岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)の各巻共通の編集委員一同による「はしがき」は、途中で、「以上のような現状認識を踏まえた上で、…」と述べて、編集の基本方針を記している。
 その前に叙述されている「現状認識」は、番号が付されてはいないが、四点を記しているものと解される。
 第一は、「大哲学者の不在」を含む「中心の喪失」だ。興味深いのでもう少し引用的に抜粋すると、つぎのようになる。
 「20世紀の前半、少なくとも1960年代まで」は、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」が「イデオロギー的対立も含めて成り立っていた」。
 20世紀後半にこの図式が崩壊したのちも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義など大陸哲学の潮流」と「英米圏を中心とする分析哲学やネオ・プラグマティズムの潮流」との間に、「方法論上の対立を孕んだ緊張関係が存在していた」。
 だが現在、「既成の学派や思想潮流の対立図式はすでにその効力を失っている」。
 <日本の>哲学状況はどうなのだと問いたくなるが、かなり面白い。
 第二は、「先端医療の進歩や地球環境の危機」によって促進されて、諸問題が顕在化した、ということだ。
 第三はのちに紹介するとして、第四は、「政治や経済の領域におけるグローバル化の奔流」が諸問題を発生させている、ということだ。
 上の第二点と一部は重複すると考えられるが、第三に、つぎのように語られている。全文を引用しよう。ここでは、一文ごとに改行する。
 「哲学のアイデンティティをより根底で揺るがしているのは、20世紀後半に飛躍的発展を遂げた生命科学、脳科学、情報科学、認知科学などによってもたらされた科学的知見の深まりである。
 かつて『心』や『精神』の領域は、哲学のみが接近を許された聖域であった。
 ところが、現在ではデカルト以来の内省的方法はすでにその耐用期限を過ぎ、最新の脳科学や認知科学の成果を抜きにしては、もはや心や意識の問題を論ずることはできない
 また、道徳規範や文化現象の解明にまで、進化論や行動生物学の知見が援用されていることは周知の通りであろう。
 そうした趨勢に対応して、…、哲学と科学の境界が不分明になるとともに、『哲学の終焉』さえ声高に語られるにまでになっている。」
 以上。
 このように叙述される「現状」の「認識」は、正当なものではないか、と思われる。
 そして、「文学部哲学学科」の存在意義というちっぽけな問題は別として、つぎの感想が生じる。
 第一に、人文社会系の学者・研究者および評論家類(自称「思想家」を含む)の中には、「実存主義・マルクス主義・論理実証主義」の「三派対立の図式」になお「イデオロギー的」にこだわっている者がいるのではないか。そうでなくとも、「現象学・解釈学・フランクフルト学派、構造主義・ポスト構造主義」、「分析哲学やネオ・プラグマティズム」といった「潮流」にこだわり続ける者も少ないのではないか、ということだ。
 むろん、そうした「哲学」の「潮流」などを知らない、意識していない人文社会系の者の方が、はるかに多いかもしれない。そんなことを知らなくとも、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 第二は、まさに上に明記されている、「生命科学、脳科学、情報科学、認知科学」は、人文社会系学問(歴史学を当然に含む)や社会・政治系の評論家類の営為の対象となり得る、ヒト・人間の「性質」・「本性」にかかわっている。この<自然科学>の進展を、この人たちは、どれほどに知っているのか、知ろうとしているのか、ということだ。
 経済学部出身らしい池田信夫の言述を(好意的・積極的に)評価するのは、この人がこの分野にも強い関心を向けていると見られることだ。
 この欄に名を出したことはないが、雑誌・Newton の愛読者だという元々は文科系の大原浩にもたぶん上のことがあてはまる。
 また、福岡伸一(<動的平衡>というテーゼ)や茂木健一郎(少なくとも当初は<クオリア>への関心)は、人文社会系の学者・研究者や読者たちと交流?する意識を排除していない、と推察される。
 圧倒的多数の人文社会系学者・研究者や社会・政治系評論家類(自称「思想家」を含む)は、おそらく、人間の(覚醒・意識の成立を前提とする)「認識」が(究極的に)脳内作業であって、「文章」を書くことも全く同様であること(むろんメカニズム・システムは複雑多様だが)を意識していない、と推察される。「自分」は<物質>などとは無関係の、「独立の」、「個性ある」、たんなる生物ではない<知識人>だと考えている、のではないか。これは<右も左も、斜め右上も斜め左下も、中央手前も奥も>、変わりがない。
 そうであっても、学界・大学や情報産業界の一部で「生きて」いける。
 なお、上の講座(全集)の第5巻の表題は<心/脳の哲学>。
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 上の講座(全集)は21世紀に入ってからのものだ。ソヴィエト連邦等の解体後であるとともに、今日までの10年間で、「脳科学」・「神経生物学」等はさらに進展している可能性がある。
 では、一つ前の同様の企画ものである講座(全集)は、異なる編集委員によってどういう「まえがき」を書いていただろうか。
 新・岩波講座/哲学〔全16巻〕は1985-1986年に刊行されている。上よりも20年ほど前だ。このとき、まだソヴィエト連邦等が存在した。
 各巻に共通する編集委員「まえがき」を一瞥すると、つぎのことが興味深い。
 第一に、「哲学の終焉」の危機感などは全く感じさせないような叙述をしている。つぎのとおりだ。
 「学問分野としての哲学は、明治期以降一世紀あまりの歴史をふまえて、研究者の層が厚い。また、前回…が出版された後、研究動向の多彩な展開がみられると共に若いすぐれた担い手たちも育っている。」
 ほぼ20年後の上述の講座(全集)とは、相当に異なっていることが分かる。
 しかし、第二に、つぎのような叙述が冒頭にあることは注目されてよいだろう。一文ごとに改行する。
 「…今日、私たち人類はこれまで経験したことのない状況に直面している。
 エレクトロニクスや分子生物学に代表される科学・技術の発達が人間の生存条件を一片させつつある。
 と同時に、文化人類学、精神医学、動物行動学の成果からも、人間とはなにかということ自体が改めて問い直されるに至っている。」
 30年前すでに、「文化人類学、精神医学、動物行動学」の成果を参照しなければならないことが(たぶん)意識されてはいたのだ。
 なお、この講座(全集)の第6巻の表題は<物質・生命・人間>、第9巻のそれは<身体・感覚・精神>。
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 この講座(全集)類の発行は日本の「哲学学界」または「哲学学・学界」を挙げての一大行事だっただろう。そしてまた、「まえがき」は時代と「編集委員」の意識を反映している。
 もっとも、学界所属者たちがいかほどに「まえがき」記述と同じ意識・認識だったかは疑わしい。
 また、「哲学」学界は略称<純哲>とも言うらしいのだが、<法哲学>、<社会哲学>、<経済哲学>?等々の学界と共通する意識・認識だったとは言えないだろう(但し、2008年ものの編集委員の一人は「法哲学」の井上達夫)。純粋の「哲学」の方が「こころ」・「精神」そのものに最も関係するかもしれない。
 なお、少し元に戻ると、あえての推測なのだが、1985-86年時点では、公式に?表明するか否かはともかく、日本ではなおも「マルクス主義哲学」の立場に立つ哲学・学者・研究者は多かったのではないか。その影響は、今日の比ではおそらくなかっただろう。
 この点は、1985-86年とソ連解体と日本共産党や「マルクス主義」の動揺のあとの2008-09年の、無視できない、学界を包む雰囲気の違いだろう。