L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終章の試訳のつづき。分冊版・第三巻、本文p.530までのうち、p.474-8。
 第13章・スターリン死後のマルクス主義の進展。
 ----
 第3節・ユーゴスラヴ修正主義(Yugoslav revisionism)。
 (1)マルクス主義の進展でのユーゴスラヴィアの特別の役割は、修正主義思想を表明する個々の哲学者や経済学者についてだけではなく、最初の修正主義政党、あるいは最初の修正主義国家とすら呼ばれたものをここで扱う必要がある、ということにある。//
 (2)スターリンによって破門されたあと、ユーゴスラヴィアは経済的にもイデオロギー的にも困難な状況にあった。
 その公式のイデオロギーは最初は、一つの重要な点を除いて、マルクス=レーニン主義の範型から離反するものではなかった。つまり、ユーゴスラヴィアは、ソヴィエト帝国主義の面前で自分たちの主権を主張することで、ソヴィエトのイデオロギー的最高性を拒絶し、最長兄の大国的民族排外主義を攻撃した。
 しかしながら、のちにはユーゴスラヴ党は社会主義の範型と自分のイデオロギーを形成し始めた。それは内容的にはマルクス主義に忠実だったが、労働者の自己統治と官僚制のない社会主義に集中させるものだった。
 このイデオロギーの形成とそれに対応する経済的政治的変化は、多年にわたって続いた。
 1950年代の初頭、党指導者たちはすでに、官僚制化の危険について語っており、極端な権力の中央集権化が社会主義の理想のうちの最も価値あるものを殺した頽廃的国家だとしてソヴィエト体制を批判していた。最も価値あるものとは、労働大衆の自己決定、国有化とは区別される公的所有の原理だ。
 党指導者と理論家たちは、ソヴィエト方式の国家社会主義と、労働者の自己統治にもとづく経済とを、ますます明確に区別した。後者では、協同団体はたんに国家当局が課した生産ノルマを達成するのではなく、生産と分配に関する全ての問題を自ら決定する。
 継続的な改革の方策を通じて、産業管理は労働者自身を代表する諸団体へとますます委託された。 
 国家の経済的機能は縮小された。そして、党の基本教理からすると、これはマルクス主義理論と合致する国家の消滅の予兆となるべきものだった。
 同時に、文化生活に対する国家統制も緩和され、「社会主義リアリズム」は芸術的価値のある聖典ではなくなった。//
 (3)1958年4月の第6回党大会で党が採択した綱領は、自己統治にもとづく社会主義を公式の見解として設定した。
 これはその当時では、党の文書としては異様なものだった。プロパガンダであるとともに、理論に関係していたのだから。
 この綱領は、生産手段の国有化をその社会化とは明確に区別した。また、経済管理を官僚機構の手に委ねるのは社会的退廃をもたらし、社会主義の発展を停める、と強調した。
 さらに、それは国家と党装置との融合をもたらし、国家は消滅するのではなくいっそう権力を増大させて官僚制化する、とも。
 社会主義を建設し、社会的疎外を終わらせるためには、生産を生産者に、換言すると労働者の協同体へと、移譲することが必要だ。//
 (4)労働者会議に個別の各生産単位に関する無制限の権威が与えられれば、その結果は、特定の関係者だけに所有権を帰属させるだけの19世紀モデルとは異なる、自由競争のシステムになるだろう。このことは、最初から明確だった。
 いかなる経済計画も、可能ではなくなるのだ。
 その結果として、国家は投資率や蓄積した基金の配分に関する多様な基本的機能を果たすだけに変質した。
 1964-65年の改革はさらに、計画化の観念を放棄することなく、国家の権力を削減した。
 国家は、主として国有化した銀行制度を通じて、経済を規整するものとされた。//
