J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.136-9。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)
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 第5節・ホメロスのハゲタカ(Homer's Vultures)。
 ・「ニーチェの超人は、人類が…奈落の底に落ちこむのを見る。絶大な意志の行使によって、超人は人間をニヒリズムから救い出す。」
 「ニヒリズム」が掲げる理念は「人間が無意味の深淵から救われる」ことだが、「キリスト教が登場する以前、世にニヒリストはいなかった」。
 ・ホメロス・イーリアスには「ニヒリズム」はない。そこでの神々は、「ハゲタカ」になっても「人間を救わない」。「もとより救うべきほどの何もない」。
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 第6節。死すべき運命(In Search of Mortality)
 ・「仏陀は自己の滅却(extinction of the self)に救いを求めた」が、「自己のないところ」での「救い」とは何か。
 「涅槃(Nirvana)は煩悩を離れた悟りの境地」だが、「自然に任せておけばだれもが…手にする以上のもの」を約束しない。
 「死は、生涯の苦行の後に仏陀が約束した平穏を万人にもたらす」。
 ・「動物はなぜ、煩悩から解脱する」のを願わないのか。「輪廻転生」(the round of rebirth)を知らないからか。「考えるまでもなく、生死をくり返すことはないと知っているからか」。
 ・「仏教は、死すべき運命の模索」で、仏陀は「輪廻転生の迷いから脱する悟りの道」を説く。
 「死すべき運命を知っている人間」は、仏陀が追求した道に「すぐ手の届く」ところにいる。「救いが約束されている以上、人生の快楽を否定することはない」。
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 第7節・死にゆく動物(Dying Animals)
 ・「自分の死を思い描ける」ことで人間は動物と異なるとされる。だが、「死んでどうなるか」を動物以上に知らない。「生命活動の停止」と理解しても、「それが何を意味するか」を知らない。
 「時の経過」を人間が恐れないのは、「いずれ死が訪れる」ことを知っているからだ。「時間に抵抗」するのは「死を恐れて」いるからだ。
 「動物が人間ほどには死を恐れない」のは、「時間に縛られていない」からだ。
 ・「自殺」は「人間の特権」だと言うのは、「人間と動物の死に方になんの違いもない」ことを理解していない。肺炎、麻酔薬、…、ほんの少し前まで人間は「進んで死に向かい合っ」て、「多くは猫が静かな場所を捜して息を引き取るのと同じ本能で死を願った」。
 ・「道徳」が生まれて、「そのような死に方は忌避される」に至った。「選択の自由が一種の信仰」である現代では「死を選ぶことは許されない」。
 人間と動物の違いは、「人間が異様なほど生に執着する」に至ったことだ。
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 第8節・クリシュナムルティの重荷(Krishnamurti's Burden)
 ・19世紀末以降のカルト集団が「現代の救世主」に祭り上げたクリシュナムルティは、「重荷を一身に引き受け」られないとしてその役割を否定した。彼の教えは「古来の神秘主義」と多々共通する。
 ・「人間は動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。
 不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来(natural)の心情である。
 自身のうちにある獣性を脱却したと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。」
 ・クリシュナムルティの生涯は「並はずれたエゴイズムの貫徹」で、他人には「無私無欲を説き」、自分は「神秘的な陶酔」を「ありきたりの癒やし」と結びつけた。
 ・彼の生き方は何ら不思議ではない。「獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てる」だけだ。
 「よくしたもので」、「大衆は聖人君子(the saints)を崇める反面、同じ程度に忌み嫌う」。
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 第9節以降につづく。