小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 上の書のうち山口輝臣担当部分から、いくつかを抜粋・要約または引用しておこう。
 私自身を含めて、何らかの通念・イメージ・「思い込み」が形成されてきているので、そうした<通念>とは矛盾するような資史料・文献・事実等を、著者はある程度は意識的に採用している可能性はあるだろう。但し、私が要するに無知・勉強不足だっただけかもしれない。
 まず取り上げたいのは、「宗教」それ自体が、あるいは「神道」がどのようにイメージされていたか、だ。
 第一。旧憲法・旧皇室典範は<宗教宣言>(国家自体の「宗教」に関する記述)を回避したが、伊藤博文による「起案の大綱」はこう書いている、という。p.236。この時期での伊藤の「神道」に関する「認識」等は、相当に興味深い。1888年頃と見られる。新仮名遣いに改める。一文らしきものごとに改行する。
 「欧州においては憲法政治の萌せること千余年、…また宗教なる者ありてこれが機軸を為し、深く人心に浸潤して人心これに帰一せり。
 しかるに、我国にありては宗教なる者その力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。
 仏教は一たび隆盛の勢いを張り上下の心を繋ぎたるも、今日に至りてはすでに衰替に傾きたり。
 神道は祖宗の遺訓にもとづきこれを祖述するとはいえども、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し
 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ
 皇室=神道、ではない、ということが明瞭だ。伊藤は、憲法にもとづく新国家の「機軸」は、「神道」ではなく「皇室」だ、とする。
 このあたりの論述は、山口輝臣の「往々にして明治維新によってすべてが定まったかのように描」くのは「怠惰なうえに明らかな誤りである」(p.219)という理解にもとづく。「神仏分離」を過剰に重視してはならないのだ(同上)。
 太政官と並ぶ神祇官の設置から始まる明治新政権が、かりに「神祇官」=「神道」だとしてもだが、当初から<神道>を中軸にしようとしていた、というイメージは誤っていることになる。
 明治の最初の10年間で、「神祇」に関する国制・所管行政組織も毎年のように変遷していった。
 第二。明治4年(1871年)、<岩倉使節団>が渡米・渡欧するが、同行者の久米邦武は、船中をこう回想している、という。p.222。
 宗教は何かと訊かれそうだ。ある人が「仏教」だと言ったが「仏教信者とはどうも口から出ない」。では何だと問われると、困る。「儒教だ、忠孝仁義」だと言おうとすると、一方で、「儒教は宗教ではない」、「一種の政治機関の教育」だ、と言う。
 「神道を信ずると言うが相当との説」があるが、「それはいかぬ。なるほど国では神道などと言うけれども、世界に対して神道というものはまだ成立ない。かつ、何一つの経文もない。ただ神道と言っても世界が宗教と認めないから仕方がない」。
 かくて「神儒仏ともにどれと言う事も出来ないから、むしろ宗教は無いと言おう」としたが、それはダメだ、「西洋」では「無宗教はいけない」。そういう話になって「皆困った」。
 以上。興味深い、1871年時点に関する回想記だ。
 第三。そもそも明治期、旧憲法制定・施行の頃まで、日本人にとって「宗教」とは何だったのか。山口は、p.223以下で、こう説明・論述している。
 ・「宗教」という語・観念は、「19世紀中頃」に生まれ、「それ以降、はじめて宗教について考えるようになった」。
 ・「宗教」はreligion (又は類似の欧米語)の訳語として「創造」された。その経緯から、ほとんど「宗教」=<キリスト教>だった。
 ・次いで、「~教徒」という語から<仏教>がそれとして意識・観念された=「宗教という名に値しそうなものは日本には仏教しかない」。だが、「それを信じているとは言いにくい」。なぜなら、西洋人がキリスト教を信じているようには「仏教を信じていない」から。/以上。
 要するに、「宗教」という言葉・観念は少なくとも現在よりは相当に狭く、「神道」があっても(むろんこの言葉はすでにあった)、「神道」を簡単に含み入れることができるようなものではなかったのだ。
