L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻の試訳のつづき。分冊版、p.402-p.407。
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 第11章・ハーバート・マルクーゼ-新左翼の全体主義的ユートピアとしてのマルクス主義。
 第2節・現代文明批判。
 (1)経験的な人間の運命の反対物である超越的規範または規範的な「人間性」の観念を抱いているとして、マルクーゼは、我々の文明がなぜそしてどの点でこのモデルと合致できないのかを検討する。
 人類の真正な観念を根本的に決定づけるのは、「幸福(happiness)」だ。これは、自由を含み、マルクーゼがマルクスのうちに見出したと主張する観念だ。-マルクスは、実際にはこの言葉を用いなかったし、彼の著作からこの語の意味をどのようにして抽出するかは明瞭ではないのだけれども。
 我々は、人間存在は「幸福」を追求するという経験的事実に加えて、人間はそれを当然のこととして要求することができるということを承認することから、まずは始めなければならない。
 マルクーゼは、人間存在はそれを要求することができない理由を発見するために、文明に関するフロイトの哲学をその出発地点として採用する。
 彼は、過去の歴史の解釈に関するところまで広範囲にフロイト哲学を受容した。だが、未来に関しては疑問視した。
 実際のところ、フロイトは、人間存在は幸福を追い求める資格がある、または確実にそれを獲得することができる、と語るだけの法則は存在しない、と考察していた。
 本能や精神(psyche)の三段階に関するフロイト理論は-id、ego、超ego-「快楽原理」と「現実原理」の間の対立を説明するもので、文明発展全体を支配してきたものだった。
 マルクーゼは、<エロスと文明>やフロイトの歴史理論を分析して批判する三つの講義録で、この対立は必然的なのか否か、そしてどの程度にそうなのかを考究する。
 彼の議論は、つぎのように要約することができるだろう。//
 (2)フロイトによると、文明化した諸価値と人間の本能の要求との間には永遠の、避け難い衝突がある。
 全ての文明は、諸個人の本能的欲求を抑える社会の努力の結果として、発展してきた。
 エロスまたは生存本能は、生殖の意味での性的性質に限られるのではない。性的性質は人間という有機体全体の普遍的な特性だ。
 しかし、それ自体は愉楽を与えない生産的作業に従事するために、人間という種は性的経験の範囲を生殖の分野に限定し、この狭く制限された性的性質ですら最小限のものにするのが必要だと考えた。
 こうして、解放された活力の蓄積は、愉楽のためにではなく人間の環境と闘うことに向けられた。
 同じように生命上のその他の根本的に決定的な部分、Thanatos(死の本能)または死への本能も、外へと攻撃的な形態で向けられる活力が物理的性質を克服して労働の効率性を増大させることができるように、変形させられた。
 しかしながら、その結果として、文明は必然的に抑圧的な性格をもった。本能は、人間にとっては「自然な」ものではない仕事のために統制されたのだから。
 抑圧と昇華は、文化の発展の条件だった。しかし同時に、フロイトによれば、抑圧は悪意に満ちた円環の原因になった。
 労働はそれ自体が善と見なされ、「快楽原理」は労働の効率性を増大させるために完全に従属したので、人間存在は、そうした価値のために絶えずその本能と闘わなければならなかった。そして、抑圧の総量が、文明の発展とともに増大した。
 抑圧は自己推進のための機構であり、抑圧それ自体に由来する苦痛を減少させるために文明が生み出した装置は、さらに高次の程度の抑圧のための機関になった。
 このようにして、文明が生んだ利点と自由は、自由の喪失を増大させるために利用された。とりわけ疎外された労働の量が大きくなることによって。-疎外労働こそが、我々の文明が許容する唯一の種類の労働なのだ。//
 (3)マルクーゼはこの理論に着目したが、本質的な点でこれを修正した。そして、フロイトの悲観的予言に反駁するようになった。
 マルクーゼは、こう語る。文明は、抑圧された本能が発展させたものではある。しかし、それが永遠に続くことを要求する生物学や歴史学の法則は存在しない。
 抑圧の過程が「合理的」だったのは、基本的な生活必需品が稀少で、人間がその本能的活力を「不自然な」方向へと逸らすことでのみ条件を改善して生きることができる、という意味においてだった。
 しかし、抑圧なくして人間が技術によってその必要を満足させることがいったん可能になると、上のようなことは非合理な時代錯誤(anachronism)になった。
 不愉快な労働は最小限度に減らされ、生活必需品の窮乏という脅威が存在しなくなったので、文明は我々が本能に反対することをもはや要求していない。
 我々は、本能が適切な機能を果たすことを許容することができる。その機能は、人間の幸福のための一条件だ。
 「自由な時間は生活の内容になり、労働は人間の潜在能力を発揮する自由な仕業になることができる。
 このようにして、本能にかかる抑圧構造は急激に変革されるだろう。すなわち、もはや喜ばしくない労働に囚われることのない本能的活力は自由になり、エロスのように、普遍化されたリビドー的(libidinous)関係を駆動させ、リビドー的文明を発展させるだろう。」
 (<五つの講義>〔Five Lectures, Boston, 1970-試訳者〕, p.22.)
