一 津田左右吉全集第9巻(岩波書店、1964)の全体を、津田・<日本の神道>が占める。
 津田による1948年2月記の「まへ書き」によると、1937~39年(昭和12~14年)に雑誌に掲載した「日本の神道に於けるシナ思想の要素」と題する論考を「補訂したもの」。
 そして、たんに「日本の神道」としたのは「呼称としての便宜」で、神道には「仏教」の要素があったり「仏教」に「もとづいてくみたてられた」ものもあるので当たっていないようでもあるが、「主としてシナ思想との交渉の面」でだが「仏教との関連」も考察しているから、こう称しても「著しい僭称とはなるまい」、と述べている。
 二 第一章の表題は<神道の語の種々の意義>。この部分を要約・抜粋する。旧漢字・旧かな遣いは、新体・新遣いに改める。全集第9巻本文1頁以下。
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 「神道」はいろいろな意義で用いられているので、言葉のもつ意義を明らかにしておく必要がある。
 第一に、「古くから伝えられてきた日本の民族的風習としての宗教(呪述を含めていう)的信仰」を意味する。「最古の文献」上の用例はこの意味だ。日本書記の用明天皇紀・孝徳天皇紀での「仏法」に対する「神道」がこれ。
 「民族的風習としての宗教的信仰」には呼称がなかったが、「仏教」の外来・伝搬以降の区別・対抗のためにこの語が新たに作られたた(元来は「シナの成語」)。
 「儒教」は宗教ではなく「道徳・政治の道」を教えるものであっても、「礼」は学ばれず、書物から「その思想」が知られたにすぎない。
 「宗教としての道教」は入ってこなかった。
 「在来の民族的宗教」に対して宗教としての力あるのは「仏教」のみだったので、これに対する「神道」という語が必要だったのだろう。ある程度は前者が「力のあるもの」になって以降に。仏教伝来の最初の頃は、「仏が神といわれていた」ことも考えておく必要がある。
 「仏教」興隆に関する記載の多い推古天皇紀15年に「神祇拝祭」の記事を設けた書記編者に、「仏教に対立するものとしての神道を存在させようとする意図」があったと推測しても大きな間違いではないだろう。用明天皇紀・孝徳天皇紀の記事も、その「精神の現れ」ではないか。
 「いわゆる十七条の憲法」は「在来の民族的宗教を問題とせず、仏教のみを重んじ」、「仏教興隆」の趨勢下にあるが、この趨勢は一方で「民族的宗教を明らかにしようとする態度」を生んだと思われ、それが書記編纂者に継承されたのだろう。
 この意味は以下の諸「神道」概念の「根源」となった。
 第二に、「神の権威、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神であること、もしくは神そのもの、などを指していう場合」がある。
 続紀延暦元年「神道難誣」、類聚三代格延暦17年「神道益世」等々。
「第一の意義から転化した」ものと推測される。
 「神代記の記載のごとき神代の説話を宗教的意義のものと見て、そこに語られている神、または神と称せられている人物の行動などを神道と称することもあ」り、釈紀が引用する私記等にもあるが、それも「ここに述べた意義での神道の一例」だと考えるべきだろう。
 第三は、「両部神道」、「唯一神道」、「垂加神道」等という場合のように、「第一の意義での神道に、あるいはむしろ第二に付言したような意義に解せられた神代の説話に、何らかの思想的解釈を加えた、その思想」を意味する。
 これは一種の「神学」、「教説」であって、その思想の違いから「種々の神道」が生じ、各々の「伝承」をもつに至っている。
 但し、「両部神道」のように「特異なる崇拝の儀礼」を行う場合もある。しかし、その「儀礼的側面」を離れても「たんに思想」と見ることが可能な点に、この意味での「神道」という語の存在意義がある。
 第四は、「何れかの神社を中心として宣伝せられているところに特異性があるもの」で、「伊勢神道とか山王神道とか」いうのを例とする。
 「思想的側面」としての「神学」や「教説」があるので、その点の限りでは第三の意義と同じで、「ただその神学なり教説がその神社との特殊の関係において組み立てられているのみ」だけれども、他の側面として「種々の方面に対するその神社の権威が…称揚せられることになる」ので、ここにこの意義での「神道」の「対世間的意義」がある。
 第五は、「日本の神の教え又は定めた、従って日本に特殊な、政治もしくは道徳の規範というような意義」で用いられた「神道」だ。
 「主として儒教の影響を受け、それに対抗するものとしての神道」、すなわち「儒者のいう聖人の道とか先王の道とかに対する意義で『神の道』というものを立てようとするところから生じた」ものだ。
 「徳川時代の学者に最も多く行われた神道の語の用い方」で、「いわゆる国学者が神の道とか皇神の道とか言っているもの」も、これに属する。
 第三・第四の「神道」は第一のそれを継承するもので、「神道」とい文字は「神を祭る道」、最も広義には「神に関する道」とでも解すべきものであって、「神の定め又は教えた道」を意味しない。この第五の意義での「神道」は、これらとは異なる。
 この第五の意義での「神道」は「思想として存在するのみ」で、「本質的には、現実の民族的風習としての神の崇拝とは、ほとんど関係がないと言ってもよいほどであり、また古典の記載からも離れている」。しかし、「いろいろな点でそれらに付会して説かれている」。よって、第三の意義と「はっきりと区別することはできぬ」。
 第六は、「いわゆる宗派神道のそれ」だ。
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 つづける。