リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。
 第12章・一党国家の建設。
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 第2節・レーニン・トロツキー、ソヴェト中央執行委員会への責任から逃れる③。 
 (29)ボルシェヴィキが翌日につぎのことを知ったとき、この合意によって得たかもしれない安息の気分は、消え失せた。社会主義諸党の支持を受けた鉄道被用者同盟が、ボルシェヴィキはこぞって政府から退くようにという、強い主張を掲げたのだ。  
 まだレーニンとトロツキーを欠いていたボルシェヴィキ中央委員会は、その日のほとんどをこの要求について討議して過ごした。
 きわめて昂奮した雰囲気だった。アタマン・クラスノフが率いる親ケレンスキー軍が、いつ市内に突入しても不思議ではなかったのだから。
 何がしかの救いを求めて、カーメネフは、妥協を提案した。すなわち、レーニンはエスエル指導者のV・チェルノフ(Victor Chernov)にソヴナルコム議長職を譲って退任し、ボルシェヴィキは、エスエルとメンシェヴィキが支配する連立政権での次席的立場を受け容れる。(26)
 (30)その夜にかりに、クラスノフの軍が敗退したという知らせが入って来なかったとすれば、この譲歩はどうなっていたのか、を語るのは困難だ。
 (31)軍事的脅威を取り除いたレーニンとトロツキーは、今ようやく、党中央委員会の「降伏主義」方針が生んだ災難的政治状況に注意を向けた。
 11月1日夕方に中央委員会が再招集されたとき、レーニンは、統制できないほどの激しい怒りで激高していた。(27)
 レーニンは、こう要求した。「カーメネフの方針は、ただちに止められなければならない」。
 中央委員会は、同盟との交渉は「軍事行動をするための外交的粉飾」だとして、それを実施すべきだっただろう。-つまり、想うに誠実さによってではなく、ただケレンスキー兵団に対抗する助力を確保するためだけにでも。
 レーニンの要求に対して、中央委員会の多数派は動かされなかった。
 ルィコフは、勇気を出して、ボルシェヴィキは権力を維持することができない、という見解を語った。
 票決に付された。10名は連立政府に関する他社会主義諸党との会話を継続することを支持した。わずか3名だけが、レーニンの側についた(トロツキー、ソコルニコフ、そしておそらくジェルジンスキー)。
 スヴェルドロフですら、レーニンに反対した。
 (32)レーニンは、屈辱的な敗北に直面した。すなわち、彼の同志たちは十月の勝利の果実を投げ棄てるつもりであり、「プロレタリア独裁」を樹立するのではなく、小さな協力者として「プチ・ブルジョア」諸政党と権力を分有するだろう。
 そのときレーニンを救ったのは、トロツキーだった。トロツキーは、賢い妥協策でもって介入した。
 彼は、譲歩を激しく非難し始めた。こう言った。
 「我々には建設的な仕事をする能力がない、と言われている。
 しかし、かりにその通りだったとすれば、我々は単純に、正しく我々と闘っている者たちに権力を譲り渡すべきだ。
 しかし実際には、我々はすでに多くのことを達成した。
 銃剣に座るのは不可能だ、と我々は言われている。
 しかし、銃剣なくしては、どちらもすることができない。<中略>
 こちら側とあちら側と今はどちらにも立つことのできない全プチ・ブルジョアの屑どもは、ひとたび我々の権威は強いものだと知るならば、(同盟も含めて)我々の方にやって来るだろう。<中略>
 プチ・ブルジョア大衆は、従うべき力(force)を探し求めているのだ。」(28)
