リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。つぎの章に進む。
 第12章・一党国家の建設。
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 第1節・権力掌握後のレーニンの戦略。
 (1)1917年10月26日、ボルシェヴィキは、達成したとして主張するほどにはロシアに対する権力を掌握してはいなかった。
 その日に非合法に召集して支持者だけを詰め込んだソヴェトの残留派大会で勝利したのだが、限られた、一時的な権威しか持たなかった。
 政府はソヴェト中央執行委員会に責任を負い、立憲会議の招集を待って一カ月以内に退任するものとされていた。
 ボルシェヴィキがこれを実現するのには、三年間の内戦が必要だった。
 不安定な立場にあったにもかかわらず、ボルシェヴィキは、ほとんど直ちに、歴史に知られていない類型の体制、つまり一党独裁制の基礎を築いた。//
 (2)10月26日、ボルシェヴィキには三つの選択肢があった。
 まず、党が政府だと宣言することができただろう。
 ついで、党を政府へと解消することもできた。
 さらに、党と政府を別々の装置として維持し、外部から国家を指揮するか、または接合させる人員を通じて執行の段階で国家と融合するか(1)、のいずれかを行うことができた。
 以下に述べる理由で、レーニンは上の第一と第二の選択肢を採るのを拒絶した。
 彼は、第三の選択肢のうちの二つの間で、少しばかりは躊躇した。
 もともとは、前者に傾いていた。すなわち、国家の長であるよりも、党の長として統治するのを選んだ。それは全世界のプロレタリアートの、最初の政府だった。
 しかし、見てきたように、彼の同僚たちはレーニンが十月のクーの責任を避けようとしていると考え、多くの者が反対して、レーニンに諦めるように迫った。(2)
 その結果として、クー・デタの数時間以内に発生した政治システムでは、党と国家は別の独立した一体のままで存続し、組織としてではなく人員によって執行の段階で融合する、ということとなった。執行段階で融合したものは、とりわけ内閣だった(人民委員会議ないしソヴナルコム)。この内閣で、党の指導者たちが全ての閣僚ポストを占めた。
 こうした組織編制のもとで、党官僚としてのボルシェヴィキは、政策決定を行い、国家部署の長としてそれを執行した。その目的のために、一般官僚機構や保安警察も利用した。
 (3)このような仕組みは、ヨーロッパやその他の世界の左翼や右翼による一党独裁制形態の多様な後裔を育むこととなる、そのような統治類型の起源だった。そしてそれは、議会制民主主義に対する主要な敵または代替選択肢として出現することとなった。
 それの際立つ特徴は、執行権と立法権の集中だった。もちろん、権力は、立法、執行および司法の各権能の全てが、「支配党」という私的組織の手に委ねられる。
 かりにボルシェヴィキがすみやかに他の全ての政党を非合法にしたとすると、「党」という名称をそれらの組織に用いることはほとんどできない。
 「党(the Party)」-これはラテン語のpars または〔英語の〕一部(part)に由来する-は、部分は全体ではあり得ないがゆえに、その定義上は排他的なものであることができない。
 従って、「一党国家」は、用語上は矛盾している。(3)
 それよりも幾分かは良く適合するのは「二重国家」で、この語は、のちにヒトラーが確立したものと類似した体制を叙述するために、新しく作られた。(4)
 (4)この統治類型には、ただ一つだけ、先行例があった。不完全で部分的に実現されたのみだが、いく分かモデルになったものがある。すなわち、フランス革命期のジャコバン体制だ。
 フランス全体にいた数百人のジャコバン・クラブは、厳密な意味では政党ではなかったが、ジャコバン派が権力に到達する前にすでに、その特徴の多くを身につけていた。
 すなわち、クラブ構成員は厳格に統制され、投票の際はもちろんのこと綱領への忠誠さが要求され、パリのジャコバン・クラブはナショナル・センターとして行動した。
 1793年秋から、1年のちのテルミドール・クーまで、ジャコバン・クラブは、公式には行政部と混合することなしに、全ての執行部署を独占することによって統治の支配権を掌握し、政府の政策に対する拒否権までもつと呼号した。(5)
 ジャコバン派がもう少し長く権力の位置にいたならば、純粋な一党国家を生み出したかもしれない。
