レフとスヴェトラーナ。
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 第3章②。
 (16) レフは、木を河岸から木材工場群まで引き摺り上げる、一般労働チームに配属された。
 その仕事の意味は、重い材木を、丸太コンベヤにまで引き摺り上げることだった。そのコンベヤには巻き揚げ機と鋼索がついていて、材木の丸太が製材所(saw-mill)まで引き揚げられた。
 仕事はきつくて、一度に数時間も、凍えるような水の中に立ち続けた。
 夜のあいだずっと明るい夏には、たくさんの蚊が我慢できないものだった。
 仕事に出かける前に、受刑者たちは、手と顔を僅かばかりの布で覆った。//
 (17) チームの他の者たちと同様に、レフは、標準服を受け取っていた。耳垂れの付いた帽子、綿入りのエンドウ豆色の上衣、重い綿入りズボン、上衣と同じ素材で作られた手袋、冬季用の靴。
 靴には、毛皮もなく、裏張りもなかった。また、湿っぽくて風通しの悪い営舎では、乾かす手段がなかった。そのために、彼の足はいつも湿っていた。//
 (18) 夜明け前に、24時間交替制が始まった。
 受刑者たちは、割り当て分を達成すれば、一日あたり600グラムのパンという糧食を受け取った。達成しなければ、わずか400グラムだった。
レフが毎日の割り当て量を達成するには、最低で60立方メートルの材木(小さな車庫を充たす量)を河から木材工場群まで引き揚げなればならなかった。
 もし彼がこの割り当て量を超えて労働すれば、800グラムのパンが貰え、そしてボーナスとして、詰め物入りのライ麦パイが貰えた。彼が思い出すに、詰め物は特別の味がなく、また少しも詰め物に値するものではなかった。
 受刑者たちには毎朝、一椀のポリッジ(粥)、一杯の茶、15グラムの角砂糖(これは注意深く測られた)、および一片のニシンが与えられた。
 昼食では、通常はわずかに肉または魚が中に入っている一椀のキャベツ・スープ、別の一椀のポリッジ(粥)、より多い茶を受け取った。
 これらは、木材引き揚げチームの者たちの身体を長く維持するには、十分でなかった。
 病気や死亡の割合は、きわめて高かった。
 1945-46年に、収容所の1600人の受刑者の三分の一以上が、病気で診療所、つまり木材工場群の主要な受刑者地区の外にある分離された建物、にいた。そこには当時、ただ一人の医師しかいなかった。
 墓地掘りチームで当時働いていたある受刑者によると、彼らは毎日、一ダースの受刑者たちを、診療所の後ろにある墓地に埋葬していた。
 引揚げチームの労働条件は非人間的だったので、監視兵のうちの何人かは不安になった。
 ある者は木材工場群の党会議で、「我々は、彼らが生きているかどうかを気にかけているようには思えない」、と愚痴をこぼした。
 「我々は、病気になるまで、彼らを凍えんばかりの水の中に立たせている。そして、彼らがもう働けなくなれば、診療所で死なせている」。
 (19) 引揚げチームで三ヶ月経って、レフの身体は疲労困憊した。
 精神的にも壊れてしまった。
 テレツキーはのちに、初めてを見たときレフは、「トラクターにひかれた農民のように見えた」と語った。
 10年前にイストラ河に飛び込んだ元気な少年の痕跡は、何も残っていなかった。//
 (20) テレツキーに励まされて、労働が終わったあとでレフは木材乾燥所に行き、身体を温めることになる。
 産業区域には監視付きの護送車はなかった-受刑者たちは、仕事場まで自分で行くように放っておかれた。したがって、レフが材木コンベアでまたは製材所の近くで働いていると、毎日の最後に第二入植地区へと帰る途中で、乾燥所のそばに止まることのできる時間があった。なお、第二入植地区に入る際は、監視用建物を通って、人数を数えられた。
 レフは、乾燥所を訪れたことによって、殺されそうになる労働から救われた。//
 (21) 乾燥所に付属している研究実験室の長は、G・ストレルコフ(Georgii Strelkov)という名の、内戦を闘った年配ボルシェヴィキで、ソヴィエトの年長の実業家だった。この人物は、1937年に逮捕されるまで、重工業人民委員部の一部署であるクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)のMinusazoloto 金鉱トラストの長だった。
 彼は、シベリアの遠く北東にあるコルィマ(Kolyma)金鉱にいた飢えていく受刑者たちの報告に関心をもって、食糧を載せた二隻の船を派遣した。しかしそれは、NKVDによって妨害され、全ての食糧が奪い去られて、その代わりに新しい受刑者たちが船に乗せられた。
 NKVDは、どれだけ多数の人々が死のうと気にかけず、食糧を無駄にしたとストレルコフを責めた。
 ストレルコフは、「反革命的活動」で訴追された。
 銃殺刑の判決を受けたが、執行は猶予された。そして20年間、ペチョラ労働強制収容所で、手紙をやり取りする権利を奪われたままだった。
 彼の専門技術をペチョラのグラク当局が高く評価したので、彼は木材工場群で実験的な仕事に就くこととなった。但し、25年の判決を受けた受刑者として、困難な手作業に従事しなければならなかった。
 グラク当局は、ストレルコフが営舎ではなく実験室で生活するのを認めた。それは、いくつかの技術的問題や産業区域内のその他の問題を解決するために、彼の存在がばしば必要になったからだった。
 ストレルコフは、標準服ではなく、スーツを着ることすら認められていた。//
 (22) ストレルコフは厳格で頑固だったが、親切でもあった。
 彼の木材工場群での権威のおかげで、彼は引揚げチームで完全に疲労消耗した多数の受刑者たちを、乾燥所または工場へと移すことによって、救うことができた。こうした介入がしばしば、収容所当局との間に悶着をもたらしたのだったとしても。
 ストレルコフは、怖れなかった。
 自分がグラクの幹部たちに必要とされていることを、知っていた。そして、数年間にわたって、彼の意向に沿って何とかシステムを動かそうとした。
 1946年、乾燥所は専門技術をもつ新しい技術者をはなはだしく必要とするようになった。
 高圧蒸気暖房機が十分に速く材木を乾燥させなかったので、設定された目標を達成しようとする工場に、必要な量の材木を供給することができなくなった。そして、内務省または(1946年3月にグラクの運営をNKVDから引き継いだ)MVDからの、業績達成能力を改善せよという圧力が、日増しに強くなった。
 ストレルコフはレフが科学者であることを知って、技術者として乾燥所に加わるようレフを誘った。そして、蒸気室で作業させた。
 レフの仕事は、材木の外皮部分を乾燥する状態にさせることだった。
 蒸気室は最低でも摂氏70度で維持されており、また手と顔を覆って入ったため、一度に数分間以上はそこにとどまることができなかった。
 苛酷な肉体的労働だったが、河から材木を引き揚げるのに比較すると、レにとっては「楽園」だった。//
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 第3章③へとつづく。