定する伝統を拒否した。
 ボルシェヴィキは、ナショナルな「ブルジョア」国家の構造全体を完膚なきまで破壊するのを欲した。そうすることで彼らは、外国の「大衆」が反抗するように激励しなければならなかった。
 だが、しかし、彼ら自身が主権国家を今では率いているために、他の政府との関係を避けることはできなかった。-少なくともその政府が世界革命によって打倒されるまでは。
 そして、他政府と関係をもつには、「ブルジョア」国際法の伝統的基準に合致して行動しなければならなかった。
 彼らはまた、自分たちの内部問題に外国が干渉することを排除するため、こうした基準による保護を必要とした。//
 (6)共産主義国家の二重性(dual nature)、つまり党と国家の形式的分離、が有用だと分かるのは、まさにこの点だ。
 ボルシェヴィキは、二つのレベルの外交政策を構築することで、問題を解決した。一つは、伝統的。二つは、革命的。
 「ブルジョア」諸政府と交渉する目的で、外務人民委員部を設立した。部員は全員が信頼できるボルシェヴィキで、党中央委員会からの指令に服従した。
 この機関は、少なくとも表面的には、外交に関する受容された規範に合致して、機能した。
 相手国で許されるかぎりで、ソヴィエトの外交使節団の長は「大使」や「公使」ではなく「政治代表者」(polpredy)と呼ばれ、旧ロシアの大使館の建物を受け継ぎ、cutawayを着用し、シルク・ハットを被り、「ブルジョア」大使館の仲間たちとよく似た振る舞いをした。(*)
 革命的外交-厳密に言えば、用語法上の矛盾がある-は、コミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)のような、党が自らまたは特殊機関の工作員を通じて行う場所になった。
 工作員たちは革命を刺激し、外務人民委員部が適切な関係を維持している、まさにその外国政府に反対する地下活動を支援した。//
 (7)このような機能の分離はソヴェト・ロシア内部での党と国家の類似の二重性(duality)を反映しており、スヴェルドロフ(Sverdlov)はボルシェヴィキ第七回党大会で、ブレスト=リトフスク条約の方向に関して述べた。
 署名国が敵対的な煽動活動やプロパガンダを行うことを禁じる条項に言及して、こう言う。
 「我々が署名した、そしてすみやかにソヴェト大会で批准させなければならない条約から、つぎのことが完全に明確になる。すなわち、政府、ソヴェト権力の権能者として、我々は今まで行ってきた広範な国際的煽動活動をすることができなくなるだろう。
 しかし、これは、我々が煽動活動を微小なりとも削減しなければならないことを意味していない。
 今からはたんに、ほとんどつねに、人民委員会議の名前によってではなく、党中央委員会の名前によって行わなければならない。…」(4)
 党を私的組織と見なすというこの戦術によって、悪辣な行動については「ソヴィエト」政府には責任がなく、ボルシェヴィキは、むしろ興味深い決定を着実に押しすすめた。
 例えば、1918年9月にベルリンがロシアの新聞(その頃まで完全にボルシェヴィキが統制していた)による反ドイツ・プロパガンダについて抗議したとき、外務人民委員部は、いたずら気に、こう回答した。
 「ロシア政府は、ドイツの検閲部とドイツの警察が、ロシアの政治的組織-つまりソヴェト制度-について悪意ある煽動活動をしているとして…ドイツの新聞を訴追していないことを、遺憾には思っていない。…
 ソヴィエト諸制度についての政治的社会的な反対意見を自由に表現しているドイツのプレスに対して、ドイツ政府の側がいかなる抑圧的な措置もとっていないことを、十分に許容し得るものだと考えるならば、ドイツの制度に関するロシアの私人や非公式新聞の同様の行動も、同等に許容し得るものだ。…
 最も断固として抗議する必要があるのは、ドイツ総領事館が、つぎのように提示していることだ。すなわち、ロシア政府は警察的手段によってロシアの革命的プレスをあれこれの方向へと指揮することができ、官僚機構の影響でもってその中にあれこれの見方を注入することができる、と頻繁に述べている。」(5) //
 (8)ボルシェヴィキ政府は、外国がロシアの内部問題に干渉したとき、きわめて多様に反応した。
 早くも1917年11月、外務人民委員のトロツキーは、同盟国の大使たちがロシアの正統な政府の所在に確信がなくて軍最高司令官のN・N・ドゥホーニン(Dukhonin)に外交書簡を送ったあとで、ロシアの問題に関する同盟国の「干渉」に抗議した。(6)
 ソヴナルコムは、機会があるごとに、内政不干渉の原則を侵犯していると諸外国に対して抗議した。まさにその原則を自らがくり返して侵犯しているときにあってすら。//
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 (*) 最も早いロシアの<polpredy>は、中立国に配置された。ストックホルムにV. V. Vorovskii、ベルンにIa. A. Berzin。
 ブレスト条約が批准された後、A. A. Loffe がベルリンでの任務を受け継いだ。
 ボルシェヴィキは、先ずリトヴィノフを、次いでカーメネフをイギリス(The Court of St. James)に任命しようとしたが、いずれも拒否された。
 フランスもまた、内戦の後まで、ソヴィエトの代表を受け入れようとしなかった。
 (4) Sed'moi Ekstrennyi S"ezd RKP(b)(Moscow, 1962), p.171.
 (5) Sovetsko-Germanskie Otnoshennia ot peregovorov v Brest-Litvske do podpisaniia Rapall'skogo dokovora, I(Moscow, 1968), p.647-9.
 (6) C. K Cumming & W. W. Pettit, eds., Russian-American Relations 1917年3月-1920年3月(New York, 1920), p.53-p.54.
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 第1節・第2節、終了。