 (5)ユーゴスラヴ型の労働者自己統治がもつ経済的社会的効果は、いまだに多くの議論と生々しい不同意の対象だ。ユーゴスラヴィアと世界じゅうの経済学者や社会学者のいずれでも。
 そのシステムが官僚制的虚構になってしまわないためには、市場関係の相当の拡張と市場の生産に対する影響の増大が必要だ。そして、それはすみやかに、蓄積という正常な法則が再び力をもつにつれて、一定の望ましくない結果をもたらした、と断定的に言える。
 国家の経済的な発展部分にある大きさの溝は、狭くなるのではなく、拡大していく趨勢にあった。
 賃金に対する圧力は、投資率を社会的に望ましい水準以下に落としかけた。
 競争的条件は、その特権が民衆的不満を掻き立てるほどの、豊かな産業管理者の階層を出現させた。
 市場と競争は、インフレと失業の増大を引き起こした。
 ユーゴスラヴィアの指導者と経済学者たちは、自己統治と計画化は相互に制限し合いがちで、妥協によってのみ調整することができるが、妥協の条件は恒常的な紛議を発生させる問題だ、ということに気づいていた。//
 (6)他方で本当なのは、ユーゴの経済改革は文化的自由および政治的自由ですらの拡大を随伴していた、ということだ。それは、ソヴィエト連邦以外の東ヨーロッパのその他の国で起きたことに十分に優っていた。
 しかしながら、これを「国家の消滅」と称するのは、全くのイデオロギー的虚構に他ならなかった。
 国家は自発的にその経済的権力を制限した-これは異様なことだった。しかし、政治的な主導性や反対派に対処するための警察制度の利用を独占することまでは、放棄しなかった。
 状況は奇妙(curious)なものだ。
 ユーゴスラヴィアは、他の社会主義諸国よりも大きな表現の自由をいまだに享有している。しかし、厳格な警察的抑圧に服してもいる。
 公式のイデオロギーを攻撃する文章を公刊するのは他のどこよりも容易だが、そのことを理由として収監されるのも簡単だ。
 ユーゴスラヴィアには、ポーランドやハンガリー以上に多数の政治犯がいる。だが、それらの国々では文化問題についての警察による統制がもっと厳格だ。
 単一政党支配は些かなりとも侵犯されておらず、それを疑問視することは制裁可能な犯罪となる。
 要するに、社会生活上の多元主義の要素は、支配党が適切だと考える範囲内でのみ広がっている。
 ユーゴスラヴィアは、改革とソヴィエト陣営からの排除によって多くのことを得てきた。しかし、民主主義国になったわけではない。
 労働者の自己統治に関する賛否は、なおも論争の対象のままだ。
 いずれにせよ、共産主義の歴史における新しい現象ではある。//
 (7)自己統治と脱官僚制化の問題には、哲学的側面もある。
 1950年代の初めからユーゴスラヴィアには、大きくて活動的なマルクス主義理論家たちのグループがあった。そして、認識論、倫理学および美学を論じてきており、政治的諸問題もまたユーゴスラヴ社会主義の変化と連結していた。
 1964年以降、このグループは哲学の雑誌<実践(Praxis)>を刊行した(1975年に当局により廃刊させられた)。そして、Korčula 〔コルチュラ〕島で定期的な哲学的議論の場を組織し、それには外国からも含めて多数の学者たちが出席した。
 このグループは、疎外、物象化(reification)および官僚制のような典型的に修正主義的な主題に集中した。
 その哲学的な志向は、反レーニン主義的だ。
 文章上の発表がきわめて多かった哲学者たちのほとんどは、第二次大戦でのパルチザン兵士たちだった。
 主な名を挙げておくと、つぎのとおり。G. Petrović、M. Marković、R. Supek、L. Tadić、P. Vanicki、D. Grlić、M. Kangra、V. Kolać およびZ. Pesić-Golubović。//
 (8)今日の世界でおそらく最も活動的なマルクス主義哲学者たちの集団であるこのグループの主要な目的は、レーニン=マルクス主義的 “弁証法的唯物論” に急進的に対抗するマルクスの人間主義的人類学(humanistic anthropology)を再建することだった。
