専門家として叙述する資格も、意図もない。同じ立場にあるはずの、八幡和郎らの所説に論及する。
  <魏志倭人伝>は3世紀後半ないし末に執筆されたとされるので、数十年または100年程度は前のことも含めて、「倭」に関して叙述している。
 その中には「対馬」、「一大(支?))=壱岐、「末盧」=松浦、「伊都」=怡土(糸)、「奴」=儺・那〔福岡市の一部〕といった現在に残る地名と符合するものもあるので、そのかぎりで、少なくともこうした地域の地理や人々の状態を、全てが事実ではなかったにせよ簡単にでも記載していることは間違いないだろう。これら地域に限らず、「倭人」全体についてもそのようなところはあるが、逐一には挙げない。
 7世紀後半から8世紀前半にかけて執筆・成立した日本書記・古事記等がいかに紀元前660年の神武天皇即位やそれ以前の「神話」を記述しているとしても、<魏志倭人伝>よりも400年以上のちに書かれたものだ。
 <魏志倭人伝>が全体として「歴史資料に値しない」(西尾幹二)などとは言い難いのはほぼ常識的なことだ。
 なお、西尾は、<魏志倭人伝>からは「互いに無関係な文書が、ただ無造作にのりづけにして並べられているという無責任な印象を受ける」ようで、「書き手の陳寿という人物のパーソナリティはなにも感じられない」等とする。
 歴史叙述者は自分の「パーソナリティ」を感じさせなければならないのだそうだ。
  <魏志倭人伝>には、「倭人」、「倭國」、「倭地」、「倭種」、「倭女王」、「親魏倭王」、「遣倭」・「賜倭」〔倭に遣わす・賜る〕、等の「倭」という語が出てくる。
 <伝>は2000字ほどの漢字文で長い文章ではないので「倭」という漢字を数えてみると、見落としがあり得るのでやや曖昧にして、計19-20回ほどだ。
 この「倭」=ワ・ウァが当時の魏の人たちまたは執筆者・陳寿が勝手に名づけたのか、当時に北九州にいた人の対応によるのか(ワ=当時の言葉でのの「輪」(ワ)ではないかとの「推測」もある)はよく知らない。
 どちらにしても、<魏志倭人伝>という当時の中国の史書は日本を「倭」と呼んだ。
 一方、日本書記の中にもまた、しばしば「倭」という語が出てくる。
 ネット上に日本書記の漢文全文が掲載されていて、「倭」で検索することもできる。
 それによって検索してみると、計算間違いがあり得るのでやや曖昧にすると、およそ190回も「倭」がヒットする
 著名なのは、崇神天皇(10代)の項(巻第五)に出てくる、つぎだろう。
 「倭迹迹日百襲姫命」、または「倭迹迹日姫命」。なお、「倭迹速神浅茅原目妙姫」というたぶん別の姫命の名もある。
 垂仁天皇(11代)の項〔巻第五)には、つぎの人名も出てくる。
 「倭姫命」(古事記では「倭比売命」)、「倭彦命」(古事記では「倭日子命」)。前者は垂仁の皇女で、後者は崇神の弟のようだ。
 崇神の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「天照大神」とともに最初は宮中でのちに外で祀られた、という。確証はないだろうが、現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この「倭大国魂神」を祀っている、とされている。ちなみに、「大和」という名からだろう、境内に、戦艦大和の模型を設置する小さな建物がある。
 その他、「倭京」=藤原京以前の飛鳥の宮廷、「倭国造」=現在の奈良県の一部の国造、もある。
 以上よりも関心を惹くのは、地名または国名としての「倭」だ。
 例えば、神武天皇(初代)の項(巻第三)の中に、「倭国磯城邑」という語がある。現代語訳書によると、この辺りの文章は、「その時…が申し上げるのに、『倭の国の磯城邑〔ルビ/しきのむら〕に、磯城の八十梟帥〔ヤソタケル〕がいます。…』と」。
 宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.98。なお、この現代語訳書は、原文の「倭」を全て忠実に「倭」とは記載していない。
 ここでの「倭」は、文脈からすると、現在の奈良県・かつての大和国の意味だろう。現在でも「磯城郡」がある(かつては桜井市全域、橿原・天理・宇陀市の一部を含み、現在は、田原本・川西・三宅の各町が残る)。
 一方、「倭」が上よりも広域を指す語として用いられていることもある。
 例えば、かなり新しい時期のものだが、天武天皇(40代)の下巻(巻第二十九)に、こう出てくる。日本書記の執筆・編纂者が、まだこうも記述していたことは注目されてよいだろう。
 天武3年「三月…丙辰、対馬国司…言、銀始出于当国、即貢上。由是、…授小錦下位。凡銀有倭国、初出于此時」。(旧漢字体は新体に改めた)。
対馬で初めて「銀」が産出して、これが「倭国」で最初だ、というのだから、ここでの「倭国」は、天武・持統天皇時代に<支配>が及んでいたかぎりでの、日本全体のことだと理解することができるだろう。
