リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第3節・事務就労者たちのストライキ。
 (1)知識人は、全国にわたる<duvan>に参加せず、掏摸たち等が使う「音のする鞄」に注意を逸らされはしない一つのグループだった。
 彼らは、かつてきわめて熱狂的に、二月革命を歓迎した。
 しかし、十月のクーは拒否した。
 何人かの共産主義歴史研究者ですら、学生、教授、作家、芸術家、および反帝制へと誘導したその他の者たちは、ボルシェヴィキによる権力奪取に圧倒的に反対した、と認めるに至っている。
 その研究者の一人は、「ほとんど」の知識人が「妨害行為(sabotage)」をした、と述べる。(47)
 ボルシェヴィキがこの抵抗に打ち勝つには、数カ月にわたる強要と甘言が必要だった。
 知識人たちは、体制が落ち着いて、それを拒否すれば却って事態を悪くするという結論に達した後でようやく、ボルシェヴィキと協力し始めた。
 (2)ロシアの教育を受けた層が十月のクーを拒否していることを最も劇的に表現したのは、事務系(white-collar)の人々による総罷業(ゼネ・スト, general strike, sluzhashchie)だった。
 当時とその後のボルシェヴィキは、この行動は「妨害行為(sabotage)」だとして否定した。しかし、それは実際には、国の公務員や民間企業の就労者が民主主義の破壊に反対する、巨大で非暴力的な抗議運動だった。(48)
 ボルシェヴィキに人気のなさを知らしめ、統治するのを不可能にさせるのを意図したストライキが、自発的に勃発した。
 そのストライキはすぐに、組織的な構造を形成し始めた。まず初めは、各省庁、国有銀行その他の公的組織のストライキ委員会の形態をとり、次いで祖国と革命の救済委員会(Komitet Spaseniia Rodiny i Revoliutsii)と呼ばれる組織となった。
 この委員会は最初は、都市や町の議会(Duma)の職員、ボルシェヴィキが解散させたソヴェト中央執行委員会の委員たち、全ロシア農民ソヴェトの代表者たち、政府職員組合総同盟、および郵便事業就労者を含むいくつかの労務職員組合で構成された。
 徐々に、左翼エスエルを除くロシアの社会主義諸政党の代表者たちも、これに加わっていった。
 委員会は全国民に対して、強奪者(usurpers)に協力しないこと、民主主義の復活のためにともに闘うことを訴えた。(49)
 〔1917年〕10月28日、委員会はボルシェヴィキに対して、権力を手放すことを要求した。(50)
 (3)10月29日、ペトログラードの政府職員組合総同盟は、この(ストを財政支援すると見られる)委員会と協同して、組合員に対して、業務を止めるよう求めた。
 「ペトログラード政府職員組合総同盟執行委員会は、立憲会議招集の一ヶ月前のボルシェヴィキ一派による権力強奪にかかる問題について全ロシア政府職員組合の代議員と討議したうえで、またこの犯罪的行為がロシアと革命の全成果を破壊せんとしていることを考慮し、かつ祖国と革命救済全ロシア委員会と一致して、つぎのとおり決議する。
 1.政府の全行政部署の業務は、ただちに停止されるべきこと。
 2.軍および国民への食糧供給の問題は、公安秩序維持関係組織の活動の問題とともに、組合総同盟執行委員会との協力のもとで、(祖国と革命)救済委員会によって決定されるものとする。
 3.すでにその業務を停止した行政部署のその行為は、是認される。」(51)
 (4)この訴えは、広範囲の注目を受けた。
 すぐに、ペトログラードの全省庁の業務が止まった。
 伝達員や若干の書記職員を除いて、各省庁の職員たちは、仕事に来なくなったか、やって来ても座って何もしなかった。
 新たに任命されていたボルシェヴィキの人民委員たちは、行き場所がなくて、スモルニュイのレーニンの周りにたたずんだ。そして、誰も注意を払わない命令を発した。
 彼らが担当省庁に入ることは阻止された。
 「10月〔のクー〕初めの後、以前の省庁にやって来た人民委員たちは、山のように積まれた書類やファイルのほか、伝達員、清掃人および門衛の姿だけを見た。
 課長や課員から始まりタイピストや複写担当者まで、全ての職員が、人民委員を認めるのを拒み、仕事から離れることが自分たちの義務だと考えていた。」(52)
 トロツキーは、11月9日-任命されたのち二週間後-に外務省を敢えて訪れたとき、バツの悪い体験をした。
 「昨日、新『大臣』のトロツキーが、外務省にやって来た。
 全職員が集合するよう呼びかけた後で、彼は『私が新しい外務大臣、トロツキーだ』と言った。
 彼は、皮肉な笑いで迎えられた。
 そのことにトロツキーは注意を向けず、仕事に戻るよう職員たちに言った。
 職員たちは去った。…、しかし、自分たちの家へだった。トロツキーが省のトップにとどまっているかぎり、役所には帰って来ないつもりだった。」(53)
 労働人民委員のシュリャプニコフは、自分の省の指揮を執ろうとしたとき、似たような受けとめ方をされた。(54)
 ボルシェヴィキ政府はかくして、権限を掌握した数週間あとで、国の公務員が仕事をするように説得することができない、そのような馬鹿げた状況にいることに気づいた。
 したがって、ボルシェヴィキ政府が機能していたとは、ほとんど言い難い。
