L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。分冊版、p.372-p.376.
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 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第5節・「啓蒙主義」(enlightenment)批判①。

 (1)ホルクハイマーとアドルノの<啓蒙の弁証法>(Dialectic of Enlightenment)はばらばらでまとまりのない考察から成っているが、一種のシステムに還元することのできる若干の基礎的な思想を含んでいる。
 この書物は第二次大戦の末期に書かれ、ナツィズムの問題を中心にしている。著者たちの見方では、ナツィズムはたんなる悪魔的奇形物ではなく、人類が落ち込んでいる普遍的な野蛮状態を劇的に表現するものだった。
 彼らは、この頽廃状態の原因をまさに同一の価値、理想が恒常的に機能したことに求めた。また、人類をかつて野蛮さから脱出させた、「啓蒙主義」(enlightenment)という概念で要約される規準のそれにも。
 彼らはこれによって、この概念が通常は用いられる18世紀に特有の運動を意味させなかった。そうではなく、「人間の恐怖からの解放と人間の主権性の確立を意図する…進歩的思考という一般的意味」で用いた(<啓蒙の弁証法>p.3.)。
 「弁証法」は、ここではつぎのことに存した。すなわち、自然を制圧して神話の足枷から理性を解放する運動は、その内在的な論理によって、その反対物に転化する、ということ。
 それは実証主義、実用主義および功利主義のイデオロギーを生み、世界を純粋に量的な側面にのみ帰することによって意味を絶滅させ、芸術と科学を野蛮化させ、人類をますます「商品フェティシズム」に従属させてきた。
 <啓蒙の弁証法>は、歴史に関する論述書ではなく、多様な形態での「啓蒙的」理想の失墜を証明するための、手当たり次第に集められたかつ説明のない諸例の収集物だ。
 啓蒙主義に関する若干の序論的論及のあと、この書物には、オデッセイ、マルキ・ド・サド、娯楽産業および反ユダヤ主義に関する諸章が続いている。
 (2)啓蒙主義は世界にある神秘的なものからの人間の解放を追求し、神秘的なものは存在しないと宣言したにすぎない。
 それは、人間が自然を支配することを可能にする知識の形態を追い求め、そのために知識から意味を剥奪し、実質、性質、因果律といった観念を投げ棄て、事物を弄ぶという目的に役立つかもしれないもののみを維持した。
 啓蒙主義は、知識と文化の全体を統合し、全ての性質を共通の測量基準に貶めることを意図した。 
 そうして、その責任によって、科学に対する数学的基準の賦課や交換価値にもとづく経済、すなわち全種類の商品の抽象的な労働時間の総量への変形、の創出が生じた。
 自然に対する支配の増大は自然からの疎外を意味した。そして同様に、人間存在に対する支配の増大を意味した。
 啓蒙主義が生んだ知識の理論は、事物を支配しているかぎりで我々はその事物を知る、このことは物理の世界と社会の世界のいずれについてもあてはまる、ということを意味した。
 啓蒙主義が意味したのはまた、現実はそれ自体では意味を持たず、主体によってのみその意味を取り出すことができる、そして同時に、主体と客体は互いに完全に別々のものだ、ということだった。
 科学は、現実が生じる原因を-まるで神話的思考を掌る「反復の原理」を模倣するがごとく-一度ならず頻繁に発生する可能性をもつものに帰する。
 科学は、範疇のシステムの内部に世界を包み込み、個々の事物と人間を抽象物に転化させ、そうして全体主義のイデオロギー上の基礎を産み出す。
 思考の抽象性は、人間による人間の支配と手を携えて歩んだ。
「散漫な論理、観念領域での支配、が発展させた思想の普遍性は、現実的な支配にもとづいて打ち立てられている」(p.14.)。
 啓蒙主義はその発展形態では、全ての客体は自己認識できる(self-identical)と考える。 ある事物がまだそれではないものの可能性があるとの考えは、神話の痕跡だとして却下される。
 (3)世界を単一の観念システムで、そして生来の演繹的思考で包み込もうとする強い意欲は、啓蒙主義の最も有害な側面であり、自由に対する脅威だ。
 「なぜならば、啓蒙主義は他のシステムと同じく全体主義的(totalitarian)だからだ。
 それが真実ではないことは、ロマン派の対敵たちがつねに非難してきた点にあるのではない。分析的方法、要素への回帰、反射的思考による解体。
 そうではなく、啓蒙主義にとっては最初から過程(<Prozess>)がつねに決まっているということにある。
 数学的過程では未知のものがある等号上の未知の量になるとき、何らかの価値が差し挿まれる前ですら、そのことは未知のものをよく知られたものにしてしまう。
 自然は、量子論の前も後も、数学的に把握することができるものだ。<中略>
 全体として把握されかつ数式化された世界を予期されるように真実と同一視して、啓蒙主義は、神話に回帰することに対抗して身を守ろうと意図する。
 啓蒙主義は、思考と数学を混同している。<中略>
 思考はそれ自体を客観化して、自動的な、自己活性力のある(self-activating)過程になる。<中略>
 数学的過程は、いわば、思考の儀礼になる。<中略> そして、思考を事物、道具に変える。」
 (<啓蒙の弁証法>,p.24-p.25.)