 第四。むしろ、<神道は宗教ではない>、との理解が一般的だった。山口によれば、つぎのとおりだ。p.232以下。
 ・1884年(明治17年)、政府は「神職・神社を宗教の枠外に置くことと引き換えに、葬儀への関与を禁じた」。これは、キリスト教式の「葬儀」の自由化、「葬儀を独占」したい仏教・僧侶たちの意向を反映するものだった。
 ・「神社が宗教ではないのはおかしい」と感じられるかもしれないが、「この時代の常識」だった。-「藩閥政府は19世紀の常識をもとに、仕組みを拵えた」。当然のことだ、「彼らのような『素人』が、独自の宗教理解を捏造し得たと考える方が、どうかしていよう」(p.234)。
 ・1887年(明治20年)、釈宗演という僧侶は日記にこう書いた。
 「この神道なるものの宗旨は何かと云ば何等の点にあるか。予いまだにその教を聞かざりしも、天下の世論従えば、純然たる宗教とは認めがたきが如し。
 彼の皇統連綿は比類無き美事なれども、これを以て直ちに宗教視することは穏当ならずと覚ゆ」。
 第五。かくして、明治新政権は、山口によると「第三の道」を選択した、という。
 上の釈宗演は、つづけてこう書いていた。
 ・「国教、否帝室の奉教は何なる宗旨なるか」。ひそかに考えるに「仏教にあらずんば必ず耶蘇教ならん」。p.235。
 また、福沢諭吉は1884年に「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」(表題)と新聞紙上で明言し(p.230)、中村正直はすでに1873年に「陛下、…先ず自ら洗礼を受け、自ら教会の主となり、しこうして億兆唱率すべし」と書いていた(同上)。
 現在では信じ難い感があるが、これが<第一の道>だ。つまり、文明開化=西欧化するためのキリスト教の「国教」化だ。
 <第二の道>は、「祭政一致」、つまり「祭」=「神道」という理解を前提としての、「神道と国家」の一体化、つまりは「神道の国教化」だ(この一文も秋月)。
 上に少し触れたように「神祇」に関する所管官庁は変遷する。神祇官→神祇省→教務省→内務省社寺局(p.205参照)。
 山口輝臣によると、「国学者」たちは「祭政一致」・「神仏分離」・「神社の優遇とキリスト教の敵視」を追求した(第一章第3節の表題「学者の統治」)。しかし、藩閥政治家たちの主流派、伊藤・木戸・大久保・大隈重信らは「誤っている」または「行き過ぎ」と考えて、「軌道修正」をした(p.205-6)。
 「国学者たち」は、「素人」政治家によって、1871-2年に「一掃」された(同上)。
 従って、<第三の道>となる。上の第一に紹介したように、伊藤によると、「神道」は「国家の機軸」になり得ず、それとすべきは「皇室」だ。
 繰り返すが、皇室・天皇=「神道」では全くない、ということが興味深い。
 具体的には、憲法の中に「国教」に関する条項を設けない、その点は曖昧なままにする、という「現実的」選択だったのだろう。
 以下、再び山口による。p.239以下。
 ・「天皇を機軸」とするため、「天皇」の存在・その統治権の根拠を「万世一系」に求めた(旧憲法1条)。憲法のほか、皇室典範、その他の告文でも同様。
 ・天皇の「神聖」性(旧憲法3条)は「祭政一致」論者には嬉しいものだったが、<天皇無答責>の旨(伊藤・<憲法義解>)を定めただけ。 
 ・この道は「祭政一致や国教」に関心をもつ人々の「夢を完全には潰さないが、それらのいずれとも異なる道だった」。 
 以上で今回は終える。
 「国体」概念・観念はまだ登場しない。この語は旧憲法・旧皇室典範にはない。
 しかし、山口はつぎの二つは重要な課題のままだったとしている、と記しておこう。p.241。
 ①「天皇家の宗教」は何か。②「天皇が機軸である」とは具体的に何であり、どうすればよいのか。
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 以上は、1890年頃の話。敗戦まで、さらに戦後、いったいどう「展開」したのか。
 1868年~1889年はほぼ20年間。1890年~1945年は、55年間。1945年~2020年は、75年間。日本国憲法(1947年~)のもとで、我々はいったい何を議論してきたのだろうか。
 <神道は日本人の宗教です>、<先ず神道の大祭司としてのお務めを>と一文書くだけで済むのか。