 また、「大倭」も、例えば天武天皇時代にも使われている。但し、「大倭・河内・摂津・山背・…」と並列させて用いられていることがある。天武4年の項にその例が二つある。この「大倭」という語の、日本書記全体の検索はしない。
 さて、日本書記(や古事記)での「倭」は何と読まれていたのだろうか。現在の諸現代語訳のルビ振りが当時の読み方を正確に反映しているのかどうかは分からないが、おそらく間違いなく<ヤマト>であって、<ワ>ではないだろう。
やまとととひももそひめのみこと(倭迹迹日百襲姫命)」、「やまとひめのみこと(倭姫命)」という具合にだ。
 地域または国名としての「倭」もまた、<ヤマト>だと考えられる。
 そして、国名を漢字二文字にするという方針のもとで「倭」→「大倭」という変化が行われた、と推察される(紀ー紀伊、等も)。この「大倭」を、「倭」という卑字?を嫌ってのちに改めたのが、「大和」=ヤマトだ。倭→大倭→大和、こう理解しておかないと、「大和」という文字は「ヤマト」とは読めない。
 以上は推察まじりだが、おおよそは一般に、このように考えられていると見られる。
 そして、この「大倭」または「大和」が、いつの頃からだろうか、聖徳太子の時代の頃から天武・持統時代または日本書記等の編纂の時代までに「日本」という国号へと発展したのだろう。「日本」という語・概念の成立の問題には立ち入らない。
 以上は何のために記したかというと、八幡和郎の考え方を批判するためにだ。
  八幡和郎の邪馬台国・大和朝廷(王権)分離論は、八幡独自のものでも何でもない。
 八幡和郎が邪馬台国の「卑弥呼」時代と大和朝廷(王権)の時期的関係をどう見ているのかは定かではないが、これは後者の「成立」とか「確立」とかの時期、そしてこれらの用語の意味にもかかわっている。
 しかし、神武天皇は卑弥呼よりも前、崇神天皇は卑弥呼よりもあと(の次の「台代」)の時代と考えていることは間違いない。なお、卑弥呼は3世紀半ばに活躍したと見られている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 ・「神武天皇はだいたい西暦紀元前後、…になります」、しかし、崇神との間が10代でなく数世代だとすれば「二世紀のあたりかもしれません」。p.30-p.31。
 ・「崇神天皇は、その〔卑弥呼の〕後継者である台代の同世代人とみられます」。p.47。
 また、最近の、八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」アゴラ2019年12月19日は、こう書いている。
 ・「大和政権が北九州に進出したのは、邪馬台国が滅びてから半世紀以上経ってからのことだと推定できる」。/とすれば、「北九州に邪馬台国があったとしても統一をめざして成長する大和政権と接点がないのが当たり前だ」。
 八幡は神武天皇の実在を否定していないが、大和王権の実質的創建者を崇神天皇と見ているようなところがあり(この点で(神武-)崇神-応神-継体王朝という王朝交替説と部分的に類似する)、その孫・景行天皇とさらにその子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)時代に王権の支配領域の範囲を著しく拡大したというイメージを持って書いていると推察される。従って、上の「北九州に進出」や「統一をめざして成長する大和政権」は、崇神とその後の数世代をおそらく想定しているのだろう。
 安本美典のつぎの本は、北九州説・畿内説と上の二つの前後関係を主な基準として邪馬台国と大和朝廷(王権)の関係に関する学説を10に分類している。
 安本美典・邪馬台国ハンドブック(講談社、1987)。
 これによると、八幡和郎のように<邪馬台国=九州説>に立つ説も、大和朝廷「成立」の時期を邪馬台国以前と見るか以後と見るかに二つに分かれる。
 前者の中には前回にこの欄で触れた<僭称説>も入り、本居宣長等が唱えた。しかし、八幡和郎によると邪馬台国の人々は(魏の使者も)大和王権の存在を知らなかったはずなので、八幡和郎説?はこれに該当しない。
 一方、後者には、津田左右吉らが入る、とされる。以上、とくにp. 231。
 いずれにせよ、八幡説?は新奇でも独自でもない。
 しかし、その説が論理的にみて成立し得るのだろうか、が問題だ。
 つまり、前回も<邪馬台国>の「邪馬台」と大和朝廷の「大和(ヤマト)」の共通性または類似性を指摘したが、大和政権(・王権・朝廷)が「邪馬台国」の存在を知らない、または知らなかったとすれば、なぜ、大和政権を継承したはずの天武・持統天皇、元明天皇ら、そして記紀執筆者・編纂者は、「倭」あるいは「大倭」という語を、日本書記等で用いているのだろうか。
 日本書記には、なぜ、<魏志倭人伝>にいう「倭国」と同じ「倭」という語が、先述のように100回以上も出てくるのか?
