安本美典・神功皇后と広開土王の激闘-蘇る大動乱の五世紀(勉誠出版、2019年)。
 安本美典、1934年2月生まれ。85歳の人の新著だ。しかも、今年になってすでに3冊も刊行している。
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 アマゾン・書籍販売サイトでの最低の評価(星一つ)の文にこうある。
 「安本が神功皇后の三韓征伐伝承の史実性を認めたことは評価するが、皇后にあらぬ疑いをかけたのは許しがたい。たとえ仲哀の死、応神の出生が不自然だとしても、神功皇后と武内宿禰の不義密通の確たる証拠はどこにもない。疑うのは勝手だが、あやふやな状況証拠だけで不倫をしたと決めつけるのは名誉棄損ではないのか。」
 そもそもは、歴史の叙述や考察への評価は「許す」・「許さない」、「許し難い」とかなのだろうか。なお、「確たる証拠」があるとは著者も主張していない。「決めつけ」もしていないだろう。仲哀死後のことだとかりにすると、「不義密通」にもなりそうにない。
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 安本美典は「日本神話」そのまま信仰論者ではなく、かつ<王朝交替>論者でもない。血統断続と王権交替を主張できるとすれば、上の書の<推測>くらいは可能だろうという旨を書いている。この人にとって重要なのは、確率、つまり合理的推測の努力における合理性又は説得性の程度なのだ、と考えられる。とくに古代史については、史資料が乏しいため、そうならざるをえないのではないか。
 また、安本は直接に皇位継承の男系とか女系とかを論じていない。この著を離れて思うのは、つぎのようなことだ。
 神功皇后が実在の人物で応神天皇(これも実在とする)の父親が仲哀天皇でなかったとすれば、日本書記がまるで<天皇>扱いをして一巻をあてている神功皇后を祖として、応神天皇以降の天皇・皇室は女系だった、と言えなくもない。
 しかし、<古事記>によると神功皇后は開化天皇の「5世の孫」とされているらしいので、仲哀ではなく神功皇后だけの血を引いていても、応神天皇は<男系>だとすることは、この語の理解によっては、可能だ。また、応神天皇の実の父親だろうと安本や井沢元彦が強く推測している武内宿禰の祖先も遠くは天皇・皇室にたどりつくようなので、そうすると、まぎれもなく<男系>ではある。
 しかし、のちの継体天皇は、日本書記等によると応神天皇の「5世の孫」とされている。その遠さを一つの理由として、継体以降は応神<王朝>とは別の<新王朝>と推測する説もあるのだとすると、神功皇后は開化天皇の「5世の孫」だとするのも、その信憑性の程度を疑問視することもできる。武内宿禰については尚更だ。
 継体天皇が仁賢天皇の子で武烈天皇の姉の女性(手白香皇女)を妃とした(とされている)のは、自らは<男系>であってもまるで<入り婿>のように当時の直近の天皇・皇室に入って、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。そのように叙述したのは後世の日本書記等の編纂者だけれども。
 そうすると、神功皇后は自らは遠くは<男系>であっても、現天皇の妃となることによって、その<権威>を高めようとした、と考えられなくはない。
 <権威>を高めようとしたどころか、天皇(仲哀)の妃であり天皇(応神)の実母とすることによって、その権威・神聖性を最高度にしたのは、日本書記の執筆者・編纂者だったかもしれない。
 とすると元に戻るのだが、のちの継体が(現在につづく)<新>王朝の祖だったとかりにすると、神功皇后-応神天皇もその前の<新>王朝の祖だった、と言えなくもない。
 いずれも、天皇・皇室あるいは皇統の<系図>に加えられることによって、地位・権威が高められているのだ。同じことだが、そう記述することによって、日本書記等編纂者は、地位や権威を高めているのだ。
 以上は、素人の<趣味>的な想像なので、真面目に学術的に?主張しているのではない。
