ジョン・グレイ(1948-)の別の著書、John Gray, Gray's Anatomy: Selected Writings (2009,2013、レシェク・コワコフスキに関する一文がある)の謝辞(Ackowleagement)の文章の最後に、「Mieko」(みえこ・ミエコ)に感謝する旨の一文がある。この人は著者の配偶者で、日本人か、日本生まれの女性ではないだろうか。
 J・グレイは以下の著で西欧哲学・思想を大胆に?相対化して中国の仏教や道教への関心を示しているが(余計ながら、「隣の芝生は美しい」の類かもしれないとも感じるが)、このことと上記のこととの関係は、むろんよく分からない。
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 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。ごく一部を原文により変更している。邦訳書p.72~p.88。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞。
 第12節・仮想の自己〔Our Virtual Selves〕。
 「意志決定の表現」が「行動」だというが、「意志が決断する」ことはほとんどない。就寝・覚醒、夢の記憶・忘却、思考の喚起・忌避、これらの選択に「意志は関与しない」。
 「人間の行動は一続きに長く繋がった無意識な反応の末端であり、習慣と技巧(skills)の複雑極まりない組み合わせから起こる」。「自己認識」をいかに追求しても人間は自明のもの(self-transparent)にはならない。
 フロイトは人間の精神が大部分は「無意識に作動」すると理解した。「抑圧した記憶」の浮揚が適切な対処を可能にするという意味では正しいが、「記憶の検索」では「知覚の裏にある前意識の精神活動(preconcious mental activities)」を再現できない。「無意識」ではなく「前意識」が「意識の自覚」を生む。
 「意識」の「自己認識」に対する作用の限定性は人間の「主体性」(control of our lives)を否定しがちだ。とかく「行動」=「思考の帰結」と理解したい。しかし、誰もが大部分は「ものを考えずに」生活しているのであり、「意識の働きという概念」(sense of concious agency)は「矛盾する衝動のせめぎ合いから生まれる人為的構造(artefact)」だろう。
 人間は本能と習慣の生物だと言いたいのではなく、要するに「そのときどきの情況に対処しながら生きている」。
 人は概して自分=「統一された意識の主体」、人生=「行動の総和」と理解するが、「最新の認知(cognitive)科学と仏教古来の教義」は一致して、これを「錯誤」(illusive)と見なす。認知科学者のF・バレラ〔Francisco Varela〕はこう言う。-「人間という極致世界と微細存在の本質は、稠密に凝集した不分離の個体」ではなく、浮かびまた消失する変転する現象体だ。「仏教」はこのことを「凝視」(direct observation)で立証でき、「自己はいっさい空であり(the self is empty of self-nature)、そこには把握できる実体はない(void of any graspable substantiality)」と教える。
 自己をキメラ(chimera)と捉える点でも認知科学は仏教に倣う。-認知・認識はある「状態」から次へと切れ目なく移行するのではなく、「断続する行動パターン」だ。この有意義な理解によって、「認知の主体」としてホムンクルス(homuncular)を措定する愚を避けることができる。
  外から見る人間の特性として、「一貫した行動」を信じたいために、「体内にいて行動を指示する一寸法師」=ホムンクルスを想定するのは、間違いだ。ロボット工学者のブルックス〔R. A. Brooks〕は言う。-ロボットには「中央制御機構」はなくその動作は「競合する行動の集積」だが、観察者には「一貫した定形と映る行動」が浮かび上がる。
 これは人間にも当てはまる。人間の姿はじつは「知覚と行動の千変万化する情景」だ。「人間の自我は、…存在の根底をなす統一性の表現ではない。人間個人は昆虫の集団に構造のよく似た有機的組織体である。」
 「不変の自己」という考えは捨て難いが、そうではないことは「誰しもどこかで知っていよう」。
  第13節・無名氏〔Mr. Nobody〕。
 作家のG・リース〔Goronwy Rees〕は振り返って「人間個々の人格」(personal identity)という考えを疑問視し、こう書いた。-私は「客観的に記述できる歴史を負った個々人の持続的な特性」を自己のうちについぞ発見しなかった。「永遠不滅にして独立独歩の、思考する存在」を名乗ったことなどない。
 スコットランドの哲人、D・ヒューム〔David Hume〕も、「不変の自己」を発見しなかった。-大方の人間は「相互に関係を維持しつつ、目にも止まらぬ速さで絶えず波動しながら継続する知覚作用の集積」だ。「精神」(the mind)という舞台には「幾多の知覚が相次いで登場し、限りなく変化する情況で入り乱れ、多様な姿で通り過ぎ、引き返し、いつの間にか退場する」。単一性も時間を隔てた同一性もない。「精神を形成するのは、継起する知覚だけだ」。舞台の場所、筋立ての素材について何も把握できない。