 アレクサンドラがニコニライに想起させたかったように、「ロシアは笞打ちを感じるのを愛する」。 
 (33)トロツキーは、時間稼ぎの方策を提案した。連立内閣に関する交渉は、十月のクーを受容する唯一の党である左翼エスエルとの間で継続すべきだ。一方、もう一度やってみて合意に達しなければ、他の社会主義諸党との交渉はやめるべきだ。
 この提案は、窮地から脱するには合理的でない方策だとは思われず、提案は支持された。
 (34)レーニンは、党幹部たちの敗北主義に終止符を打つと決意して、翌日の論争に加わり、中央委員会は「反対派」を非難せよと要求した。
 多数派の意思に反対していたのはレーニンなのだから、これは奇妙な要求だった。
 これに続いた議論で、レーニンは、その反対者たちを何とか分裂させることに成功した。
 反対派を非難する決議が、10対5で採択された。
 結果として、レーニンに最後まで立ちはだかった5人は、諦めた。その5人は、カーメネフ、ジノヴィエフ、ルィコフ、ミリューティン、およびノギンだ。
 11月4日、<イズヴェスチア>は、彼らがその行動を説明するつぎの書簡を掲載した。
 「11月1日、中央委員会は、社会主義ソヴェト政府の設立を目的とするソヴェト(他の)諸党との合意を拒絶した。<中略>
 我々は、さらなる流血を避けるためには、かかる政府の設立がきわめて重要だと考える。<中略>
 中央委員会の主流グループは、ソヴェト諸党から成る政府の設立を許さず、どんな帰結をもたらそうとも、そしてどれだけ多数の労働者や兵士が犠牲となる必要があろうとも、純粋にボルシェヴィキの政府に固執する、という固い決意を明瞭に示す多くの企てを行ってきた。
 我々は、かかる致命的な中央委員会の政策方針に対して、責任をとることができない。その方針は、プロレタリアートと兵団の大多数の意思に反することを追求するものだ。<中略>
 これらの理由で、我々は、労働者大衆および兵士たちに明らかになる前に、我々の見解を防衛する権利を行使すべく、また、我々のスローガン、『ソヴェト諸政党の政権よ、永遠なれ』に対する支持を彼らに訴えるために、中央委員会から離任する。」(29)
 (35)二日のち、カーメネフはCEC 〔ソヴェト中央執行委員会〕の議長を辞任した。
 つぎの4人民委員(11閣僚中)も、同様に辞任した。ノギン(通商産業)、ルィコフ(内務)、ミリューティン(農業)、およびテオドロヴィチ(供給)だ。
 労働人民委員のシュリャプニコフは、書簡に署名していたが、職にとどまった。
 何人かの下位の人民部員のボルシェヴィキ党員も、同様だった。
 辞任する人民委員たちの書簡は、こう書いている。
 「我々は、全ての社会主義諸党による社会主義政府の設立が必要だ、という立場をとる。
 我々は、かかる政府の設立のみによってのみ、10月-11月の日々における労働者階級と革命的軍隊の英雄的闘争の成果を確固たるものにすることが可能だ、と信じる。
 我々は、排他的ボルシェヴィキ政権を政治的テロルによって持続させることだけが唯一の選択肢になっている、と考える。
 これが、人民委員会議が採用した途だ。
 我々は、この途を進むことはできないし、進みたくもない。
 我々は、この途の行き着く先は、政治生活の運営からの大衆的プロレタリア諸組織の排除、無責任体制の構築、そして革命とこの国の破壊だ、と考える。
 我々は、この政策方針に対する責任を負うことができない。よって、CEC に対して、人民委員職の辞任を申し出る。」(30)//
 (36)レーニンは、このような抗議や辞任を受けて、眠られないということはなかった。迷える羊たちはすぐに囲いの中に戻ってくる、という確信があったからだ。そして、実際に、そうなった。
 彼らは、他のどこに行けただろうか?