 日本書記において、天武3年(674年)に関する記載として、既に紹介した「凡銀有倭国、初出于此時」とある場合の「倭国」は何のことか。
 「迹迹日百襲姫命」、「姫命」等々はなぜ「倭」と冠せられているのだろうか。なお、日本書記ではヤマトタケルノミコトは一貫して「日本武尊」のようだが、古事記では「倭建命」と記載されている、とされる。
 八幡和郎は、つぎのような名文?を、2011年に活字として残した。上掲書、p.49。
 ・「邪馬台国とか卑弥呼とかという名も、中国側での呼称で、本当にそういうクニや人物の名前だったかは不明です」。
 たしかに、100%明確ではないのだろう。八幡によれば、「中国側」が勝手に「邪馬台国」とか「卑弥呼」とか称したのであり、北九州の人たちがそう呼称したわけではない、ということになるのだろう。
 中国の史書を「信頼できない」とする1999年の西尾幹二著の(悪い)影響を受けていなければ幸いだ。八幡もまた、「媚中」史観を持たないためには、1700年以上前の3世紀の中国語文献を簡単に信用してはならないという「主義」者なのかもしれない。
 しかし、「邪馬台」と「ヤマト」の共通性・類似性は全くの偶然だとは思えないし、「卑弥呼」も、勝手に魏の使者が名づけたのではなく、固有名詞ではない「日御子」・「日巫女」・「姫御子」といった語に対応するものと理解する方がより自然だろう。
 そんなことよりも、以下に述べるように、日本書記の執筆者は遅くともその成立年までに、「邪馬台国」・「卑弥呼」という呼称をすでに知っていたと見られることは、重要なことだ。
 かりに大和政権と邪馬台国が無関係だったとすれば、大和政権の継承者たちは、邪馬台国や「卑弥呼」に言及する中国側文献などは無視するか、言及しても否定するか何らかの意味で消極的な評価を加えるだろう。
 しかし、日本書記自体が、神功皇后に関する項で、<魏志倭人伝>にこう言及している。漢字原文を引用するのも不可能ではないが、宇治谷孟・上掲書p.201-2による。
 「39年、この年太歳己未。-魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に、倭の女王は…を遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。<中略>/
 40年、-魏志にいう。正始元年、…を遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
 43年、-魏志にいう。正始4年、倭王はまた使者の…ら、8人を遣わして献上品を届けた。
 この日本書記の記載から明らかであるのは、第一に、<魏志倭人伝>を見て読んでいる以上、「邪馬台国」・「卑弥呼」が登場して、それらについて書かれていることも知っていた、ということだろう。
 第二に、「倭」、「倭王」、「倭の女王」と書かれていること自体を、何ら不思議にも、不当にも感じていないように見える、ということだ。
 第三に、ここでの「倭の女王」を明らかに「卑弥呼」のことだと理解している。神功皇后の項で、上の文章をわざわざ挿入しているからだ。したがつて、「卑弥呼」=神功皇后という卑弥呼論が、日本で初めて説かれている。
 第三は、<年代論>に関係するので、ここでは(まだ)立ち入らない。
 この第三点を除く、上の二つだけでも十分だろう。
 さらに加える。
 ①<魏志倭人伝>ではなく高句麗(当時)の「広開土王(好太王)碑」の中に、文意については争いがあるのを知っているが、ともかくも「倭が海を渡った」旨が、「倭」を明記して刻まれている。当時の高句麗もあるいは広く朝鮮半島の人々は、今の日本のことを「倭」と称していたことが明らかだろう。広開土王は391-2年に即位した、とされる。大和王権の崇神天皇よりも(八幡和郎はもちろん安本美典においても)後代の人だ。
 ②日本書記編纂には知られておらず、存命中だったかもしれない本居宣長の知識の範囲にもなかっただろうが、のちの江戸時代になって、「漢委奴國王」と刻んだ金印が博多湾の志賀島で発見された。「委奴」については、ヤマト、イトという読み方もあるようだが、どうやら多数説は「漢のワのナの国王」と読むらしい。
 これまた、中国側の「勝手な」呼称なのかもしれないが(紀元後1世紀中のものだとされることが多い)、「倭」または「委」というクニとその中の「奴」という小国の存在が認められていたことになる。かつまた、当時の北九州の人々も(王を含めて)それをとくに怪しまなかったようでもある。