 G・リースは、娘によると「無名氏」を自認していた。これは何ら異常でない。人間は全て「情動の塊」(all bondles of sensations)であり、「統一のとれた不変の自己」は<マヤ(maya)>=ベーダーンタ哲学での「幻影」でしかない。「一貫した自己」を知覚するようプログラムされているが、じつは「変化」があるだけで、そういう「自己認識の幻想」もまたプログラムに組み込まれている。
 我々自身に生じている変化は「見る側の自己が瞬息の間に去来するから確かには観察できない」。「自我(Selfhood)とは、意識の粗放がもたらす副作用である。内部活動はきわめて微妙かつ繊細なので、意識では捉えきれない」。
 「言葉の原点が鳥獣の遊びに遡る」のと同様に、「自我の幻想」・「不変の自己の幻想」も「言葉から生まれる」。幼少時に両親が話しかける言葉で「自己を認識」する。「記憶」を貫くのはその名だ。長じて「独白」し「自分史」を作り、「言葉」で「将来の可能性」を想定する。こうして「言葉で造り上げた仮想の自己」を過去・現在・未来に、さらには「死後の世界」にまで投影する。「死後」の「仮想の自己」は「生きているうちから既に亡霊」だ。
 「自我(the I)とは、たまゆらの事象である。にもかかわらず、これが人の生を支配する。人間はこのありもしないものを捨てきれない」。正常な意識で現在に向かい合う限り「自我」(sensation of selfhood)に揺るぎはない。「これが、人間の根本的な誤り(premordial human error)だ。そのおかげで、我々の人生は夢の中ですぎてゆく」。
 第14節・究極の夢〔The Ultimate Dream〕。
 仏教では、「直観の修行」(practice of bare attention)でもって「知覚」を鈍磨させている「習慣」という紗幕を引き剥がす。「凝視」(refinement of attention)でもって「現実」を深く洞察する。その「現実」とは、凡庸な注意力でもって単純化され判りやすくされた、「たまゆらの儚い(momentary, vanishing)世界」だ。
 「過去との繋がり」を絶つという意味を含む「悟りの境地」(ideal of awakening)は、「幻想」が雲散霧消して「もはや煩悩に惑わされる憂いがない」(suffer no longer)ということだが、これはキリスト教の「救済」(salvation)の教義と変わらない。しかし、「幻想」からの解放という考え自体が、「幻想」だ。「瞑想」(meditation)は真実を露わにし得ない。
 「進化心理学(evolutionary psychology)や認知科学(cognitive science)」が教えるのは、人間は「悠久の血脈に連なる末裔、尾部の一端」だということだ。先人をはるかに超えてはいるが、「脳と脊髄は遠い過去の記憶を暗号に変えて保存している」。 
 道教(Taoism)は「人間は夢から覚醒できない」と認める。<荘子>は<老子>よりも神秘主義的だが、西欧やインドのそれとはなお異なる。荘子は懐疑論的(sceptic)でもあり、「仏教の中心にある現象と現実の確然たる二元論」も、「幻想を超越する企て」も、ない。「人生を夢と捉え、かつ夢から醒めようとはしなかった」。
 グレアム〔A.C.Graham〕の言うように、「仏教徒は夢から覚め、荘周は覚めて夢に入る」。「夢だという真実」に目覚めることは「真実」に対する反目を意味しない。
 荘周は「救済」の理念を受容しない。「もともと自己のない人間が自己の幻想から覚醒するはずがない」。
 「人間は、幻想を捨てきれない。幻想は、所与の自然条件だ。そうだとしたら、それに従うしかないではないか(Why not accept it ?)。」
 第15節・実験〔The Experiment〕。
 「現代の哲学者」は哲学は人に「生き方」を教えると高言するほど「思い上がって」いないが、「何を教えるか」の返答を迫られている。「明晰な思考を定着させる」と立派に言うかもしれない。
 しかし、「曇りのない知見は、歴史、地理、物理学など、広い分野に学んで身につくものである」。
 哲学は「中世には、教会に知的な足場を提供」し、19-20世紀には「進歩神話を後押し」した。「信仰」や「政治」から外れた「現代の哲学」は、「主題のない学問領域、教理の求心力を失った因習の牙城」だ。
 古代ギリシア哲学は「知識の探求」にすぎないのではなく「生き方」、「弁証法的議論の基礎」、「精神鍛錬の武具」であって、目的は「真実」ではなく「精神の平穏」・「静謐」だった。老荘思想においても同じ。
 「幸福」は「静安」のうちにしか見出し得ないのか。スピノザは、ストア学派の哲人たちと同じく「精神の平穏」=「精神の不安から救われること」を願い、パスカルは「救済」を求めて苦闘した。しかし、「真理」ではなく「幸福と自由」が問題であるならば、哲学に最終判断を求める必要はない。「信仰や神話」にも、見るべきものがあってよい。
 「かつて哲学者は真理の探究を装って精神の平穏を目指した。現代人はこのあたりで方向変換を図った方がよくはないか。
 「棄却できる幻想」と「捨てたくとも捨てられない幻想」をまず見分ける必要がある。その先は、「克服できない幻想」を見極めるよう努めればよい。
 「数ある虚偽の何を排除するか、なしでは済まされない虚偽とは何か。それが疑問だ。それこそが、実験である。」
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 第2章終わり。