 彼らの全てまたはほとんどは、“反射の理論” を拒絶し、ルカチとグラムシにある程度は従って、他の人類学的諸観念のみならず存在論的(ontological)諸問題も二次的にすぎない、そのような基礎的な範疇としての「実践」を確立しようとした。
 彼らの出発点は、かくして、人間の自然との実践的接触が形而上学的意味を決定する、認識は主体と客体の間の永続的相互作用の効果だ、という初期のマルクス思想だ。
 この観点からして、意味のない「歴史の法則」なるものが究極的には全ての人間の行動を決定するということを想定しているとすれば、歴史的決定論はそれがよって立つ根拠を維持することができない。
 我々は、人間は自分たちの歴史を創るのだ、というマルクスの言葉を真摯に受け止めなければならない。これを、歴史が人間を創るという言明へと進化論的に転換させてはならない。
 <実践>の哲学者たちは、積極的で自発的な人間主体の余地を残さないと強く指摘して、自由(freedom)とは「理解された必然性」〔=必然性を理解すること〕だとするエンゲルスの定義を批判した。
 彼らはこうして、<主体性の擁護>という修正主義の考えを採用した。それは、ソヴィエトの国家社会主義への批判やマルクスの教理と合致する社会主義の発展の正しい(true)経路としての労働者の自己統治への支持を、彼らの分析に連結させるものだった。
 しかしながら、同時に、社会主義は「労働者階級の先進部隊」だと自称する党官僚によるのではない生産者による能動的な経済管理を必要とする、と強調しながらも、彼らは、経済の自己統治は、行きすぎるならば、社会主義の理想に反する不平等を生む、ということを知っていた。
 ユーゴスラヴィアの正統派共産主義者たちは、<実践>グループを、完全な自己統治を制度化するのと不平等を回避すべく市場を廃棄するのと、両方を欲している、と非難した。
 ユーゴスラヴ修正主義者たちは、この点で分かれるように思える。しかし、彼らが書いていることには、しばしばユートピア的調子がある。「疎外」を克服すること、活動の成果を全面的に制御するのを全員に保障すること、計画化の必要と小集団の自治との対立、個人の利益と長期的な社会的責務の間の矛盾、安全確保と技術の進歩の対立、をそれぞれ除去すること、これらは可能だ、とするのだ。//
 (9)<実践>グループは、ユーゴスラヴィアのみならず国際的な哲学の世界で、マルクス主義の人間主義的範型を広めるという重要な役割を果たした。
 彼らはまた、ユーゴスラヴィアでの哲学的思考の再生に貢献した。そして、その国での専制的で官僚的な統治形態に対して知的に抵抗する、重要な中心だった。
 時代が経つにつれて、彼らは、ますます国家当局と対立するようになった。
 ほとんど全ての積極的なメンバーは最終的には追放されるか、または共産党の職から離任させられた。1975年には、彼らのうち8人が、ベオグラード(Belgrade)大学での職位を剥奪された。
 彼らの著作は、マルクス主義的ユートピアに関する懐疑をますます示しているように見える。//
(10)1940年代、1950年代のユーゴスラヴ共産主義者の一人だったMilovan Djilas は、修正主義者だとは見做すことができない。
 社会主義の民主主義化に関する彼の考えは、1954年に遡って党から非難された。そののちの彼の著作は、最も緩やかな意味においてすら、マルクス主義だと考えることはできない(すでに論及した有名な<新しい階級>を含む)。
 Djilas は、ユートピア的な思考方法を完全に放棄し、マルクス主義の本来的教理と官僚制的専制体制の形態でのその政治的現実化の間の連環(links)を、何度も指摘した。//
 ----
 第3節、終わり。第4節の表題は、<フランスにおける修正主義と正統派>。