J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間と他動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.54~p.71。本文最後(p.209)まで昨秋に読了しているので、再読しながら、ということになる。太字化は紹介者。
 ----
 第2章・欺瞞〔The Deception〕②。
 第5節・ライオンとの対話〔Conversing with Loins〕。
 ライオンが言葉を発しても人間は理解できないと言ったL・ヴィトゲンシュタイン〔Ludwig Wittgenstein〕は、ヨーロッパの伝統に添うヒューマニストだ。プラトンからヘーゲルまでは世界を「人間の思惟を映す鏡」と、ハイデガーや彼はさらに進めて「人間の思考から成る構築物」と解した。いずれでも、世界は、それまではなきに等しかったが、人間が出現して初めて意味をもつ。
 後期ヴィトゲンシュタインは旧哲学を超越したと自負したが、原点の「観念論」を出ていない。観念論者によれば「精神を離れて」は何も存在せず、究極的には「世界は人間が創造した」に等しい。これは、「人間だけを認める考え方」だ。
 前期の彼は「世界の論理的構造を映し出す思考と言語を記述」しようとしたが、のちに「言語が世界を鏡映する」との考えを捨てて、「言語から隔絶して存在する世界の概念に想定される一切の概念」を否定した。後期には、「言語で表現しえないことは何もない」のであり、「その哲学は所詮、観念論(Idealism)を言語の術語(linguistic terms)で開陳」したものだ。
 第6節・『ポストモダニズム』〔"Postmodernism"〕。
 ポストモダニズムによると、自然などはなく、「ただ人間が造り上げた浮遊する世界」が存在する。せいぜい「相対主義」(relativism)を唱えて「人間は真理(truth)を掴み得ないこと」を認めるが、この真理否定は「質の悪い思い上がり」だ。
 「人間の理解の遠く及ばない世界」を否定するポストモダニストは、そのことで「人間野望の限界を見定める」ことを拒否して人間を「最終調停者」にし、「何ものも人間の意識(onciosness)に現れないないかぎりは存在しない」と暗に断定している。
 「真理は存在しない」との考えはギリシャ哲学にもあった。ポストモダニズムは、「最新流行を装った人間中心主義(anthropocenturism)でしかない」。
 第7節・動物の無心(Animal Faith)。
 従来の全ての哲学者は、「動物の無心」を超える理由を発見していない。
 第8節・プラトンとアルファベット〔Plato and Alphabet〕。
 鳥や獣に対する「人間の特質」は「言葉操作能力」にではなく、「言葉を固定する(crystallisation)」手段として「文字」を持つことにある。
 「文字は仮想の記憶を生む。これによって、人間は世代や境遇の枠を超えて体験を拡張することができる。同時に、文字は抽象世界の創造を可能にし、人間はそれをリアリティと取り違える結果になった。文字の支えで発達した哲学では、人間はもはや自然界に足場がない。」
 原始期の文字には自然界との多様な関係があったが(象形文字)、次第に動物と共有しない「人語」が出現して、「全ての観念(sense)の根拠」になった。
 プラトンらの言語崇敬を批難したヴィトゲンシュタインらは要するに、「表音文字が思考に及ぼす影響を批判した」。
 プラトン哲学の系譜にない中国古文は「豊かな視覚表現」をもつために「抽象思考」を育てなかった。プラトンによると「抽象語が精神、知性の実体を規定」するが、中国思想は一貫して「唯名論」(nominalst)で、抽象語は全て「名称(labels)」にすぎないと理解したので、「観念(ideas)と事実(facts)を混同することがない」。
 プラトンが遺した「真・善・美」の三価値・抽象的理想は、対立抗争・僭政・殺戮を生んだ。ヨーロッパ史の少なからぬ部分は、「アルファベットがもたらした思想の過誤による」。
 第9節・個人崇拝批判〔Agaist the Cult of Personality〕。
 ヒューマニズムによると地球は人間出現まで何の「価値」(value)もなかった。この「価値」は「人間の願望、選択が落とす影」で、本質的に多少とも価値が問題になるのは「個々の人格」だ。人間は神に由来するがゆえに、キリスト教は「個人崇拝」を認めるだろう。しかし、キリスト教を捨てたとなると、そこでの「神」の姿は不分明だ。