 社会主義諸党は彼らを追放する。
 リベラル派は、かりに権力を握ったとすれば、彼らを監獄に送り込むだろう。
 右翼政治家たちは、彼らを絞首刑にする〔=吊す〕だろう。
 彼らが肉体的に生存しつづけること自体が、レーニンの成功にかかっていたのだ。//
 (37)ボルシェヴィキ党中央委員会が採択した決定は、年下の同僚およびボルシェヴィキの決定にめくら判を捺す者という役割に甘んじるつもりのある政党とだけ、権力を共有する、ということを意味した。
 ボルシェヴィキが数人の左翼エスエルが内閣に加わることを許容した4ヶ月間(1917年12月~1918年3月)を除いて、いわゆるソヴィエト政府は、ソヴェトの構成を決して反映しなかった。ソヴェトを外面上だけ偽装した、ボルシェヴィキ政権のままだったのだ。
 (38)レーニンは今や、対抗する社会主義諸党による権力共有の要求を斥けることができた。
 しかし、彼はなお、自分の閣僚たちが責任を負うべきソヴェト議会だ、というCEC の変わりない主張に、対処しなければならなかった。//
 (39)ボルシェヴィキが十月に摘み取ったCEC は、自分たちは社会主義ドゥーマであって、政府の活動を監視し、内閣を任命し、そして立法する権能をもつ、と考えていた。(*)
 CEC は、10月のクーのあとに、規約を作成する作業を進めた。その規約では、総会、議長、多様な種類の委員会等の綿密な構成を定めていた。
 レーニンは、このような議会たる装いを馬鹿げたものだと考えた。
 最初の日から、彼は、政府官僚の任命と布令の発布のいずれについても、CEC を無視した。
 このことは、レーニンがCEC の新しい議長を選定した無頓着なやり方で、よく分かる。
 彼は、スヴェルドロフがカーメネフに替わる最良の人物だと決めた。
 CEC が自分の選択を承認することを疑う理由は、彼にはなかった。
 しかし、簡単に通過するという絶対的な自信はなかったので、スヴェルドロフを呼び出した。
 レーニンは言った。「イャコブ・ミハイロヴィチ、きみにCEC の議長になってもらいたい、どう思う?」
 スヴェルドロフは、明らかに同意した。レーニンが、中央委員会がこの選択に同意した後で、CEC のボルシェヴィキ多数派によって「注意深く」票決されるだろう、と約束したからだ。
 彼はスヴェルドロフに、頭数を計算して、ボルシェヴィキ派全員が確実に投票に向かうようにすることを指示した。
 計画したとおりに、11月8日に、スヴェルドロフは19対14で「選出」された。(*)
 スヴェルドロフが1919年3月に死ぬまで就いたこの地位によって、ボルシェヴィキ党の決定の全てをおざなりの議論の後でCEC が裁可することが、確実になった。//
 (40)レーニンは、内閣から去った人民委員の補充者の選択についても、同様にCEC を無視した。
 彼は新しい人民委員を、同僚たちと適当に相談して、しかしCEC の承認を求めることなく、11月8-11日に選任した。//
 (41)彼がまだ対処しなければならなかったのは、CEC の立法権能とCEC がもつ政府の布令に同意したり拒否したりする権利という重大な問題だった。
 新体制の最初の数週間では、CEC 議長のカーメネフは、突然に招集し、事前に議題を示さないことで、ソヴナルコムをCEC から守った。
 この短い期間、ソヴナルコムはCEC の承認を得るという面倒なことをしないで、立法(legislate)した。
 実際のところ、この当時の政府の手続は杜撰なものだったので、内閣の一員ですらないボルシェヴィキ党員の何人かは、ソヴナルコムに対して知らせることもなく、自分たちが提案して布令を発していた。ソヴェトの執行部に対しては、言うまでもない。
 このような二つの布令が、国制上の危機を発生させた。
 第一のものは、新政府の最初の日である10月27日の、プレスに関する布令だった。
 この布令は、ほとんど確実にレーニンの激励と同意のとでルナチャルスキーが起草したもので、レーニンが署名していた。(+)
 この注目すべき布令文書は、「反革命プレス」は害悪をもたらす。そのゆえに、「一時的かつ緊急的な手段によって、卑猥さと誹謗中傷が撒き散らされないように措置がとられなければならない」と規定した。-ここでの「反革命プレス」という言葉は定義されていないが、明らかに、十月のクーの正統性を承認しない全ての新聞に適用されるものだった。
 新政権に反対して煽る新聞紙は、閉刊されることとされた。
 布令はこう続ける。「新しい秩序が堅く確立されるやただちに、プレスに影響を与える全ての行政上の措置は撤廃され、プレスには完全な自由が保障される」。//
 (42)この国は、1917年2月以降、新聞や印刷工場の暴力的破壊に慣れてきていた。
 第一に、「反動的」プレスが攻撃され、廃刊となった。
 のちの7月に、同じ運命がボルシェヴィキ機関紙に降りかかった。
