L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)
 以下、上の著の一部の試訳。
 章の下位に「節」はないが、一行空けよりも明確に、各章の中に横線を挿入している箇所がある。その部分までを、便宜的に「節」と見なすこととする。
 一行ごとに改行する。段落の最後に//を付し、段落に原文にはない番号を頭書する。
 注番号は記すが、注記の内容そのものは、省略する。
 第6部・第2章は、<結語>直前の最終の章だ。
 章は省略して各部の表題(とp.の範囲)だけ記しておくと、以下のとおり。
  序説
  第1部/旧体制の最後の年々, 1904-1914  **p.1-p.28.
  第2部/大戦: 帝制の自己崩壊。      **p.31-p.99.
  第3部/1917年: 支配権を目ざす戦い。  **p.104-p.233.
  第4部/主権が要求する。     **p.238-p.359.
  第5部/内部での戦争。      **p.363-p.581.
  第6部/勝利と後退。      **p.585-p.624,
  結語
  「注記(Note)・「Bibliographic Essay」・「索引(Index)
                      **p. 633ーp.823.
 第6部・勝利と後退(Victory and Retreat)
 第2章・革命は自分に向かう。**p.606~
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 第1節
 (1)赤色テロルが前提にしていたのは、つぎのことだ。すなわち、裏切りはつねに隠れている。体制による統制を免れるいかなる集団行動も、体制の存在に対する潜在的な脅威だ。全ての社会的主体は見かけ上のものではない。色を変更することができないグループまたは個人はどこにも存在しない。ゆえに、抑圧は前もってのみならず、専断的に行われなければならない。
 内戦時代を終わらせた1921年2月から3月の事態は、革命を出発させた民衆動員の力学を再びくり返したものだった。
 この事態によって、前線がないような戦争では安全な前線はない、ということが分かった。//
 (2)ペトログラードのプロレタリアート〔工業労働者〕とバルト艦隊は、ボルシェヴィキがもつ草の根の戦闘性の聖像(icon)だった。
 1917年2月、ペトログラードのストライキと街頭示威行動が、事態の懸崖を打ち破った。そこには、海兵と兵士の反乱も含まれていて、それらが、君主制の崩壊の原因となった。
 4年後の1921年2月、ストライキと抗議運動が、再び、ペトログラードを振動させた。
 首都は、モスクワに移っていた。レーニンが、ニコライに取って代わっていた。
 旧体制の終焉を歓迎しソヴェト権力から利益を得ようと期待していた大工業プラントの労働者たちは、今ではその指導者たちに反抗した。自分たちの名のもとで統治すると主張しているが、その政策は社会的経済的危機をもたらし、彼らの生存自体を脅かしている、として。
 工場地区での騒擾は、クロンシュタット要塞近くにいる海兵たちを、彼ら自身の抗議の声を上げるように喚起させた。
 1917年10月の熱心なボルシェヴィキ軍団が、今ではその憤激を、「共産党独裁」に対して向けた。//
 (3)クロンシュタットは、ペトログラードから約20マイル離れた、フィン湾の中の島だ。
 18世紀初頭にピョートル大帝が、彼の新首都の防衛のために要塞を構築した。
 島の東端に都市があり、その中央広場は、2万5000人の兵士たちが整列することのできる広さがあった。
 夏には、ペトログラードから船が着いた。11月遅くから3月初めまでは、湾が凍っていた。
 島は全体でおよそ5万の人口をもっており、半分は軍事関係者で、半分は民間人だった。(1)//
 (4)バルト艦隊の海兵たちはずっと、革命の最も急進的部分を代表してきた。
