リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる④。
 (44)このような、またはこれに類似の、とくに経済に関する批判が、ソヴェト大会またはCEC の強い反対派から生じるだろうと予期して、ボルシェヴィキはさらにもう一つの法令を発した。それは、政府とソヴェトの関係の問題に関連していた。
 「法令(laws)の裁可と公布の手続に関して」、その布令は、ソヴナルコムが立法する(legislative)機関として行動する権利を主張した。CEC の権限は、布令(decree)がすでに施行された後で裁可するか廃止するかに、限定される。 
 この布令は、ソヴェト大会がほんの数日前にボルシェヴィキが政府を形成することを権威づけた、その条件を完全に覆すものだった。この布令文書には、レーニンの署名があった。
 しかし、元はメンシェヴィキで9月にレーニン側に移って彼に最も影響を与える経済助言者となったI・ラリンの回想録では、草案を書いてレーニンに知らせることなく自分の権限で発布したのは彼自身だ、と主張されている。また、レーニンは、公式の<官報(Gazette)>で読んで初めて知った、とされている。(36) //
 (45)ラリン=レーニン布令は、立憲会議が招集されるまで効力をもつと主張していた。
 そのときまでは、諸法令は労働者と農民の臨時政府(ソヴナルコム)が立案し、公布される、と宣言されていた。
 ソヴェト中央執行委員会(CEC )は、そのような法令(laws)を遡及して「停止し、変更し、廃止する」権限を維持した。(*)
 ボルシェヴィキは、この布令を根拠として、ボルシェヴィキは、1906年の基本法第87条と同等のものにもとづいて立法(legislate)する権利がある、と主張した。//
 (46)議会という「妨害主義者」から政府を免れされる、この簡素化された手続によって、ゴレムィキン(Goremykin)あるいは旧体制のどの保守的官僚たちも、警戒する気持ちになっただろう。だが、社会主義者たちが「ソヴェト」政権に期待したものでもなかった。
 CEC は、増大する警戒心をもちつつ、このような展開に付いていった。
 ソヴナルコムが行っている、統制がきかない「主人化(bossing)」(<khoziaistvovanie>)による自分の権威への侵害と、その同意がないままでの布令の公布に対して、CEC は異を唱えた。(37)
 (47)この問題は、11月4日の会議の際に頂点に達した。これが、「ソヴェト民主主義」の運命を決めた。
 レーニンとトロツキーは、革命前の帝制時代の大臣たちがそれらの活動の正当性についてドゥーマ〔帝制議会〕からの説明要求に応じていたように、説明するようにCEC に招かれた。
 左翼エスエルは、なぜ政府は第二回ソヴェト大会の意思を何度も侵犯するのかを、知りたかった。その意思によれば、政府は中央執行委員会に対して責任をもつ。
 彼ら左翼エスエルは、布令による統治をやめるよう強く主張した。(38)
 (48)レーニンはこれを、「ブルジョア形式主義」だと見なした。
 彼は長い間、共産主義体制は立法権と執行権をともに結合させなければならない、と考えていた。(39)
 よって、質問がいくらあっても答えることができないし答えようともしなかっただろう。レーニンは、ただちに攻勢に回って、逆襲の空気を醸成した。
 ソヴィエト政府は、「形式的なこと」には拘束され得ない。
 ケレンスキーの怠惰が致命的だったと分かった。
 ケレンスキーの行動に疑問を呈する者は、「議会による妨害主義の弁明者」だった。
 ボルシェヴィキ権力は、「広範な大衆の信頼」に依拠している。(40)
 このいずれも、なぜわずか一週間前に自分が掌握した政府が服すべき条件をレーニンが侵犯しているのか、の説明にはなっていなかった。
 トロツキーは、もう少し実質的な答え方をした。
 ソヴェト議会(ソヴェト大会とその執行委員会の意味)には「ブルジョア」議会とは違って、敵対する階級がない、そのゆえに、「伝統的な議会機構」を必要としない。
 こういう議論が示すのは、階級の差異が存在しなければ見解の違いも存在しない、ということだ。そして、ここから推論することができるのは、見解の違いが意味するのは実際には(ipso facto)「反革命」だ、ということだ。
 トロツキーは続ける。「政府と大衆」は形式的な制度や手続によってではなく、「活力のある、かつ直接的な紐帯」で結びついている。
 ファシストの実務を正当化するために類似の論拠を用いることとなるムッソリーニの先鞭を付けて、彼はこう言った。「我々の布令が穏やかではないのは本当かもしれない。<中略> しかし、活力ある創造性を求める権利は、形式的な完全性よりも優先する」。(41)
 (49)レーニンやトロツキーの見当違いと首尾一貫性のなさにより、CEC の多数派は納得することができなかった。
 ある範囲のボルシェヴィキですら、動揺しているのを感じた。
 左翼エスエルは、鋭く反応した。V. A. カレーリンはこう述べた。
 「『ブルジョア』という語の濫用には異議がある。
 責任(accountability)と詳細にわたる厳格な秩序は、ブルジョア的政府だけの義務なのではない。