 ボルシェヴィキは、ひとたび権力を握るや、このような実務を拡張し、かつ公式化した。
 10月26日、〔トロツキー議長のペトログラード〕軍事革命委員会は、反対党派のプレスに対して組織的大暴虐(pogrom)を実行した。
 軍事革命委員会は非妥協的反ボルシェヴィキの<Nashe obschee delo>の刊行を禁止し、その編集長のV・ブルツェフ(Vladimir Burtsev)を逮捕した。
 同じように、メンシェヴィキの<Den'>、カデットの<Rech'>、右翼の<Novoe vremia>、中道右派の<Birzhevye vedomosti>を弾圧した。
 <Den'>と<Rech'>の印刷工場は没収され、ボルシェヴィキの報道者たちに譲り渡された。(32)
 弾圧された日刊紙のほとんどは、すみやかに名前を変えて、再び現れた。
 (43)プレスに関する布令は、さらに進んだ規定をもっていた。
 施行されれば、ロシア全土から、その起源がカトリーヌ二世の時代に遡る独立したプレスが廃絶することになっただろう。
 激しい怒りが、一斉に巻き起こった。
 モスクワでは、ボルシェヴィキが支配する軍事革命委員会が、11月21日に、非常事態は過ぎ去った、プレスは再び表現の完全な自由を享受すると宣告して、抑圧をとりやめるにまで至った。(33)
 CEC では、ボルシェヴィキのI・ラリン(Iurii Larin)が布令を批判し、その撤回を呼びかけた。(34)
 1917年11月26日、文筆家同盟は一度だけの新聞<Gazeta-Protest>を発行し、その中で何人かの指導的な作家たちが、表現の自由を窒息させようとする前例のない企てに対して、怒りを表明した。 
 V・コロレンコ(Vladimir Korolenko)は、レーニンの<ukaz>を読んだとき、恥ずかしさと憤りで顔が血に染まった、と書いた。
 「(ポルタヴァ〔Poltava〕の)共同体の構成員であり読者である私から、いったい誰がいかなる権利でもって、最近の悲劇的時期の間に何が首都で起こっているかを知る機会を奪ったのか?
 またいったい誰が、作家である私が、検閲者の是認を受けないままで、こうした事態に関する私の見解を仲間の市民たちに自由に表現する、そのような機会を妨害しようと考えたのか?」(35)
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 (26) Protokoly TsK, p.271-2. L. Schapiro, The Origin of the Communist Autocracy〔共産主義専制体制の起源〕, 2ed ed., (Cambridge, Mass., 1977)によると、会合の詳細は中央委員会の発表された記録から削除された。それは、L. トロツキーのStalinskaia shkola fal'sifikatsii (Berlin, 1932), p.116-p.131で見ることができる。Oktiabr'skoe vooruzhennoe vosstanie, II(Leningrad, 1967), p.405-p.410も見よ。
 (27) Protokoly TsK, p.126-7.
 (28) トロツキー, Stalinskaia shkola fal'sifikatsii, p.124.
 (29) Izvestiia, 11月 4/17, 1917. Protokoly TsK, p.135から引用。
 (30) Revoliutsiia, VI, p.423-4.
 (31) V. D. Bonch-Bruevich, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1969), p.143.
 (*) このとき左翼エスエルは、彼に反対投票をした。Revoliutsiia, VI, p.99.
 (+) Dekrety, I, p.24-p.25. ルナチャルスキは、I・ラリンによって、執筆者だと信じられている。NKh, No. 11(1918年), p.16-p.17.
 (32) A. L. Fraiman, Forpost sotsialistischeskoi revoliutsii(Lenigrad, 1969), p.166-7.
 (33) Revoliutsiia, VI, p.91.
 (34) Fraiman, Forpost, p.169.
 (35) Korolenko, "Protest", in Gazeta-Protest Souiza Russkikh Pisateli, 1917年11月26日.この文書の写しは、フーヴァー研究所で利用できる。
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 第2節④へとつづく。