津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964」。
 第1章・神道の語の種々の意義。つづき。
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 「神道」という語はもともとは「シナの成語」なので、シナ語としての「神」の意味を補説する。まずは、「名詞」として使われる場合だ。
 第一に、「宗教的呪術的意義」でのみのがある。おおよそ「人力以上の力もしくは働きをもっていて、何らかの仕方で人の生活を動かす或るもの」で、動物・木石・血・骨とか、またはこれらに「内在する」もしくは別に「遊離して存在する」、「種々の精霊の類」だ。
 呪力あるもの、呪術・祭祀の対象となるもの、もある。
 ふつうは「鬼」と言われたらしい「人の死後に存在する霊魂(現代の用語例での)」も、「祖先崇拝の宗教的儀礼において祭祀の対象」となる場合は「神」と称されている。
 より文化が進むと、「農業神としての稷」を例とする「人文神」とでもいうべき「神」もあり、「稷」のほか「社」を「古人」と見るように「神の或るもの」を「古人」として解する考え方も生じた。
 また、「知識社会」の「説話」では、「ある種の神が人の形態をとったもの」、「人格を有する神」も全くなくはない。
 第二に、「宇宙の、あるいは宇宙そのものの、玄妙な力もしくは働き」を「神」と称する場合がある。「陰陽不測之謂神」も例かもしれない。老子の「神得一以霊」もこれだろう。
 これは第一の「神」を転化させて、それから「宗教的意義を除き去り、その代わりに一種の形而上学的意義を付与したもの」と見ることができ、「知識社会の思惟」による形成物だ。
 第三は、「人に存在するものとしての神」だ。今日の「精神」という語の由来になる。
 「形」・「形と気」または「形と心」に対して用いられ、「心者形之主也、而神者心之実也」等によく示されている。
  「形」とは「肉体」、「気」とは「生理的意義において肉体に生命あらしめるもの」、「心」とは「心理的働き」をするものだ。一方、「神」は、「心の奥にあって心を主宰し生命ある肉体を主宰する霊妙なる存在」として考えられたと見られる。
 ときには「神」と「心」は同じものと扱われていることもある。だが、「神の本義ではあるまい」。
 ここでの「神」にも「宗教的意義」はない。しかし、第二の宇宙の「霊妙な力もしくは働き」を「神」と称したのと同じく、第一の意義から転化したものと推察される。
 「礼記の祭義篇」に「気也者神之盛也」・「魄也者鬼之盛也」とあるのは「宗教的意義」での「鬼と神」を説いていて、「生命ある肉体の内」にあるものとして「神」を語るが、上記とは趣意が違う。「気」は「魄」に対する意味での「魂」を指すのか、混同しているかのいずれからしい。きっと「神」も「気」と同じ意味で、全体として「鬼と神の対立」を「魄と魂」のそれとして説いたのだろうが、「むりな付会」だ。
 上記の「形や気に対する神」は「宗教的意義においての魂」を意味するのではない」。
 もっとも、ここでの「神」は「宗教的意義」がない代わりに「道徳的意義」が付与されることがあり、「形と神」を対立させ、一方が片方を「制する」とか論じられるのは、「肉体的欲求を制御」する点に「神」の重要な働きがあるとの考えからだろう。
 他方では、「神」を「肉体に付いたもの」とする考えもあり、「養形」・「養生」の方法として「養神」が語られる。
 「道家」ではここでの「神」を、「虚静無為の境地」にあるものとして用いることが多い。例えば、「荘子」・「刻意篇」の、「純素之道、惟神是守、守而勿失、与神為一、…」。
 つぎに、形容詞として用いられる場合がある。
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 つづける。