 言葉をもて遊び、過ちを粉飾し、ばらばらの不愉快な言葉に迷い込むのは、やめて貰いたい。
 本質的に人民的であるプロレタリア政権は、自己に対する全ての統制を許容するものでなければならない。
 要するに、ある企業を奪い取った労働者たちも、記帳と会計を廃止するまでには至らない。
 頻繁かつ多数の法的な遺漏があるだけではなくしばしば文法的誤りもある布令を急いでこしらえることは、状況をさらに大きく混乱させる。上から付与されるように法令を受容することに慣れている地方では、とくにそうだ。」(42)
 もう一人の左翼エスエルのP. P. プロシアン(Proshian)は、ボルシェヴィキのプレスに関する布令について、「政治的テロルのシステムを明確かつ決定的に表現するものであり、内戦を誘発するものだ」と、叙述した。(43)//
 (50)ボルシェヴィキは、プレス布令の票決で、簡単に勝利した。
 ラリンが提案したその布令を廃止する動議は、24対34、保留1で敗北した。(*)
 このような是認があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、1918年8月までは、諸新聞を沈黙させることができなかった。その8月に彼らは、全ての自立新聞紙と雑誌を排除したのだ。
 そのときまで、ソヴィエト・ロシアには、驚くべきほど多彩な新聞や雑誌があった。その中には、リベラル志向のものもあり、保守的な方向のものもあった。
 重い罰金が課され、その他の方法のために疲れ切っていたが、何とか生き長らえてきたのだった。
 (51)ソヴナルコムのCEC に対する責任については、まだ重要な問題が残っていた。
 ボルシェヴィキ政府はこの問題については、最初から最後まで、信任投票にかけられた。
 左翼エスエルのV. B. スピロ(Spiro)の動議は、こうだ。
 「人民委員会議長の説明を聞いたが、中央執行委員会は、不満足だと見なす」。
 ボルシェヴィキのM. S. ウリツキ(Uritzkii)は、レーニン政権を信任する反対動議で応えた。
 「説明要求に関して、中央執行委員会は、つぎのとおり決議する。
 1.労働者大衆のソヴェト議会は、その手続につき、ブルジョア議会と何ら共通性をもたない。ブルジョア議会には対立する利害をもつ多様な階級が代表されており、支配階級は規約や指示書を立法による妨害物という武器に変えている。
 2.ソヴェト議会は、人民委員会議が中央執行委員会による先行する議論なくして、全ロシア・ソヴェト大会の一般的な基本方針の枠の範囲内で、緊急の布令を発する権利を有することを、拒むことはできない。
 3.中央執行委員会は、人民委員会議の活動に対して一般的な統制を及ぼし、自由に政府とその構成人員を変更するものとする。<以下略>」(44)
 (52)スピロによる不信任動議は、20対25で敗れた。この少ない投票数は、9人のボルシェヴィキの離脱の結果だった。そのうち何人かは人民委員で、この会合で辞任を発表した(上述)。
 この消極的な勝利は、レーニンには十分でなかった。
 彼は、ウリツキの動議の票決で、自分の政府は立法権をもつことが、公式にかつ議論の余地なく、確認されることを望んだ。
 しかし、ボルシェヴィキ幹部たちが突然に躊躇し始めたために、その見込みは疑わしく見えた。
 事前の票読みでは、ウリツキの動議への賛否は、同数だった(23対23)。
 レーニンとトロツキーは、この事態を避けるべく、投票に自分たちも参加する、と発表した。-大臣が立法府の一員となって、承認を求めて提出した法令に賛成を投票するのと同等の行為だ。
 かりにロシアの「議会政治人」にもっと経験があったならば、この茶番劇に参加するのを拒んだだろう。
 しかし、全員がそのままとどまり、投票が行われた。
 ウリツキの動議は、25対23で採択された。決定的な2票は、レーニンとトロツキーによって投じられた。
 二人のボルシェヴィキ指導者は、この単純な手続でもって、立法権限を盗み取り、代表者であるはずのCEC とソヴェト大会を立法機関からたんなる諮問機関へと変えた。
 これは、ソヴィエトの国制(constitution)史上の、大きな分岐点だった。//
 (53)その日遅く、ソヴナルコムは、法令は公式の官報(<労働者と農民の臨時政府公報>)(<Gazeta Vremennogo Rabochego i Krest'ianskogo Pravitel'stva>)に登載されたときに、発効する、という声明文を発表した。//
 (54)ソヴナルコムは今や、事実上は最初からそうだったものに、つまり執行権と立法権を併せもつ機関に、理論上もなった。
 CEC にはしばらくの間は、政府の活動について議論する権利、現実の政策には何の影響も及ぼさなくとも、少なくとも批判する機会があるという権利が、認められた。
 しかし、全ての非ボルシェヴィキが排除された1918年6月-7月以降、CEC は、共鳴機構(echo chamber)に変えられた。ボルシェヴィキ代議員たちが機械的な作業としてボルシェヴィキ・ソヴナルコムの決定を「裁可」した。かつまた、そのソヴナルコムの決定は、ボルシェヴィキ党中央委員会の決定を実施するものだった。(*)