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 かつて私が日本史を初めて勉強したとき(小学6年生?)、<任那日本府>の存在が明確に書かれていたように思う。そして、神功皇后の「三韓征伐」とやらも、この言葉ではなかったかもしれないが、史実として語られていたような気がする。しかし、神功皇后も<任那日本府>も、実在性やその意味が今ではかつてとは違って教科書に書かれていないらしい。だからどうだ、といきり立つ気持ちは全くないのだけれども。
 さて、上記の安本美典著。第一章・<奇怪な神功皇后伝承>と「おわりに」はきちんと読んだ。安本の本あるいは安本による神功皇后関連の文章を読むのは初めてではない。
 初めて知ったか、改めて想起させられたのは、仲哀天皇には神功皇后よりも前に妃がいて(大中津比売)、すでに二人の皇子(香坂王・忍熊王)もいた、ということだ(史実としてではなく、後世の書の記載によると、として書いている)。
 にもかかわらず、これらを押しのけて?、あるいは打倒して?、神功皇后の子(応神)が皇位を継承したのは、神功皇后によほどの「力」があったのだろう、とは言える。
 次いで、「神懸かり」=一種の「解離性同一性障害」に関する医学的・精神科学的探究も興味深い。p.8-p.12。たんなる<文学>趣味系の学者・評論家は、こういう作業を思いつかないかもしれない。
 さらに、神功皇后や武内宿禰の「顔」が戦前の紙幣に描かれていたことの叙述も面白い。
 前者の紙幣は1881年・1883年に、後者の紙幣は1889年・1899年に発行されている。
 前者は日清戦争前、後者は日ロ戦争前後ということも、なるほどという気がする。しかしそれよりも、当時の「日本国民のだれもが、その〔紙幣に描かれた〕絵を見た」、二人は福沢諭吉・夏目漱石よりも有名だったかもしれない、という記述が印象に残る。p.42-p.46。
 紙幣もまた、時代(の歴史観)を反映する、ということか。神功皇后とか、武内宿禰とか、今日では一般には、ほとんど無名だろう。
 最後に、この書の「おわりに」で、安本は第一に、その研究上の「立場」を、こう記述している。同趣旨はこれまでにも読んだことがある。
 ・この書は「イデオロギー的な立場にたつ人々の支持をうけにくい」だろう。
 まず、「天皇家の尊厳を保ちたいと考える人々」に。「しかし、『古事記』・『日本書記』はもともと、事実をかなり記しているのであって、諸天皇の尊厳性ばかりを記しているわけではない」。
 次いで、「戦後のいわゆる進歩的文化人や、津田左右吉流の文献批判学の立場にたつ人々」等の学者たちに。これらの人々は「神功皇后や武内の宿禰は架空の人物、…と考える傾向が強いから」だ。
 ・「一定のイデオロギー、先入観、先輩の学説の拳拳服膺によって、見るべき事実も見ない古代史研究があまりにも多すぎる。」
 第二に、安本にしては、これまでに全くなかったわけではないと思うが、やや「感傷的」なまたは「文学的」な文章がある。安本美典もまた人間で、当然に感情・情感をもつ。その意味では、好感をもつべきなのかもしれない。以下、全て引用。
 ・「私は、私の復元した古代史像に、かなりたしかな手ごたえを感じているが、私は、空中に楼閣を描いたのであろうか。」
 ・「西暦400年ごろ以降の春秋でさえ、ふりかえれば、夢のようでもある。長い絵巻物をひもといているようである。」
 ・「琴の音が聞こえる。若い皇后には、神の威厳がそなわっている。…」
 ・「天皇位も、さらにはみずからの命さえ、恋の業火になげいれた皇子がいた。…」
 ・「金色に輝く釈迦像をはじめて見て、小おどりした若い天皇、…がいた。…」
 ・「燃える炎で、海も空も、まっ赤にそまった日もあった。船の崩れ沈む音。異国の海に投げだされ、潮水を飲みながら藻屑となっていく兵士たちの叫びも聞こえる。」
 ・撤退、外国文化の衝撃。「国政を改革し、国力の充実をはかる。そのあいだにも、人は恋する。あるいは、欲望のほしいままにする人がおり、あるいは、高い倫理観で自己を犠牲にする人がいる」。
 ・「数百万、数千万人の生死哀歓も、必死の努力も、歴史は、ただ一片の、春の夜の夢にしてしまう。河に散るただ一ひらの花びらにしてしまう。
 ・「歴史は哀しい。今日も、歴史の河は流れている。
 ・この本の「小舟」が「ふとした縁で、あなたの心の港にもしばらくとどまり、あなたとひととき、よい運命をともにできますように。」 p.294。
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