 生産は、価値そのものだと見なされるだろう。
 生産増大という悪意ある円環と抑圧の増大は、破壊されるだろう。
 快楽原理と愉楽のもつ固有の価値は実現され、疎外された労働は存在しなくなるだろう。//
 (4)しかしながら、マルクーゼは、「リビドー的文明」と本能的活力の適切な機能への回帰について語る際に、「汎性論」(pansexualism)または昇華(sublimation)の廃棄を意識してはいない。フロイトによれば、これによって、文化的創造活動で人間は、充たされない欲求を幻想的に満足させるのだった。
 自由になった活力は、それ自体が純粋に性的な形態をとるのではなく、全ての人間活動をエロス化(eroticize)するだろう。そうした活動の全ては愉楽であり、愉楽はそれ自体が目標であると承認されるだろう。
 「労働のための刺激は、もう必要がない。
 なぜならば、労働それ自体が人間の能力を示す自由な仕業になるとすれば、人々が『労働する』ように仕向ける苦痛はもはや必要とされないからだ。」
 (上掲, p.41.)
 一般的に言って、制度を通じてであれ内部化されたやり方であれ、諸個人を社会的に統制する必要は、もう存在しないだろう。-そして、制度や内部化された様式は、マルクーゼによれば、いずれも全体主義の特質だ。
 かくして、自我(ego)のいかなる集団化も、もはや存在しないだろう。生活は合理的になり、個人は再び完全に自立的になるだろう。//
 (5)マルクーゼのユートピアが示す、こうした「フロイト主義」の側面は、その全ての重要な点について不明確さを呈示している。
 フロイトの理論は、本能の抑圧は生産のために必要な活力を解放するためだけではなく、人間に特有の意味での全ての社会的生活の存在を可能にするためにも必要だ、というものだった。
 本能は、純粋に個人的な欲求の充足へと向かう。
 そして、フロイトによれば、死への本能は、自己破壊に向かって作動することもあるが、外部への攻撃へと変形されることもある。
 人間は自分が他者に対する敵となる場合に限って、自分自身に対する敵であるのをやめる。
 各人間とその仲間の人間たちとの間の永続的な敵対の根源となる死への本能をなくする唯一の方法は、その活力を別の方向へと強いて向かわせることだ。
 リビドーは、他者たる人間を性的な満足のあり得る対象としてのみ扱うので、同じように社会的なものだ。
 要するに、本能は人間社会を創出する力を、または共同体の基礎を形成する力を持っていないばかりではない。本能の自然の効果は、そのような共同社会を不可能にすることだ。
 その場合にいかにして社会は存在することができるのかという、困難な問題は別に措くとして、フロイトの見解では、既存の社会は多数の禁忌、命令および禁止でもってのみ維持することができる、ということなのだ。これらは、避け得ない苦痛を犠牲にして本能を統制下に置いたままにする。//
 (6)マルクーゼは、この問題について自説を明確にしていない。
 彼は、本能の抑圧は「現在まで」は必要だった、というフロイトに同意しているように見える。しかし、〔必需品の〕希少性の廃棄以降はそれは時代錯誤だ、と考えている。
 しかしながら、本能と文明の間の永続的対立に関するフロイト理論に反論する一方で、彼は、本能は本質的に諸個人の「快楽原理」を充足するために貢献している、という見方を、受容している。
 この見方では、「リビドー的文明」はどのようにして維持することができるのか、いったいどのような力が現在ある社会を保持することができるのか、が明瞭ではない。
 フロイトとは反対に、マルクーゼは、人間は自然的に善であって他者と調和して生活する性向をもつと、そして、攻撃は疎外労働とともに消失する、歴史上の偶然的な逸脱だと、考えているのか?
