精神と物質、意識と「現実」あるいは<こころ>と肉体・身体の区別や差違について、考える。
 我々の<こころ>以外の<身体>全体を<精神>だとはふつうは考えないだろうが、しかし、身体全体が<神経>だ、と答える人はいるかもしれない。では、<神経>は精神と同じ意味で、物質ではないのか?
 道徳、倫理、規範は(ほとんど精神と同一の意味で用いると)、全て「意識」だ。
 法規範もまた「意識」であって、物質ではない。
 人文社会科学、さらには自然科学の所産としての著書・論文等々も、「現実」とのかかわり方の程度・態様が異なるが、「精神」・「意識」の世界に入る。「知」的営為だ。「学問」とも言われるようだ。もとより、「知」的営為はアカデミズム界(学界)が独占するものではなく、私もまた「知」的営為を行う。
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 精神というと精神異常とか、精神障害という語を連想する。
 しかし、「おばけ」、「化け物(ばけもの)」の話をしても精神異常を通常は、又はただちには、疑われないだろう。
 「心霊」現象とか「超常」現象とか言われるものもある。
 <耳なし芳一>や<牡丹灯籠>の話には仏教が不可欠だし、京都・貴船神社には<亥の刻参り>とやらの話が残っているらしい。
 だが、つぎの小説・物語は、<宗教>とは関係がないようだ。但し、「神」なるものには言及があったかもしれない。
 鈴木光司・リング(角川書店・1991年/角川ホラー文庫・1993年)。
 鈴木光司・らせん(角川書店・1995年/角川ホラー文庫・1997年)。
 むかしにたぶん読んで、日米の映画も視たような気がする(ナオミ・ワッツは容貌とその名からして半分は日本人だと勘違いした)。あらためてきちんと読むと、ストーリーや「理屈」がよく分かる。
 これらは、映像上の<サダコ>に注意を奪われなければ、「ホラー」小説よりも「オカルト」小説だ。いや「オカルト」小説でもなく、むしろ<科学小説>または<反科学小説>だ。また、SFはサイエンス・フィクションのことだから十分に「科学小説」=「SF小説」と言えるかもしれない。
 小説・物語としては成り立っているが、また専門的知識と筆力で成り立たせてはいるが、「現実」には、または「科学」上は成立し得ないだろうと「文科」系人間でも感じる、物語上の骨格点は、つぎにあるだろう(第三著の<ループ>には立ち入らない)。
 第一に、特定の人間(山村貞子)は死の瞬間または直前に抱いた現世または人間に対する強い「怨み」を、死亡場所(井戸)の真上または直近にあるビデオテープ(VHS)に直接に<念写>することができる。
 こういうことが可能であるならにば、死の瞬間または直前の「視覚」の記憶は、死後もその脳細胞(視覚神経を通じた記憶細胞)の中に(ある程度の期間は)生きて残せるのではないか。
 そうすると、例えば自分を殺そうとして前に立っている人間の映像記録も「網膜」を通じて脳内に残り、死後に脳細胞を「視る」ことで、容易に殺人者が判明し、容易に逮捕されるのではないか?
 そうしたたんなる感覚的「記憶」ではなく<怨念>がビデオテープの情報を変えてしまえる、というのだから上の小説は非現実的だ。しかし、種々の叙述を織り交ぜて、そういうこともあるのかな、くらいには作者は誘導することに成功しているかもしれない。
 何しろ、「お化け」なるものはいないと分かっていても、人間の中には(日本人の中には?)<お化け屋敷>に入って(かつ実際に驚きかつ恐くなって)しまう人々がいるのだから。
 第二に、強い<怨念>によって<念写>された映像を見てしまった者の身体には、<リング・ウィルス>が潜在的に発生する。
 死者は「天然痘」に感染していたので、「天然痘ウィルス」の一種または類似物だとされる。
 正確にはこうも書かれる。映像を視て「ある心の状態が出来上がり、その影響によって、既に存在する体内のDNAが変貌を遂げ、天然痘ウィルスに酷似した未知のウイルスが発生する」。
 人間の身体には、ある病気をもつ特定の人が映像化した物をみてしまうと、それが第一点にいう「念写」ではなくとも、その病原菌(ウィルス)が宿るのか?
