L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.376-p.380.
 ----
 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判②。
 (8)一般的に言って著者たちの「啓蒙」概念は風変わりで、彼らが嫌悪する全てのものを非歴史的に構成した混合物だ。実証主義、論理、演繹と経験科学、資本主義、貨幣の権力、大衆文化、リベラリズム、およびファシズム。
 彼らの文化についての批判は-商業化された芸術の有害さについてそれ以来常識的なものになってきた正しい観察は別として-、文化の享受がエリートたちに留保されてきた時代への郷愁に満ちている。つまりそれは、大衆に対する封建的軽侮の気分をもつ、「ふつうの人間の時代」に対する攻撃だ。
 大衆社会は前世紀に、多様な地域から攻撃された。とりわけ、Tocqueville、Renan、Burkhardt およびNietzsche によって。
 ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を労働の分化、「物象化」および交換価値の支配のうちに感知することだ。
 しかしながら、彼らは、マルクスよりもさらに進んだ。彼らによれば、啓蒙主義の原罪は、人間を自然から切り離し、自然をたんなる利用の対象だとして扱い、その結果として、人間が自然秩序と同質化され、それと同じように人間が利用されている、ということにある。
 このような過程は、性質ではなく量的に表現することができるもののみにに関心を持ち、技術的目的に役立つようにした、科学にあるイデオロギーの反映だ。//
 (9)こう理解することのできる攻撃は、本質的にはロマン派的伝統のうちにある。
 しかし、著者たちは、頽廃状態から脱するいかなる方法も提示しない。どうすれば再び自然と親しい友人になることができるかを、あるいはどうすれば交換価値を排除して貨幣や計算なしで生活することができるかを、語らない。
 彼らが提示しなければならない唯一の解決策は、理論的な推論だ。そして、我々は、彼らがその主要な長所だと想定しているのは論理と数学による僭政からの解放なのではないか、と推察できるかもしれない(彼らは、論理は諸個人に対する侮蔑を意味する、と語る)。//
 (10)つぎのことは注目に値する。すなわち、社会主義者は資本主義は貧困を生み出すと公式には非難するけれども、フランクフルト学派がもつ主要な不満は、資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ、そうして文化の高次の(higher)形態にとって有害だ、ということにある。//
 (11)<啓蒙の弁証法>は、現代哲学に対するマルクーゼ(Marcuse)ののちの攻撃の全ての要素を含んでいる。価値の世界に関する実証主義的「中立主義」を主張し、人間の知識は「事実」によって統御されなければならないと強調することによって、全体主義に味方している、とする攻撃だ。
 この奇妙な反理(paralogism)は、経験的で論理的な規準の遵守を現状<status quo>への忠誠やあらゆる挑戦の峻拒と同一視するもので、フランクフルト学派の諸著作に繰り返して何度も現れる。
 かりにその想定する実証主義と社会的保守主義または全体主義(この著者たちはこの二つを同一のものだと見なす!)の間の連結関係を歴史に照らして検討するならば、明らかになってくる証拠は全く異なっている。すなわち、実証主義者たちはヒューム(Hume)以降、リベラルな伝統との親愛関係に入ったのだ。
 明らかに、上の両者の間には論理的関係はない。
 かりに科学的観察がその客体に対する「中立」性を保ち評価を抑制することが<現状>を擁護するということを意味するとすれば、精神病理学的観察は疾病の肯定を意味すると、そしてその疾病と闘ってはならないと、我々は主張しなければならなくなるはずだろう。
 医学と社会科学との間に重要な違いがあることは、認めよう(この論脈でのフランクフルト学派の者たちの論述は人間の知識の全てに当てはまるのだけれども)。
 社会科学では、観察それ自体が、それが社会の像全体を含めて行われるかぎり、主観性をもつ事柄(subject-matter)の一部だ。
 しかし、だからと言って、できる限り価値判断を抑制している科学者は社会的固定主義または社会順応主義者の代理人だ、ということになるわけではない。その科学者はそうであるかもしれないが、そうでないかもしれない。
 そうではなくて、科学者の観察が「外部的」だとか中立的だということからは、何も推論することはできない。
 一方でかりに、観察者が見方について何らかの実践的関心をもつという意味でのみならず、自分の認識活動を一定の社会的実践の一部だと見なしているという意味で「関係して」いても、その科学者は、多かれ少なかれ、特定の関心には通用力のあると見えるものは何であっても、真実だと理解するよう余儀なくされている。特定の関心とは、自分が一体化する、換言すれば発生論的で実用主義的な真実の規準を用いるような関心だ。
 かりに上の原理が適用されるならば、我々が知るような科学は消失し、政治的なプロパガンダに置き代えられてしまうだろう。
 疑いなく、多様な政治的利益と選好は、多様なかたちで社会科学に反映される。
 しかし、これを最小化するのではなくそうした影響を一般化しようとする規準的考え方は、科学を政治の道具に変えてしまうだろう。全体主義諸国家の社会科学について生じたように。
 理論的な観察と討議は、その自律性を完全に喪失するだろう。これは、別の箇所に示されているような、フランクフルト学派の執筆者たちが望んでいるだろうこととは反対のことだ。//