 実際に、ジャコバン派は、ロシアの専制的伝統に依りかかりながらボルシェヴィキが完成形を作るための、模範的原型を提供した。//
 (5)ボルシェヴィキは、革命を起こした後に発生すべき国家について、大して多くは思索してこなかった。自分たちの革命は即座に全世界を無視し、ナショナルな政府を一掃することを当然のことと考えていたからだ。
 ボルシェヴィキは、進む過程で一党国家を改良した。そして、それに理論的な基礎を与えてみようとは何ら試みなかったけれども、一党国家制は、彼らが実現した成果のうちで最も長続きのする、影響力が最も大きいものとなった。//
 (6)レーニンは自分が無制限の権力を行使するだろうことを何ら疑わなかったが、彼が「ソヴェト民主主義」の名前のもとで権力を奪取したことを考慮せざるを得なかった。
 ボルシェヴィキは、自分のためにではなくソヴェトのためにクーを実行した。-彼らの党の名は、〔ペトログラード〕軍事革命委員会のどの声明文にも出てこなかった。
 彼らのスローガンは、「全ての権力をソヴェトへ」だった。
 彼らの権威は、条件つきで一時的なものだった。
 虚構がしばらくの間は、維持されなければならなかった。この国はいかなる政党に対してであれ、権力を独占することを許さなかっただろうからだ。//
 (7)ボルシェヴィキが支持者と共感者を詰め込んだ第二回ソヴェト大会の代議員たちですら、ボルシェヴィキに独裁的な大権を与えるつもりはなかった。
 ボルシェヴィキが正統性の根源だと主張してきた大会の代議員たちは、彼らが代表するソヴェトはどのようにして政治的権威を再構築しようと意図しているかについて意見を求められたとき、つぎのように回答した。(6)
  ①全ての権力をソヴェトへ/        505(75%)
  ②全ての権力を民主主義派へ/        86(13%)
  ③全ての権力をカデット以外の民主主義派へ/ 21( 3%)
  ④連立政権/                58(8.6%)
  ⑤無回答/                 3(0.4%) 
 この反応は、多かれ少なかれ、同じことを語っていた。すなわち、親ボルシェヴィキ・ソヴェトがどのような政府を意図しているかを正確に知らないとすると、誰も単一の政党が独占的権力を持つとは予想していなかった、ということだ。
 実際に、レーニン直近の同僚たちの多数も、他の社会主義諸党をソヴェト政府から排除することに反対した。そして、レーニンとその一握りの最も献身的な支持者(トロツキー、スターリン、F・ジェルジンスキー)がそのような方向に固執したとすれば、それを理由として、抗議して辞任しただろう。
 これが、レーニンが直面していた政治的現実だった。
 やむを得ず彼は、一党独裁制を導入しているときですら、「ソヴェト権力」という外装の背後に隠れつづけた。
 民衆の中にある圧倒的に民主主義かつ社会主義の感情は、不確かに分散していたがなおも強く感じられたものだった。レーニンはそれによって、新しい名目上の「主権者」であるソヴェトの外皮を纏う国家構造には手をかけないように強いられた。一方では、権力の全ての網を、自らの手中に収めていっていたのだけれども。//
 (8)しかし、国の雰囲気によってレーニンがこの欺瞞を永続化させるのを強いられなかったとしてすら、彼が国家を通じて統治するのを選んで国家から党を切り離しただろうことには、十分な根拠がある。
 一つの要因は、ボルシェヴィキの人員不足だ。
 普通の状態でロシアを統治するには、公的なおよび私的な、数十万人の働き手が必要だった。
 あらゆる形態の地方自治が消滅して経済が国有化された国家を経営するには、その数の何倍もの人員数が必要だった。
 1917-18年のボルシェヴィキ党は、この仕事をやり抜くにはあまりに小さすぎた。
 いずれにしても、信奉者がきわめて少なく、かつそのほとんどは生涯にわたる職業的革命家だったので、行政についての専門知識がなかった。
 そのゆえに、ボルシェヴィキには、直接に行政をするのではなく、旧来の官僚機構とその他の「ブルジョア専門家」に依存し、行政官僚を統制すること以外には、選択肢がなかった。
 彼らはジャコバン派を模倣して、例外なく、全ての機関と組織にボルシェヴィキの人員を投入した。-その人員たちは国家にではなく党に対して、忠誠し服従する心構えがあった。