 「人格とは、自律の意志をもって人生を選択、決定する主体だが、ほとんどの人間はそこまで自己を確信していず、最良の境遇にある者たちも、自身をそのようには見ていない」。「江戸時代の武士(bushido warriors in Edo Japan)、中世ヨーロッパの王侯貴族や吟遊詩人」等々は「近代的な自律した人格(personal autonomy)の理想像に合致しない」がゆえに「欠陥人間」だったのか。
 「自律した人格である(being a person)か否かは、人間の本質(essence of humanity)にかかわることではない」。歴史的にも、「人格は一種の仮面だ」。「自律した人格、主体的な個人とは、…ヨーロッパに伝搬した仮面を後生大事に被りつづけ、それを自分の素顔だと思い込んでいる人間のことを言う」。
 第10節・意識の貧困〔The Poverty of Conciousness〕。
 プラトンは「人間のすみきった意識で感得(perceive)したこと」を「究極のリアリティ」とした。デカルト以来の命題では「感覚(sensation)や知覚(perception)は意識(conciousness)を必要とはせず」、まして「自己認識(self-awareness)」とは関係がない。「感覚、知覚は、動物にもある」からだ。
 植物は触感・視覚をもち、「最古の単純な微生物も、その感覚は人間に通じる」。
 「地球上の生命の始原」にあるハロバクテリア(halobacteria)は「感光物質ロドプシン(rhodopsin)の作用で光に反応する」が、これは人間の「網膜にあるのと同じ色素蛋白」だ。「人間は、太古の泥の目を通じて世界を見ているのだ」。
 古き二元論によると、「物体(matter)」には知性(intelligence)がなく「精神」(minds)がなければ知識(knowleage)もない。実際には、「知識」は「精神」を必要とせず、マーギュリス〔Lynn Margulis〕の言うように、全生体は「知識を備えている」。-「自律した一個の生体である地球、ガイヤは固有の感覚と知覚によって、人間が登場するはるか以前から全地球規模で自在に情報を交換し、意志伝達を図っていた」。
 「バクテリアは環境に関する知識にもとづいて行動する」。「より複雑な生物の免疫システムには学習機能と記憶の蓄積(learning and memory)が認められる」。
 高度に発達した生物でもふつうは、「知覚や思考は無意識に生じる」。人間は最たるもので、「意識される知覚(concious perception)」は「五感(senses)を介する受容」の「ごく一部」であって、人間は遙かに多くを「閾下知覚(subliminal perception)によって感じ取る」。「意識」の変動(生活リズム、概日性・睡眠等)は、原始以来「人間の生存に不可欠」だ。日々の「行動」はおおむね「無意識」による。
 「心底の動機は疎外されて意識の検証を経ることがなく」、「ほとんどの精神生活(mental life)は、無意識に(unknown)行われる」。意味が「自覚を要する」ことは殆どなく、「致命的に重要なことの多くは、意識が欠如しているうちに生起する」。
 プラトンやデカルトでは「意識が人間と動物を分ける」。後者によると「考えない動物は機械(machines)と変わりがない」。しかし、犬・猫・馬は周囲を「意識」(display awareness)し、行動の当否を「経験に即して判断」する。「思考」(thoughts)も「感覚」(sensations)も備える。類人猿は「知的能力」をもち、人間だけが「意識」をもつのではない。
 「自我の観念(the sensation of selfhood)の欠如」が他動物と人間を分ける。といっても動物が「不幸」なのではなく、「自己認識」(self-awareness)は能力であるとともに妨害物だ。自己忘却により最大の能力を発揮することもある。「日本の弓道では射手が的を忘れ、自分をも忘れて(no longer think)、初めて正鵠を射ると教える」。
 東洋の「瞑想」(meditatives)は「意識高揚」技法ではなく「意識を迂回する」手段だ。
 「意識に上ることのない知覚-閾下知覚は、異状でも変則でもなく、正常なこと」だ。人間の「知覚」のほとんどは、「意識的観測」ではなく「持続する無意識の凝視」による。