 (5)ストライキは、非政府系の組織へも広がった。
 民間銀行は11月1日に早くも入口を閉めており、全ロシア郵便通信従業員同盟は、ボルシェヴィキ政府が連立内閣に道を譲らなければ、業務を停止するよう命令する、との声明を発表した。(55)
 すぐに、電信電話従業員たちが、ペトログラード、モスクワ、および若干の地方都市で、業務をやめた。
 11月2日、ペトログラードの薬剤師たちがストライキに加わった。
 11月7日、水輸送業者たちが、学校の教師たちに追随した。
 11月8日、ペトログラードの印刷業者たちが、かりにボルシェヴィキがプレス布令を実施すれば、やはりストライキをする、と発表した。//
 (6)ボルシェヴィキにとって最も痛かったのは、政府の財務部局、つまり国有銀行と国有財産局の業務が停止したことだった。
 ボルシェヴィキは当面の間は、外務省または労働省の職員がいないままでも何とかやって行けた。しかし、金銭は、持たなければならなかった。
 国有銀行と国有財産局は、ボルシェヴィキは正統な政府ではないという理由で、資金を求めるソヴナルコムの要請を拒否した。
 人民委員の署名付きの小切手をもってスモルニュイから伝達員が派遣されたが、彼らは手ぶらのままで戻って来た。
 銀行と財産局の幹部職員たちは前の臨時政府を承認しており、その代表者にだけ支払いをした。
 彼らはまた、正統な公的組織や軍隊からの要請には応じて支払いをした。
 11月4日、彼らの行動が一般国民の困難をもたらしているとするボルシェヴィキの責任追及に答えて、国有銀行は、その前の一週間に国民と軍隊の需要のために6億1000万ループルを支払った、と宣告した。
 その総額のうち4000万ルーブルは、前の臨時政府に渡っていた。(56)//
 (7)10月30日、ソヴナルコムは国有と民間の全ての銀行に対して、翌日には業務を再開するように命令した。
 政府からの小切手や為替手形の支払いを拒めば、専務理事を逮捕することになる、と警告した。(57)
 この脅かしによって、若干の民間銀行は再開したが、ソヴナルコムが発行した小切手を現金化する銀行はなかっただろう。//
 (8)金が絶対的に必要になって、ボルシェヴィキは苛酷な手段を用いた。
 11月7日、新しい財務人民委員のV. R. メンジンスキー(Menzhinskii)が、武装海兵と一軍団を引き連れて国有銀行に現れた。
 彼は、1000万ルーブルを要求した。
 銀行は、断わった。
 メンジンスキーは、さらに多い兵団と一緒に4日後に姿を見せて、最後通告を発した。現金を20分以内に貰えなければ、国有銀行幹部職員は仕事と地位を失うのみならず、兵役年齢にあるとして徴兵されるだろう。
 しかし、国有銀行は、動じなかった。
 ソヴナルコムは銀行幹部の何人かを馘首した。しかし、政府が責任を引き受けたのち2週間以上の間、現金を手にすることができなかった。//
 (9)11月14日、ペトログラードにある諸銀行の書記従業員たちは、つぎに何をするかの会合をもった。
 国有銀行の従業員は、ソヴナルコムの承認を圧倒的に拒否する票決を行い、ストライキを継続した。
 民間銀行の事務職員たちも、同じ結論を下した。
 国有財産局の職員たちは、142対14の票決を行って、政府の基金をボルシェヴィキが用いるのを拒んだ。彼らもまた、2500万ループルの「短期前渡」の要請を拒絶したのだ。(58)
 (10)このような抵抗に遭遇したボルシェヴィキは、実力行使(force)に訴えた。
 11月17日に、メンジンスキーが国有銀行に再び現れた。伝達人と門衛を除いて、銀行には人けがなかった。
 国有銀行の幹部たちは、武装衛兵によって拘引されていた。
 彼らが金を手渡すのを拒んだとき、武装衛兵たちは金庫を開けるように強いて、メンジンスキーは、そこから500万ルーブルを取り出した。
彼はビロード製鞄でそれを運び、勝ち誇ってレーニンの机の上に置いた。(59)
 こうした活動は全体が、銀行強盗に似ていた。//
 (11)ボルシェヴィキはようやく、国有財産局の現金を利用できるに至った。しかし、逮捕をしていったにもかかわらず、国有銀行職員のストライキは、続いた。
 ほとんど全ての銀行が、業務を止めたままだった。
 ボルシェヴィキ兵団が国有銀行を占拠したが、同銀行は活動しなかった、
 レーニンが1917年12月に、彼の秘密警察、すなわちチェカ(Cheka)を設置したのは、もともとはこの財政担当職員らの抵抗を排除するためだった。//
 (12)当時の調査によると、12月半ばには、外務、教育、法務および供給の各省(人民委員部と改称されている)では業務が静止しており、国有銀行は完全に混乱の中にあった。(60)
 地方諸都市でも、事務系就労者のストライキが起きた。
 11月半ばにモスクワ市庁の職員が、ストを始めた。12月3日には、ペトログラード市の彼らの仲間たちがそれに従った。
 彼らが仕事を中止したことには、共通の目的があった。それは、1905年10月のゼネ・ストを模範として、政府が専制的支配をするのを断念させることだった。
 カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、および若干のその他のレーニンの同僚たちを動かしたのは、この力強い示威運動だった。その他の社会主義諸党と権力を分かち合わなければならない、そうでないと政府は機能することができない、と彼らは考えたのだ。//