 彼らは1917年2月には、50人以上の自分たちの将校を半殺しにした。その中には4人の大将(admiral)も含まれていた。
 七月事件のときにはペトログラードにやって来て、動員されたペトログラードの労働者を支援し、ほとんどエスエル〔社会革命党〕の指導者のV・チェルノフ(Viktor Chernov)を殺害するところだった。
 メンシェヴィキのF・ダン(Fedor Dan)が回想するように、「あの記念すべき日々に、彼らは、自発的に射撃をし続け、かつほんの数名しか負傷させなかった」。(2)
 8月、将軍コルニロフに反対するよう世論に訴え、彼の逮捕と処刑を要求した。
 クロンシュタットの将校たちの多くもまた、コルニロフに反対した。しかし、うちの4名は、処刑の呼びかけを拒んだ。
 海兵たちは、この4人の身柄を拘束し、射殺した。(3)
 カデットのA・シンガレフ(Andrei Shingarev)とF・ココシキン(Fedor Kokoshkin)は、1918年2月、病院のベッドで、赤衛兵とクロンシュタット海兵たちによって殺害された。(4)
 彼らは、怒れば危険な男たちだった。//
 (5)1921年2月頃までには、元々いた海兵たちのある程度は、新補充兵に代わっていた。
 最近に加わった者たちはおそらくより熱心でなく、より職業的でなかったけれども、以前と同様に暴力を好む傾向と権威に対する敵意をもっていた。たぶん、いく分かは別の理由からだったが。(5)
 かつてボルシェヴィキの力の淵源だった者たちが、今では脅威だった。しかし、忠誠心をもつ前衛部隊だという神話は、放棄されていなかった。
 党は、クロンシュタットの反乱を白軍の反革命陰謀の傀儡だと非難した。-これは、ソヴィエトの時代を通じて、公式の解釈であり続けた。(6)
 十月以後の他の反乱の場合と同様に、反乱兵士には旧体制を復活させようとする意図は実際になかった。
 今度は、革命の名において、彼らは戦時共産主義と関連する諸政策に異議を唱えた。-強制労働、徴発、多数の者が食料について依存している小規模取引の抑圧、村落からの略奪。
 彼らは不平等の復活に憤激した。-食糧配給量は地位によって異なり、新体制の役人たちが特権を享受していた。
 「共産党(共産主義者)」を彼らが非難するとき、それは反動的白軍に取り憑かれたのが理由ではなかった。
 彼らはこのときにはボルシェヴィキを、かつて歓迎したのと同じ理由で、拒否したのであり、革命的でなくなったのが理由ではなかった。(7)//
 (6)ある者には、まるで1917年二月が再び「空中にある(in the air)」ように見えた。(8)
 1917年2月のように、抽象的な原理ではなく、飢えと貧困が、示威行進者を極端へと走らせた。
 1921年初めには、体制に対する民衆の抵抗が、ロシアの中核部全体に蔓延していた。
 都市部、すなわちボルシェヴィキを支持する中心部で、食糧が稀少になり、工場は燃料と原資材不足で閉鎖し、労働者は街頭へと出た。-飢餓が迫っていた。
 1月下旬、当局は食料配給量を削減した。(9) 
 ペトログラード連隊ですら、食糧が不足した。兵士たちは、飢えで気を失っていると言われた。
 ある者は、物乞いに出かけた。
 モスクワの兵士と労働者たちも、不安だった。彼らは、相次いで集会に集まった。(10)//
 (7)2月11日、体制は、ほとんど100のペトログラードの工場を近く閉鎖する、と発表した。その中には、プティロフ(Putilov)作業場、セストロレツク(Sestroretsk)武器工場、巨大なレンガ造りのTreugolnik 地区のような、急進派運動の温床だったところもあった。総計で2万7000人の労働者が、仕事を失うことになる。
 10日後のトルボシニュイ(Trubochnui)・プラントでの集会から、抗議運動が始まった。この集会は、非ボルシェヴィキ左翼反対派の標語である、純粋な民衆支配(<narodovlastie>)を支持することを宣言した。
 ペトログラード・ソヴェトは、その集会を中止させた。