 そうだとすると、病気による、または病気をもって死んだ者が少なくとも死の直前に執筆した、またはビデオに撮った文章・紙やビデオ・テープはすぐさま廃棄しなければならない。
 万が一 「怨念」をもつ死者の「念写」が可能であったとしても、「現実」には、または科学的には、そういうことはあり得ないだろう。
 しかし、不思議なこと、奇妙なこと、類書に書かれていないことは、人間の関心・興味を惹き付けることがある。
 その時点で、そういうこともあるのかもしれないかな、くらいには、作者は誘導することに成功しているかもしれない。
 読者または映画鑑賞者は「真実」を求めているのではなく、「刺激」あるいは「娯楽」を求めているのだ。
 第三に、一定のことをしないかぎり、<リング・ウィルス>に感染した者は発症して、(もともとは一週間後に)死ぬ。より正確には、上に引用部分の続きはこうだ。
 発生した「擬似天然痘とも呼べるウィルスは、人間の心臓を取り巻く冠動脈の内部を癌化させ、肉腫を作り上げる」。この肉腫は「ちょうど一週間で」「最大になり、血液の流れを遮断された心臓は動きを止めることになる」。
 (登場人物・高野舞の場合は少し異なるが、省略する。)
 よく知らないが、最終的には(ほとんど)みな結局は「心不全」で死ぬので、「変死」とか「事件」性のない自然死の場合は、「心不全」の原因になったのは冠動脈か(心筋梗塞等か)それとも脳内動脈か(脳梗塞等か)等々を<解剖>して突き止める、ということはしない、と聞いたことがある。
 冠動脈の一部に出来た「腫瘍」による急性心筋梗塞だったか否かは、そもそもは分からないのだ。きっと。それは、おそらく、死んでしまい、血流も滞ってしまった時点では、心臓付近や脳内を「解剖」しても、直接の原因を見出すことはできないことによるのだと思われる。
 このことは、「犯罪」に使える、とかねてより思ってきた(実行するつもりはない推理小説作成次元の「お話」だ。また、間違っている可能性もある)。つまり、「神経」等々に過大なストレスを与え続けて、いつか対象者を心筋梗塞または脳梗塞等で「殺す」ことは、成就の時期を確定することはできないが、将来的な漠とした「見込み」としては可能なのではないか。そして、かねてより血圧等々に問題があったということであれば、かつ年齢もある程度上であれば、脳梗塞または心筋梗塞による「心不全」による死も、(突然ではあっても)自然死と理解されて、「殺人」が疑われることはない。
 こんな関連することも思い浮かべるが、ともあれ、「リングウイルス」なるものが冠動脈癌化→死をもたらす、というのは、もちろん、科学・「医学」の裏付けが全くない(と思われる)捏造話だ。
 それでもしかし、そのようにストーリーの「論理」を解き明かされて?、そんなこともあるのかな?と感じてしまうのが、人間の身体、心臓、冠動脈等に詳しくない読者の多くだったかもしれない。
 第四は、上に「一定のことをしないかぎり」と書いたことだ。つまり、「リング・ウイルス」は(ウィルスは生物に取り憑いてしか存続できないらしいのだが)<(自己)増殖>を求める。従って、たんにビデオテープをダビングするだけではなくて、それが第三者多数に「視られる」ことをその本性上要求している。
 よって、ビデオテープをダビングして第三者に見せた者や、登場人物・浅川のように映像をそのまま「文章」化して多数の読者に読ませた者は、潜在的なウィルス保有者であっても、発症・死亡はしない。
 これまた、一般論としての<ウイルスの増殖>という点を除けば、第一~第三を前提にしたことなので、現実性があるわけではない。
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 この小説・物語に関心をもつのは、「怨念」という「意識」が「現実」を変える、ということから出発していることだ。
 この小説・物語のように強い「怨念」が一定の映像(・記憶)をテープに「念写」するというのではなくしても、しかし、怨念(「恨」?)あるいは「ルサンティマン(ressentiment)」が、広くは「強い狂熱的感情」が一定の社会階層・集団に蓄積されると、(以下が重要なポイントだが)その発生に「正当な」事由があるか否かとは関係なく、「現実」に影響を与えてしまう、ということはあり得るし、現にあった。
 その例を記し出すとキリがない。また、それは、「意識」(怨念も入る)と「現実」、「脳細胞」と「こころ」といった問題の関心からすると、生々しく、具体的すぎるようだ。