 精神分析家のA・エーレンツヴァイク〔Anton Ehrenzweig〕が指摘するように、「無意識の視覚」は「意識的な熟視」よりも大量の情報を収集するが、これは「科学」の視点からも同じだ。
 「閾下知覚」(subliminal perception)の影響は長期的で広範囲だ。約40年前に禁止されたが、「消費者の購買行動を操作する」サブリミカル・プロジェクション企業も登場した。
 「人間が意識のフィルターを通して見る世界は、閾下知覚によって与えられたものの断片でしかない」。人間は「自分の感覚を検閲(censor)」するが、じつは「全てを前意識(preconcious)の世界観に頼っている」。「現時点で知っていること」=「意識を介して学習すること」ではない。
 「精神(mind)の寿命と肉体(body)の寿命は表裏のことだ」。「覚醒した意識」(concious awareness)にのみ頼れば、「精神は全体としては機能しない」。
 第11節・ロード・ジムの行動〔Lord Jim's Jump〕。
 J・コンラッド〔Joseph Conrad〕の小説<ロード・ジム>の主人公の行動〔略〕には、謎がある。乗客を捨てて救命ボートに飛び降りたのは「自分から」か「無意識で」か。「責任」が問われ得るならば別の行動をとるのが「自由意志」だが、どう判別するのか。
 「自由意志(free will)の概念を否定する論拠」は多数あるが、その議論自体を拒絶する立場もある。
 「自ら行動を決定して、初めて人は自由行為者(free agent)だ。ところが、人間は偶然と必要(chance and necessity)の申し子であって、何に生まれるかも自分では選べない。だとすれば、一切の行動は責任外になる」。これが、「自由意志否定」論の有力論拠だ。
 近年の科学研究はますます、「自由意志を薄弱なものに」した。B・リベット〔Benjamin Libet〕の実験では「行動を促す脳内の電気パルス(electtrical impulse)-準備電位は、意識が行動を決定する半秒前に発生する」。自分の意志で行動を決定して実践するとふつうは考えるが、しかし「全ての動作、行動を無意識に開始する」。リベットらは述べる。-「とっさの自発的行為においてすら、脳の作動は意識に先行すると見られる」。
 人間が思うようには行動していない理由の一つは、「意識の帯域幅(bandwidth)、…意識の容量もしくは能力の問題」だ。人間は生物として「毎秒約1400万ビットの情報を処理するが、意識の帯域幅はせいぜい18ビットで」、「意識」は必要な情報の100万分の1しか処理しない。
 「神経科学(neuroscientific)研究は、人間が自由意志では行動できないことを実証した」。リベットは「わずかながら」その働きを「脳の促す行動を保留し、または抑止する意識の力」に認めるけれども、そうした「拒否権」行使の実例や可能性について「検証の術はない」。
 人間は将来の行動を予測できないにもかかわらず、後から振り返って「あの決断は定められた道程の一歩だった」と思う。あるときは降りかかった偶然だとし、あるときは「自身の行為」だとする。「自由」の感覚は、この二つの視点を切り替えるることから生じる。「自由意志は、錯視のいたずら(a trick of perspective)である」。
 ロード・ジムが思い悩むのは「自身の人格探究」だが、虚しい努力だ。「自己認識」がどうであれ、「人間個人の本質」は、「きわめて曖昧なかたちでしか、捉えることはできない」。ショーペンハウアーが、つぎのように言うとおり。
 「自己認識-人が自身の本質をどう規定するか-は、意識のあり方によるとされる」。しかし、決定的に不十分だ。人間はその人生で多くのことを「知る」が、それは微々たるもので、かつ、記憶の1000倍以上のことを忘却してしまう。「外界との接触を重ねるうちに、人がいつか認識の主体-知っているつもりの自分-を自己の本質と考えるようになるのは事実だが、これは脳の機能であって、自己そのものではない」。
 「知っているつもりの自己を探し求めながら、ついに発見に至らない」。「不変の人格は存在しないだろう」と考えつつも、人間は「自分の行動を説明しようと心の裡を覗きこまざるにはいられない」。そこには「記憶の断片ばかり」がある。
 ロード・ジムは「自分が救命ボートに飛び移った理由を知り得ない。知り得ない運命である」。ゆえに、「人生を白紙に戻して出直すことはできない」。
 ----
 第12節<仮想の自己>以降へと、つづける。