 以上、要するに、日本人の書いた文献、つまり日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だと思われる。
 そうでなければ、日本書記の中に「倭」が上のようにしばしば登場するはずがないのではないか。
  上で書き記し忘れた、より重要なことかもしれないが、、諸代天皇・皇族の名前自体の中に、「倭」が使われていることがある。 
 日本書記では、和風諡号の中の「ヤマト」にあたる部分は「日本」という漢字を用いている。以下は、例。
 孝霊天皇(7代)=「大日本根子彦太瓊天皇」(おおやまとねこふとにのすめらのみこと)。
 開化天皇(9代)=「稚日本根子彦大日日天皇」(わかやまとねこおおひひのすめらのみこと)。
 しかし、古事記では、それぞれ「大根子日子賦斗迹命」、「若根子日子毘々命」だとされる。「日本」と「倭」は、交換可能な言葉なのだ。
 また、日本書記でも、「倭根子」を登場させることがある。
 ①景行・成務天皇(12-13代)の項(巻第七)、宇治谷孟・上掲書p.154。
 景行天皇が「八坂入媛」を妃として生んだ「第四を、稚倭根子皇子という」。
 ②孝徳天皇(36代)の項(巻二十五)。漢字原文。宇治谷書には、「倭」が省略されている。。
 2年2月15日、「明神御宇日本倭根子天皇、詔…。朕聞…。」
 =「明神〔あきつかみ〕として天下を治める日本天皇は、…に告げる。…という。」宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・下(講談社学術文庫、1988)、p.168。
 ③天武天皇の項・下(巻第二十九)。
 12年1月18日、「詔して、『明神御八洲倭根子天皇の勅令を…たちよ、みな共に聞け。……』といわれた」。=宇治谷孟・上掲書(下)、p.294。
  以上のとおりで、繰り返せば、日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だ。
 従って、八幡和郎の言うつぎのようには「解決」できるはずがない。
 八幡和郎・前掲アゴラ2019年12月19日。
 「邪馬台国が九州にあったとすれば、話は簡単だ。
 邪馬台国が滅びて数十年たったあと、その故地を支配下に置いた大和王権は大陸に使者を出した女王の噂などなんにも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」。
 このようには「すべて問題は解決する」ことができない。
 厳密には「その故地を支配下に置いた」時点での大和王権ではなかったかもしれないが、その大和王権の継承者である天武・持統天皇や日本書記編纂者は、<魏志倭人伝>を、そして「卑弥呼」という「大陸に使者を出した女王」の存在を知っており、「卑弥呼」=「神功皇后」という推理までしている
 これは<魏志倭人伝>の内容の信頼性を少なくともある程度は肯定していることを前提としており、西尾幹二や八幡和郎よりも、1300年ほど前の日本人の方がはるかに、<魏志倭人伝>やそこで描かれた「倭」、つまりのちに「日本」となった国の歴史について、知的・誠実に、向かい合っている、と言えるだろう。
 1300年ほど後の西尾や八幡の方が、知的退廃が著しいのだ。その理由・背景は、<日本ナショナリズム>=<反媚中史観>なのかもしれないが、「卑弥呼」・邪馬台国の頃の3世紀の歴史を考察するに際して、そんな<政治的>気分を持ち出して、いったいいかなる成果が生まれるのだろうか。
 年代論等は、さらに別に触れる。
 八幡和郎は(かつての故地だったと当然に知らないままで)大和政権はある程度の戦闘を経て、北九州を支配下においた、というイメージを持っているようだ。しかし、他の地域はともかくも、九州・邪馬台国の有力地である筑紫平野(有明海側)の山麓の勢力と激しく闘った、という記録はなく、かつての故地だったからこそ円滑に支配領域を拡大した(あるいは元々支配していた)という旨の指摘も、確かめないが、読んだことがある(たぶん安本美典による)。荒唐無稽にも<磐井の乱>(6世紀前半)を持ち出して、旧邪馬台国の後裔たちの反抗だとは、八幡和郎は述べていないけれども。
 八幡和郎は、「邪馬台国」論議の蓄積を十分に知らないままで、勝手な記述をして、「皇室」やその維持の必要性について「理解していただく論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」とする「傲慢さ」を、少しは恥ずかしく思うべきだろう。