 (13)しかしながら、レーニンは、自己の基礎を揺るがすことなく、11月半ばに、反対攻撃をすることを指令した。
 ボルシェヴィキは今や次から次へと、ペトログラードの公的組織の全てを物理的に占拠し、厳しい制裁でもって脅かして、被用者たちが自分たちのために仕事をするように強いた。
 当時の新聞が報告するつぎのような事件が、多くの場所で繰り返された。
 「10月28日(旧暦)、ボルシェヴィキは関税(costoms)関係部署を掌握した。
 占拠した関税部署の指揮官として、ファデネフ(Fadenev)という名の官僚が着任した。
 クリスマス祝日の前夜に、その部署の合同会議に従って、彼は、全員が12月28日に仕事に復帰するよう命令した。登庁しない者は仕事を失い、訴追される可能性がある、と脅かしもした。
 12月28日、その部署の建物は、監察官により占拠された。
 ボルシェヴィキは、「人民委員会議」に完全に服従するとの宣明書に署名する、という意向をもつ職員だけが建物に入るのを許した。」(61)
 関税部署の指揮官は、すぐそのあとで解任され、下級の書記的職員に代わった。
 ボルシェヴィキが中央政府機構を言葉の字義どおりに征圧(conquer)するたびに、同じことが繰り返された。その征圧にはしばしば、早く昇進させるという約束を獲得した若い職員が協力していた。
 ボルシェヴィキは、1918年1月になってようやく、事務系就労者たちのストライキを打ち破った。それは、立憲会議を解散させ、ボルシェヴィキが自発的に譲歩するという望み、あるいは権力を分かち合うという望みすら、全ての希望をボルシェヴィキが断ち切った後でのことだった。//
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 (47) S. A. Fesdiukin, Velikii Oktiabr' i intelligenzia(Moscow, 1972); E. Ignatov in PR, No. 4/75(Moscow, 1928),p.34.
 (48) この事件の物語は、きわめて不適切に隠されている。D. Antoshkin, Professonal'noe dvizhenie sluzhashchikh, 1917-1924 gg.(Moscow, 1927), およびZ. A. Miretskii in A. Anskii, ed., Professional'noe dvizhenie v Petrograde g.: Ocherkib i materialy(Leningrad, 1928), p.231-p.241.を見よ。
 (49) DN, Nos. 191 &192(1917年10月28日); NZh, No. 164/158(1917年10月27日), p.3.
 (50) Revoliutsiia, VI, p.14.
 (51) Volia naroda, No.156(1917年10月29日). Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.225.が引用する。
 (52) VS, No.11(1919年), p.5.
 (53) DN, No. 191 (1917年11月10日), p.3. Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.226.が引用する。
 (54) Protokoly II'go Vserossiskogo S"ezda Kommissarov Truda(1918), p.9 & p.17. M. Dewar, Labour Policy in the USSR(London, 1956), p.17-p.18.
 (55) Revoliutsiia, VI, p.50.
 (56) NZh, No. 178/172(1917年11月11/24), p.3; B. M. Morozov, Sozdanie i ukreplenie sovetskogo gosudarstvennogo apparata(Moscow, 1957),p.52.
 (57) Dekrety, I, p.27-p.28.
 (58) NZh, No. 182/176(1917年11月16/29).
 (59) N. Osinskii in EZh, No.1(1918年11月6日), p.2-p.3. A. M. Gindin, Kak bol'sheviki ovladeki Gosundarstvennym Bankom(Moscow, 1961).も見よ。
 (60) NV, No.6(1917年12月6/18), p.3.
 (61) 同上, No.25(1917年12月30日), p.3.
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 第3節、終わり。第4節の目次上の表題は、<人民委員会議>。第5節は<左翼エスエルとの合致と農民大会の破壊>。第6節は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。