 工場から閉め出されることにより、労働者たちは賃金だけではなく、食料配給も失った。
 2月24日、街頭はトルボシニュイその他の工場から来た労働者で埋め尽くされ、ヴァシリェフスキ(Vasilevskii)島の工業地区では2万5000人に膨れ上がった。(11)//
 (8)ペトログラード当局は、緊急防衛委員会を設立し、戒厳令を敷いた。(12)
 2月27日、バルト艦隊の人民委員は、2万6000のクロンシュタットの海兵たちの中にある騒乱について報告した。(13)
 その翌日、運動は戦闘的なプティロフ作業場へと拡がった。従前の規模からすると影のようなものだが、なおも6000人の強さがあつた。
 抗議者たちは、工場からの共産主義者〔共産党・ボルシェヴィキ〕軍団の撤退、過剰人員の廃止、政治的権利の回復、を要求した。(14)//
 (9)こうした政治的要求は、メンシェヴィキと社会革命党の煽動活動家の影響を反映していたかもしれない。彼らは工場に、ビラを撒いてきていた。
 社会革命党〔エスエル〕は、反乱(revolt)を呼びかけていた。一方、メンシェヴィキは、忠誠心ある反対派のままだった。
 彼らは政策の変更を求めたのであり、この騒擾の時期が1917年の再演だとは考えていなかった。
 今では労働者は疲れ、組織から離れ、数自体が減っていた。
 彼らは、政治的理想ではなく、肉体的な生存を気にかけた。
 工場が燃料や原資材の不足で閉鎖される場合に、作業が止まるのは何ら脅威ではなかった。
 当局はある程度の譲歩を行い(特別の配給、糧食探しの許可、食糧没収の中止)、メンシェヴィキ中央委員会の委員を逮捕した。(15)
 3月3日頃までに、抗議運動は消滅した。//
 (10)F・ダンは、自分自身が逮捕された状況を思い出した。
 2月26日、抗議運動が始まったばかりのとき、彼はマリインスキ劇場へ行った。そこで、有名なバス歌手のF・シャリアピン(Feodor Chaliapin)がニコライ・リムスキ=コルサコフのオペラ<プスコフの娘>で歌うのを聴くためだった。
 つぎの細部が、語られている。
 ダンはそのようなときでも、劇場に関心があった。入場券はもう売られていなかった。だが、諸関係を通じて入手することができた。上演は早めに終わった。
 家に帰っているとき、夜の10時に、チェカの機関員に迎えられた。
 「シャリアピンが歌うのを楽しく聴くことのできる最後となった運命に感謝」したのだったが、ダンは、暗くて誰もいない街路を通って連れ去られた。(16)//
 (11)かつては帝制秘密警察のオフラーナ(Okhrana)が所在した建物、ダン自身が社会民主党の運動の初期だった25年前に拘禁された建物の中で、彼は服の上から調べられ、衣服を脱がされ、尋問を受けた。
 彼の捕獲者たちは冷酷な職業官ではなかったが、教育をほとんど受けていない者たちで、自分たちの新しい権力に誇りをもち、臆面もなく党のスローガンを捲し立てた。
 彼らは、ストライキをする者は社会主義の根本に対する裏切り者だと非難した。
 本当の労働者ならば、自発的に進んで前線へ行くか、または食糧旅団に加わるべきだ、と。
 あいつらは「くずで、利己主義者で、小商人で、戦争中に徴兵を免れようと工場へと逃げ込んだのだ」。(17)
 メンシェヴィキもまた、裏切り者だ。
 ダンは、このような、「プロレタリアートをくずと呼び、社会主義を海兵たちに押しつけてあてにする共産主義者(共産党員)たち」に、絶望した。//
 (12)一年の拘禁のあと、ダンは国から追放され、最終的にはニューヨークに落ち着いた。(18)
 1905年以降ずっと自分は革命の友人だと考えてきたシャリアピンは、1922年に自分の力でロシアを離れ、最後にパリで死んだ。//
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 第1節、終わり。


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