 (55)この日から、ロシアは、布令(decree)によって統治された。
 レーニンは、1905年以前にツァーリが享有した特権を握ることになった。
 レーニンの意思が、法(law)だった。
 トロツキーの言葉によると、「臨時政府は打倒されたと宣言したそのときから、レーニンは、問題が大であれ小であれ、政府として行動した」。(+)
 ソヴナルコムが発する「布令」は、フランス革命期から借用した名称であってロシアの国法上は従前は知られていないものだったけれども、十分に皇帝の<ukazy>に匹敵するものだった。皇帝のそれは、「布令」と同様に、きわめて瑣末な問題からきわめて重大な問題を扱い、専制君主が署名を付した瞬間に効力をもつに至った。
 (I・シュタインベルク(Isaac Steinberg)によると、「レーニンはふつうに、自分の署名は政府の全ての行為を十分なものにしなければならない、と考えていた。)(45)
 レーニンの幹部秘書のボンチ=ブリュエヴィチ(Bonch-Bruevich)は、レーニンが署名するだけで布令は法令たる効力をもった、人民委員の一人が提案して発せられたものであってすら、と書いている。(46)(++)
 このような実務は、ニコライ一世またはアレクサンドル三世にとっては、全く理解可能なものだっただろう。
 ボルシェヴィキが十月のクーから数週間以内に設定した統治のシステムは、1905年以前にロシアを支配した専制体制への逆戻り(reversion)を画するものだった。そしてそれは、間に介在した12年間の立憲主義体制(constitutionalism)を完全に一掃した。 //
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 (36) Iu. Larin, in NKH, No.11(1918年), p.16-p.17.
 (*) Dekrety, I, p.29-p.30. この布令が発布された日付を確定することはできない。ボルシェヴィキの新聞1917年10月1日と11月1日付には掲載されている。
 (37) M. P. Iroshnikov, Sozdanie sovetskoe tsentral'nogo gosudarstvennogo apparata, 2nd. ed.(Leningrad, 1967), p.115. L. H. Keep, ed., The Debate on Soviet Power(Oxford, 1979), p.78-p.79.
 (38) Protokoly zasedanii Vserossiiskogo Tsentral'nogo Ispolnitel'nogo Komitera Rabochikh, Soldatskikh, Krest'ianskikh i KazachHkh Deputatov II Sozyva(Moscow, 1917), p.28.
 (39) レーニン, PSS, XXXIX, p.304-5.
 (40) 同上, XXXV, p.58.
 (41) Protokoly zasedanii, p.31.
 (42) 同上, p.32.
 (43) Revoliutsiia, VI, P.73.
 (*) A. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Leningrad, 1969), p.169-p.170.
 ボルシェヴィキは、5名の信頼できる党員でCEC への反映が増加することに対する事前の対抗措置をとった。
 (44) Protokoly zasedanii, p.31-p.32.
 (*) 1919年12月に、CEC に名目上はまだ残っていた若干の権限は、その議長に移された。議長はそれによって、「国家の長」となった。
 元々は継続的なものと考えられていたCEC の会議は、それ以来ほとんど開催されなかった。1921年には、CEC は3回だけ催されている。
 E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, I (New York, 1951), p.220-p.230.を見よ。 
 (+) "kak pravitel'stvo": L. トロツキー, O Lenin(Moscow, 1924),p.102. 英語翻訳者はこの文章を間違って、レーニンは「政府がすべきように行動した」と読んだ。: L. トロツキー, Lenin(New York, 1971), p.121.
 (45) I. Steinberg, Als ich Volkskommissar war(Munich, 1929), p.148.
 (46) S. Piontkovskii, in BK, No.1(1934年), p.112.
 (++) 以下で述べるように、これには例外があった。
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 第2節、終わり。第3節の目次上の表題は、<事務系(white collar)労働者のストライキ>。