廬山寺・慶光天皇陵で見た(写真で撮っていた)石製の墓碑・墓基のかたちが気になっていたが、一つは、「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれる種類のものであることが分かった。もう一つは未だに分からない。
 仏教そのものにも、仏像にも仏塔等にも詳しくないから(というよりも無知だから)やむを得ないが、もともとは仏舎利(釈迦の骨)を納める多様な塔(ストゥーパ)に由来するもので、日本では、五輪塔とともに、宝篋印塔は墓基・墓碑または供養塔としてよく用いられてきた様式らしい。五輪塔の方がより一般的で、宝篋印塔はより「貴人」のために用いられたという。五輪塔の大きなものは高野山・奥の院への参道に並んでいるから、何となく知っていた。しかし、「宝篋印塔」なるものには意識も関心も向かわなかった。もちろん、一般的庶民はこんな形の墓基の下に葬られることはなかったし、「墓」というものがなかった死者も一般には多かったのだろう。
 宝篋印塔なる石塔のうちまず目を惹いたのは、中央に立つ円形で重なる九重の石だが、これは「相輪」と呼ぶ部分らしい。そして三重塔・五重塔の先端の「相輪」もやはり九重らしい。三重塔・五重塔を何度見ても、上の方にあるし、数えたことがなかった。
「相輪」部分の下の「笠」のような部分の四隅にあるのは、「耳」・「隅飾り」といい、年代が新しいほど反りが強いとも言われる。「相輪」と「笠」のごとき部分の間にもにもいろいろパーツがあるようだが、省略する。
 なぜ「九重」かというと、「五智如来」と「四菩薩」を全て集めるという意味だったようだが、仏教宗派によってどの如来・菩薩かは異なるらしい。また、三重塔・五重塔でもそうかもしれないが、宝篋印塔の九重の「相輪」製作者・参拝者がそのような意味を逐一意識したかは疑わしいようにも思える。
 九重という点では同じだが、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵にある多数の陵墓脇の「九重石塔」は、明らかに宝篋印塔ではない。
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 浅井長政は浅井氏三代めで、織田信長の妹の「お市の方」と結婚し、茶々〔淀君〕・初・督(ごう)三姉妹の父となった。
 その浅井氏三代の菩提寺は長浜市にある徳勝寺で、もともとは同市の北方の小谷城跡近くにあったらしい。
 その徳勝寺に三代(亮政・久政・長政)の墓基が並んで残っており、その様式は明確に「宝篋印塔」だ。左が長政。下の写真2枚を参照。
 そんなことを意識しながら他の寺院をめぐっていると、または昔に撮った写真を見ていると、明らかに「宝篋印塔」の供養塔または墓碑らしきものがある。実際には、全国に多数残っているだろう。写真下段の左は、同じ長浜市・総持寺内、右は神戸市・無動寺(福地)内。
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 ところで、泉涌寺直近の月輪陵・後月輪陵に見られる「九重石塔」は石塔としては珍しい種類ではないかと思える。というのは、既に記して、一部は写真も掲載したが、「十三重石塔」が実際にはよりしばしば見られるからだ。
 宇治市・宇治川の中島内の石塔は「十三重石塔」だけで通用するらしい。この十三重の石塔のような建造物を見たがゆえに談山神社(奈良県桜井市。中臣鎌足と中大兄皇子が「談」じた場所とされ、鎌足が主祭神)は寺院なのか神社なのかと拝礼時に一瞬迷ったのだったが(歴史的には神仏習合そのものだったのだ)談山神社の<十三重塔>は木造で日本(・世界)唯一のものらしい。
 談山神社を訪れたとき、そんなことを読んで知ったかもしれないが、忘れてしまうものだ。奈良県室生寺の五重塔は可愛く小さいので、この木製の十三重塔を幅を2-3倍にして、13を5に減らして塔身の「階層」部分を見せれば、小さな五重塔になるのではないかと、幼稚なことを考える。
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