J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)〔=わらの犬-人間とその他の動物に関する考察〕。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。「」引用は原則として邦訳書。太字化は紹介者。本文全p.209までのうち、p.122までが今回で済む。
 第3章・道徳の害〔The Vices of Morality〕③。
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 第13節・選択信仰〔The Fetish of Choice〕。
 「人生の幸福は自分の選択にかかっている」と考えるがゆえに、人は誰もが「自由意志で生きる」ことが最重要だとする。しかし、「人間は必ず死ぬ〔a mortal〕。いつ、どこで生まれるか、強いか弱いか、足が速いか遅いか、美貌か醜貌か、悲劇に泣くか苦難を免れるか」は全て「所与の条件」であって選択できない。古代ギリシア人が人間は「制限の枠内」にあると言ったことの方が正しい。
 「人は人生の作者ではなく」、「要因の共作者ですらない」。重要と思えるほとんど全ては選択不可能だ。出生の時期・場所、両親、母語、「みな偶然〔chance〕で、選択〔choice〕の結果ではない」。「人生は筋書きのない即興の一幕である」。
 「個人の自立は想像の産物」だ。何もかも急速に変化し、この先の見通しもつかない。「人間は、術もなく野放しで生きているようなものだ」。
 「選択」が「宗教」に接近するのは、人間の「出たとこ勝負」〔unfreedom〕を現す。「選択は信仰になったが、信仰の原則は選択を許さない」。
 第14節・動物の美質〔Animal Virtues〕。
 「道徳の美質」は動物に遡り、「動物と共有する徳性なくして人類は豊かに生きられない」。ニーチェは「道徳が生み出す全ての現象は動物の本能に由来する」と言った。
 「西欧の支配的な考え方」はこれに同調しない。なぜなら、「人間は自身の動機や衝動を分析し、理由を知って行動する。絶えず自己認識に努め、やがて行動は選択の結果だと言えるまでになる。意識に一点の曇りもない状態で、行動は全て理由を了解した上のことである。人間は人生という作品の著者になるだろう」。
 これは「事実」ではない「夢想の論」だが、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・デカルト・スピノザ、さらにはマルクスもそう考えた。「意識〔conciousness〕が人間の本質であって、豊かな人生とは自覚ある個人〔fully concious individual〕として生きることだ」と言った。
 「倫理、道徳」は、「人間は自律した主体〔autonomous subject〕ではない」という事実から出発するほかない。人間が「断片の寄せ集め」でないとすれば、「自己欺瞞」〔self-deception〕への逃避も、「薄弱な意志」のへの嘆きもない。「選択」が決定するなら、「自然な寛容」は不必要だ。人間に「融通」性がなければ「全てに脈絡を欠く世界」では生きられない。人間が「相互作用を拒む閉鎖的実体」であれば、「道徳の根源」である他者への「つかのまの感情移入」もない。
 「西欧思想は現実と理想の狭間にのめり込んで身動きがとれない」。しかし、人はただ「当面の用を足す」のであり、先を見越した「最善の選択」をするのではない。
 「古代中国の道教〔Taoists〕は現実と理想〔is & ought〕の間に隔たりがあるとは考えなかった」。「正しい行動の原点は透徹した目で〔from a clear view〕情況を見極めることだ」。道教は「とかく人間を原理原則で縛りたがる儒教〔Confucians〕」とは違う。「無為自然のまま人生を軽快に生きる」ことがよく、人生に「目的」はない。「意志」と無関係で「理想」追求をしない。「豊かに満ち足りた人生とは、持って生まれた本性と置かれた情況に逆らわずに生きる」ことだ。「道徳と合致」などと「思いつめる」必要はない。
 「無為」は「ただ思いつきで行動する」のではない。西欧思想、例えば「ロマン主義」では「無為自然」は個々の「主観に直結」するが、道教では「情況の客観的把握」にもとづく冷静な行動だ。西欧の道徳家はこうした行動の「目的」を問うが、「そもそも人生の充足に目的はない」。
 荘子からすると「倫理」は「実用の技術」、各時点を凌ぐ「勘」〔knack〕にすぎず、その本質は「選択する意志や鮮明な自覚」ではない。グレアム〔A. C. Graham〕は述べる。-道家は「思考の流れに分化と融合の自由を与え」、「善悪の基準」で判断することなく、「意識に強く作用する指向の明瞭な自然の衝動」を最善の、「『道』〔the Way〕に適った」ものと考える。
 道教は動物に「豊かな生き方の指針」を仰いだ。動物には選択や選択の必要がない。「人間に束縛されて、動物は自然に生きる術を失う」。
 「道徳」に執着する人間には「よく生きる」=「たゆまず努力すること〔perpetual striving〕」だ。道教では「本性に従って楽に生きること〔living effortlessly〕」だ。
 「真に自由な人間は自分から行動の理由を選択しない。選択を必要としないのが自由の本意だ」。「自身の選択によらず、必然の指さすところに従って生きる」。これが「野生動物」あるいは「順調に作動する機械」の「完全な自由」だ。
 「動物」や「機械」のごとくとは、「西欧の信仰とヒューマニストの偏見に染まった神経を逆撫でする」。しかし、グレアム〔A. C. Graham〕は、「最先端の科学知識と矛盾しない」と言う。-「道教は、キリスト教信仰に根ざすヨーロッパ人の精神構造に疑問符を突きつける点で科学的な世界観と合致する」。両者において、人間は「無辺の宇宙で塵のように小さな存在〔the littleness〕でしかない」。「生命は儚く、人は死んでどうなるかを知る由もない。流転は果てしなく、空しい進歩の可能性を考えても始まらない」。
 「認知科学」〔cognitive science〕は「選択を働かせる自己〔self〕は存在しない」と教える。「人間は想像以上に野生動物や機械に近い」。とはいえ、「野生動物の無我」は遠く、「自動機械」にもなり得ない。
 人間と「動物」に差違があるとすれば、その一因は「対立する本能」だ。平和-暴虐の疼き、思索-思索による惑乱への不安、矛盾する要求を「同時に満たす」生き方はないが、幸いにも「哲学史」は、「人間が自己欺瞞の才に長け、自分の本性〔natures〕を知らずに発展すること」を明らかにした
 「道徳は人間に特有の病弊」であって、「動物の美質に洗練を加える」方がよいのだが。「道徳は人間の、矛盾する希求〔conflicts of our needs〕の狭間で暗礁に乗り上げる」。
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 第3章終わり。第4章以降へ。