 マルクーゼはそのようには語らない。だが、フロイト主義による本能の観念や階層化を受容しているのではあるけれども、彼は明白に逆のことを示唆している。
 人類は「原理的に」十分に多数のものを有している、物質的な要求の充足について本質的な問題は何もない、と主張する点で彼は正当だとかりにしてすら、どのような力があれば、全ての本能が解放されて生来の方向へと向きを変えることが許容される、そのような新しい文明を維持することができるのか、に関しては、まだ全く明瞭でない。
 マルクーゼは、この問題については関心がなかったように見える。彼が社会に関心をもつのは、主として、社会は本能を、つまりは個人的な満足を、妨害するものだ、という限りにおいてなのだ。
 彼は、物質的な存在に関する全ての問題が解決されてきたので、道徳的な命令や禁止はもはや重要ではない、と考えているように見える。
 かくして、アメリカのヒッピー・イデオローグ、Jerry Rubin がその著の中で、今日以降は機械が全ての仕事をこなし、人々には好むときにいつでも好む場所でどこでもセックスをする(copulate)自由がある、と語るとき、彼はマルクーゼの夢想郷〔ユートピア〕の真の本質を、未熟で幼稚にではあっても、明確に述べている。
 マルクーゼによるエロチシズム(eroticism)の性質づけは、あまりに漠然としていて、何らかの感知することのできる意味を伝えていない。
 人間全体のエロチシズム化(eroticization)は、官能的快楽への彼の完璧な熱心さを除いて、何かを意味することができるのだろうか?
 ユートピア的標語には、中身が全くない。
 また、我々はつぎの点も、理解することができない。マルクーゼは、昇華を生んだ全ての要因がそれらの働きを止めた後で、フロイト主義のいう昇華行為が力を保ち続けると、どのように想像しているのか?
 フロイトによると、文化的創造活動で表現される昇華行為は、本能的欲望を幻想的にまたは代用的に充足させるものにすぎず、文明は我々が満足するのを許しはしない。
 この理論は批判することができるし、批判されもしてきた。しかし、マルクーゼはそうしようと試みはしない。
 彼は、過去の文化的創造活動はフロイトが述べるように代用物だ、だが、それにもかかわらず、そのような昇華行為を必要としなくなってもなお将来に残り続ける、と考えているように見える。//
 (7)フロイト理論に関するマルクーゼの完全な倒錯(inversion)は、前社会的実存への回帰以外には、いかなる感知し得る目的をも有していないように見える。
 むろん、マルクーゼはそのような結論を明言しはしない。しかし、彼はどのようにして、矛盾なくしてその結論を回避することができるのか、は明瞭でない。
 彼によるこの点でのマルクスへの信頼は、きわめて疑わしい。
 マルクスは、未来の完璧な社会は諸個人が自分の力や才能を直接的な社会的な力だととして扱うように構成されるだろう、と考えた。そうすることで、個人の願望と共同社会の要求の間の矛盾を除去することができるのだ。
 しかし、マルクスは他方で、本能の性質に関するフロイトの見解を支持しなかった。
 人間は本能的にかつ不可避的に相互に敵対する、しかしまた、人間の本能はお互いが平穏かつ調和してともに生きることができるように解放されなければならない、とは、誰も、矛盾することなくしては、主張することができない。//
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 第2節、終わり。次節の表題は<一次元的人間>(<One-dimensional man>)。