 要するに、啓蒙主義は、新しいものを把握するつもりがないし、そうすることもできない。
 現在にあり、すでに知られているものについてのみ関心をもつ。
 しかし、啓蒙主義の思考規準とは反対に、思考とは、感知、分類および計算という実体のものではない。
 思考は、「連続的な即時物のそれぞれを決定的に否定すること」にある(<そのつどの即時的なものの明確な否定〔独語-試訳者〕>)(同上、p.27.)。-これを換言すれば、推察するに、存在するものを超えて存在する可能性があるものへと進むことに、ある。
 啓蒙主義は、世界を同義反復のものに変える。そうして、もともと破壊しようとしていた神話へと転換させる。
 思考を抽象的「システム」に編成されなければならない「事実」に関するものに限定することによって、啓蒙主義は現在あるものを、つまりは社会的不公正を、神聖化する。
 産業主義は人間的主体を「物象化」し、商品フェティシズムが全ての生活分野を覆っている。//
 (4)啓蒙主義の合理主義は、自然に対する人間の力を増大させる一方で、一定の人間の他者に対する力をも増大させた。そしてさらには、その有用性を長続きさせてきた。
 悪の根源は労働の分割で、それに伴った人間の自然からの疎外だった。
 支配することが思考の一つの目的になった。そして思考それ自体は、そのことによって破壊された。
 社会主義は、自然を完全に外部のものと見なすブルジョア的思考様式を採用し、それを全体主義的なものにした。
 このようにして、啓蒙主義は自殺的行路へと乗り出した。そして、救済の唯一の希望は、理論のうちにあるように見える。すなわち、「真の革命的実践<独語略-試訳者>は、社会が思考に対して許容する無意識状態(<Bewusstlosigkeit>)を物ともしない非妥協性にかかっている」(p.41)という考え方。//
 (5)<啓蒙の弁証法>によれば、オデッセイ伝説は、正確には完全に社会化されるがゆえに個人が孤立することの原型または象徴だ。
 主人公は自分を「Noman」と称することでCyclops から逃げ出す。すなわち、自分を殺すことで、その存在を維持する。
 著者たちは述べるのだが、「こうした死への言葉上の適応は、現代数学の図式を包含している」(p.60.)。
 一般的に言って、この伝説が示すのは、人間が自分自身を肯定しようとする文明は自己否定と抑圧によってのみ可能なものになる、ということだ。
 かくして、弁証法は、啓蒙主義のうちにフロイト主義の側面を持つようになる。//
 (6)18世紀の啓蒙主義の完全な縮図は、マルキ・ド・サド(the marquis de Sade)だった。この人物は、支配のイデオロギーを最高度の論理的帰結とした。
 啓蒙主義は人間を、抽象的「システム」の中にある反復可能で代替可能な(それによって「物象化」された)要素だとして扱う。これはまた、Sade の生き方が意味するところだ。
 啓蒙主義哲学のうちに潜在している全体主義思想は、人間の特性を交換可能な商品と同質化させる。
 理性と感情は、非人格的な次元にまでと貶められる。
合理主義的計画化は、全体主義のテロルへと退廃する。
 道徳性は、弱者が強者に対して自らを守るために、弱者によって策略(manoeuvre)だとして嘲弄され、侮蔑される(これはニーチェが予想したことだ)。
 伝統的価値は、理性と反目している、幻想だ、と宣告される。これは、デカルト(Descarte)による延長された実在と思考する実在への人間の二分にすでに暗示されている見方だ。//
 (7)理性、感情、主体性、性質および自然自体を数学、論理および交換価値という罪深い結合でもって破壊することは、文化の頽廃のうちにとくに看取される。その甚だしい例は、現代娯楽産業だ。
 商業的価値が支配する単一のシステムは、大衆文化の全ての分野を奪取してきた。
 全てのものが、資本の力を永続化することに奉仕している。-労働者が公平で高い生活水準を達成したり、人々が清潔な住居を見出すことができる、といったことですら。
 大量に生み出される文化は、創造性を殺している。
 そのことはそれへの需要によって正当化されはしない。需要それ自体が、システムの一部なのだから。
 ある時期のドイツでは、国家は少なくとも市場の作用に対する高度の文化形態を保護した。しかし、その時代は過ぎ去り、芸術家たちは消費者の奴隷になっている。
 目新しいもの(novelty)は呪いの対象だ。
 芸術作品の製作も享受も、あらかじめ計画されている。芸術が市場競争を生き延びるためには、そうされなければならないかのごとくに。
 このようにして芸術それ自体が、それがもつ生来の機能とは逆に、個人性を破壊したり、人間存在を個性を欠く画一的なもの(stereotype)へと変化させるのに、役立っている。
 著者たちは、慨嘆する。芸術はきわめて安価で入手しやすいものになった、その不可避性が意味するのは、芸術の頽廃だ、と。//
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 ②へとつづく。