 (12)科学的な観察それ自体は目的(aims)を生み出さない、ということも本当のことだ。
 一定の言明または仮定が科学の一部になる条件を記述する規準の中に、すでに何らかの価値判断が暗黙に示されているとしてすら、このことは言える。
 科学的手続という神聖な規範は、もちろん、探求者が実際的な目的に役立つ何かを発見しようと欲していることによって、あるいは、彼の関心が何らかの実際的関係によって喚起されているということによって、侵害されることはない。
 しかし、事実と価値の二元論を「克服する」というふりをしつつ(多数のマルクス主義者と同じくフランクフルト学派の執筆者たちは絶えずこれを克服していると自負した)、科学の真実がそれが何であれ何らかの利益に従属しているならば、その規範は侵害されている。
これが単直に意味するのは、科学者が自分自身と一体化する利益に適合するものは何であっても正しい(right)、ということだ。//
 (13)経験的観察の規準は、中世遅くから以降のヨーロッパの精神世界で、数世紀の間に進化してきた。
 そうした発展は何がしかの程度で市場経済の広がりと結びついていた、ということは、確実には証明されていないけれども、あり得る。
 他のほとんどの主題と同様にこれにもとづいて、「批判理論」の支持者たちは、歴史的分析を欠いた、剥き出しの主張のみを行う。
 実際に歴史的な連結関係があるならば、そうした経験的観察規準は「商品フェティシズム」の道具であって資本主義の拠り所だ、ということにはまだ決してならないだろう。
 このような前提は全て、実際には本当に馬鹿げたものだ。
 我々がいま考察している執筆者たちは、ともかくも潜在的には、人間の本性からの需要を充足させる何らかの科学上のもう一つの選択肢がある、と考えたように見える。
 しかし、彼らはそれに関しては、何も語ることができない。
 彼らの「批判理論」は実際のところ、理論には誰も否定しようとはしない大きな重要性があるというだけの一般的言明にすぎない。あるいは、思考でもって「超越する」よう我々を誘導しようとする、そのような現存する社会に対する批判的態度のための釈明物と大した変わりがない。
 しかしながら、超越せよとの命令は、どの方向へと現存秩序は超越されるべきなのかを彼らが語ることができないかぎりは、無意味だ。
 この観点からすれば、すでに記述したように、正統派マルクス主義にはもっと独自性がある。正統派マルクス主義は少なくとも、いったん生産手段が公的に所有され、共産主義政党が権力を掌握するならば、わずかに若干の技術的な問題だけが普遍的な自由と幸福の前に立ちはだかるだろう、と主張しているのだから。
 このようなマルクス主義者による保障は、経験によって完璧に否定されている。しかし、我々は少なくとも、彼らが何を言いたいかがが分かる。//
 (14)フランクフルト学派の<啓蒙の弁証法>その他の書物は、産業社会での芸術の商業化や文化的産物の市場への依存という弱さに関して、多数の健全な指摘を含んでいる。
 しかし、著者たちがこのことが芸術全体や人々開かれた芸術の享受一般を頽廃させると主張するとき、彼らはきわめて疑わしい根拠しか持っていない。
 かりに主張がそのとおりだとすれば、例えば、18世紀のカントリー・フォークはある程度の高次の文化形態をもったが、資本主義が徐々にその形態を奪い、粗野で大量生産の対象物と娯楽へと変化させた、ということを意味するだろう。
 しかしながら、18世紀の田舎者たちが、現在の労働者たちがテレヴィジョンから提供される以上に、教会の儀式、民衆スポーツや舞踊のかたちで高次の文化形態を享受していた、というのは明瞭ではない。
 いわゆる「高次の」文化は消失していないが、かつて以上に、比べものにならないほどに入手しやすくなった。20世紀の劇的で形式的な変化を交換価値の支配によって全て説明することができる、と論じるのは、きわめて納得し難い。//
 (15)アドルノはその多数の書物で芸術の頽廃に言及し、現在の状況には希望がないと考えているように思える。つまり、芸術を再活性化してその適切な機能を果たさせることのできる力の淵源は存在していない、と考えているようだ。
 他方で、「肯定的」芸術があり、現在の状況を受け入れて、混沌しかないところに調和を見出すふりをしている(例えば、Stravinsky)。
 また一方には、抵抗する試みもあるが、現実世界に根ざしていないので、非凡な者たち(例えば、Schönberg)ですら現実逃避に走り、自分たち自身の芸術素材の自己満足的王国に閉じこもっている。
<アヴァン・ギャルド>運動は否定の運動だが、さしあたりは少なくとも、それ以上の何も生み出すことができない。
 それが我々の時代の本当のことだと言うのならば、大衆文化や偽の「肯定的」芸術とは違って、文化の破産を表現する、か弱くて気の滅入る真実なのだ。
 アドルノの文化理論の最後の言葉は、明らかに、我々は異議を申し立てなければならない、だがその申し立ては無駄になるだろう、というものだ。
 我々は過去の諸価値を取り戻すことができない。現在の諸価値は堕落して野蛮だ。そして、未来は何も与えてくれない。
 我々に残されているのは、全体的に否定する素振りをすることだけだ。そのまさに全体性によって、内容が剥奪される。//
 (16)これまで述べたことがアドルノの著作についての適切な説明であるならば、我々はそれをマルクスの思想を継承したものと見なすことはできない、というばかりではない。
 アドルノは、その悲観主義という動機でもって、マルクスと真反対に対立している。
 明確なユートピア像を描くのに失敗して、人間の条件に対する最終的な反応は、言葉にならないほどの嘆き声(inarticulate cry)でのみあり得るだろう。
 ----
 第6節の表題は、<エーリヒ・フロム(Erich Fromm)>。