 信頼できる党員たちの必要性は切実だったので、党は、指導者たちが望んだ以上に急速に膨張し、出世主義の者たちを、純粋で使いやすいならば、入党させなければならなかった。//
 (9)党を国家とは別のものにした第三の考慮は、国家とは、国内または外国からの批判から党を守る手続のごときものだったことだ。
 ボルシェヴィキには、民衆が圧倒的に自分たちを拒否するときですら、権力を譲り渡す気持ちが全くなかったので、彼らは身代わり(scapegoat)を必要とした。
 これが国家官僚機構となるはずなのであり、党は無謬であるふりをしている間に、この官僚機構が失態について責められるだろう。
 ボルシェヴィキは、外国で破壊工作をしつつも、ロシア共産党という「私的組織」の仕業であってソヴィエト政府は責任を負うことができないと主張して、外国からの抗議をかわすことができることになる。//
 (10)一党国家のロシアでの確立は、建設的なまた破壊的な、多様な手段を必要とした。
 その過程は実質的には、1918年の秋までには完了した(そのときに、ボルシェヴィキが全ての中央ロシアを制圧した)。
 その後でボルシェヴィキは、この仕組みと実務を国境諸国に移植した。//
 (11)まず真っ先に、「ブルジョア」的なものはむろんのこと帝制時代的なものを含めて、全ての旧体制の残滓を根こそぎ廃絶しなければならなかった。地方自治の諸機関、政党とそれらの機関紙、軍隊、司法制度、および私的所有の制度。
 革命のこの純然たる破壊的段階は、奪い取るのではなく旧秩序を「粉砕する」のだとの1871年のマルクスの指示を実行するものだった。そして、諸布令がそれを定式化していた。だがそれは、主としては自然発生的アナキズムによってなし遂げられたもので、そのアナキズムは二月革命によって生まれ、ボルシェヴィキが強く燃え上がったものだった。
 当時の者たちは、こうした破壊的作業は愚かなニヒリズムによるものと見ていた。しかし、新しい支配者にとっては、新しい政治的および社会的秩序が建設されていく道を掃き清めることを意味した。//
 (12)一党国家体制の建設が困難だった一つの理由は、ボルシェヴィキが民衆のアナキズム的本能を抑制して、人々が革命によって永遠に解放されると考えたはずの紀律を再び課す必要があった、ということにあった。
 その必要があって、民衆的「ソヴェト」民主主義が出現する新しい権威(vlast')の構築が呼びかけられたが、実際に復活したのは、新しいイデオロギーと技術を備えたモスクワ絶対主義体制だった。
 ボルシェヴィキ支配者たちは、彼らの名目上の主人であるソヴェトに対する責任から免れることが、最も切迫している課題だと考えた。
 次いで、立憲会議から逃れる必要があった。彼らは自分たちでその招集を行っていたが、その立憲会議は確実に、ボルシェヴィキを権力から排除する可能性があったからだ。
 そして最後に、ソヴェトを党の従順な道具に変形させなければならなかった。//
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 (1)W. Pietsch, 国家と革命(ケルン, 1969), p.140.
 (2)N. Sukhanov, Zapinski o revoliusii, VII(Berlin-Petersburg-Moscow, 1923), p.266.
 (3)R. M. Maclver, The Web of Government(New York, 1947), p.123.
 (4)E. Frankel, The Dual State(London-New York, 1941).
 (5)C. C. Brinton, The Jacobins(New York, 1961).
 (6)K. G. Kotelnikov, ed., Vtoroi Vserossiiskii S"ezd Sovetev R. iS.D.(Moscow-Leningrad, 1928), p.107.
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 第2節につづく。第2節の目次上の表題は、<レーニンとトロツキーがソヴェト中央執行委員会に対する責任を逃れる>。
 R・パイプス著1990年の初版。これには、「1899-1919」は付いていない。


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