篠田英朗・ほんとうの憲法(ちくま新書、2017)
 大日本帝国憲法のもとに1889年以降の日本があったとすれば、「1889年憲法体制」という語が将来に使われるかもしれない(これの終期には議論がありうる)。
 現在は、同様の表現をすれば、「1947年憲法体制」のもとにある。
 前者は長くとも58年しか続かなかったが、後者は現在で何と72年も続いている(年単位で計算している)。日本国憲法であり、「戦後憲法」だ。その「粘り」あるいは「定着」性はある意味では驚くべきばかりだ。
 こう第三者的に、評論家的に評するのは、本当は問題がある。なぜなら、今生きている日本人のほとんどが、評論家ふうの者ももちろん、日本国憲法、「1947年憲法体制」に<どっぷりと浸かって>生きているからだ。
 以上は本題と直接の関係はない、前フリだ。
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 篠田英朗の表題の新書は、とりあえず①を2017年の7月か8月に投稿したあと、同年11月か12月に全部を熟読しようと「正座した」気分で最初から読み出したのだったが、途中の18頁で早々に、つまり「はじめに」だけを読んで、やめた
 きちんと読んでおこうと感じていたのは、「戦後日本憲法学批判」と副題で明記され、「オビ」には「なぜ日本の憲法学はガラパゴス化したのか」と、興味をそそる言葉があって、これらには共感するところがあったからだ。
 しかし、これではダメだ。この本の叙述では「戦後日本憲法学」、「日本の憲法学」全体の批判にはまるでならないだろう、とすぐさまに感じた。
 大半を読んではいないのだが、イギリス・アメリカ、フランス・ドイツ、あるいはロック・ケルゼン・ルソー等々が出てきているようだ。
 篠田説として読めばよいのだろうが、日本国憲法が背景とする憲法理念・憲法思想等々については相当の論点についてすでに多数の文献があるので、こうした新書レベルの短い書物で簡単に論じきれるものではない、と思われる。
 しかしともあれ、「はじめに」にコメントしよう。
 ①一部の憲法学者(長谷部恭男、木村草太)が、自分または自分たちの「憲法解釈」が唯一「正しい」と主張しているとすれば、それ自体が当然に「正しくない」主張なので、無視しておけば足りる。
 ②この書の基本は「国際協調主義」をより重視して憲法(とくに現憲法九条)を「解釈」せよ、ということのようだ。p.13、p.15、p.17、p.18。
 その趣旨は理解できるとしても、しかし、「国際協調主義」のような大原理・大目的または抽象的な原理・原則が具体的な憲法の条文解釈に直接に影響を与える、ということはほとんどない(別の同種のものでも同じ)。憲法解釈にどのような影響を具体的に与えるかが問題で、筆者が成功しているとは思えない。
 先走って書けば、「国際協調主義」から憲法(解釈)に対する国連憲章の「優先」が当然に出てくるわけでもない。
 また、国連憲章51条は一定の場合における「国際連合加盟国」の「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定める。
 条約と憲法の関係、国際法と憲法の関係という問題のそもそも前に、この国連憲章51条の条文は、一定の場合の「集団的自衛の固有の権利」の<行使>を加盟国に義務づけているわけではない。
 「*を行使することができる(=*を行使してもよい)」と「*を行使しなければならない」とではまるで意味が異なる。
 国連憲章51条(その思想史的背景を含めて)を考慮し、尊重するとしても、「集団的自衛の固有の権利」の<行使>するか否かやその要件は加盟国の憲法(解釈を含む)や法律で主体的に定めることができるものと解される。
 (つまり、集団的自衛権の行使を国連憲章が許容していたとしても、その国際法上許容された権利の行使を主権国家として行使しない、または抑制する、というのは何ら国際協調主義に違反するものではない。あるいは、そのいう日本国憲法上の「国際協調主義」と一致しない、というわけではない。)
 まさかとは思うが、この解釈を否定するために、あるいは逆に「国際協調主義」・国連憲章尊重からしてこの解釈が当然に否定されるものとして、篠田がこの新書を書いたのだとすると、大いなる勘違いがあるだろう。
 くどいが、国連憲章51条を援用して決着がつくのであれば、2017年当時、政府も自民党もしつこくこれを引き合いに出していたはずなのだ。これでは決定的な手がかりには少なくともならない、ということを当時の論者たちも、前提にしていたと思われる。
 ③これではダメだと最初に感じたのはとくに、p.16あたりだ。
 「立憲主義」の基礎は「法の支配」の旨は、まあよしとしよう。しかし、以下のことが筆者=篠田も疑いなく支持するものとして叙述されていることには違和感をもった。
 「個人の自然権を絶対的なものとみなし、その権利を守る。それが出発点となって、社会構成員による社会設立のための社会契約、政府と人民の間の統治契約が説明されていく」。(p.16.)
 端的に言って、ここでの「自然権」とか「社会契約」・「統治契約」自体の意味・論理構造自体を問題にしないと、「戦後憲法学」を批判できないだろう。
 基本的に同じことは、自説として整理される、一つの「原理」、三つの「目的」、「制維持道徳の法則」としての「国際協調主義」、にも言える。
 つまり、これらは全て既存の<憲法解釈学>の範囲内に収まるもので、換言すれば戦後憲法学と何ら矛盾しないでむしろ適合しているもので、外在的な批判では全くない。
 なるほどよくあるかもしれない「説明」・「論理」だが、専門の憲法学者の中にすら、こう簡単に叙述しない者がいるに違いない(阪本昌成ならばどうだろうか)。
 また、以上はあくまで「憲法学的」、「法学的」説明であり叙述なので、社会科学または人文社会科学一般に通用するかどうかは別の問題だ。
 さらに「自然権」という語自体が「天賦人権」から「造物主」という西欧的「神」につながってくるのであって、「人類普遍性」を語れるのかどうかは、秋月瑛二のようになおも「日本」独自性・「日本」的学問と論理の展開を期待する者にとっては、きわめて違和感をもつ。
 結局のところもこの篠田も、一定の憲法学者や特定の大学法学部を批判してはいても、やはり<戦後教育の優等生>の一人なのではないか、との感想が生じる。
 大陸的なものに対してイギリス・アメリカ的なものの参照を強く要求しているとしても、それは、高校教育までに培った<近代世界>あるいは<憲法>観の中での、内輪的な議論だろう。
 憲法学批判、法学批判ならば、まだ十分に読んでいないが、森下敏男「マルクス主義法学の終焉」の方が有益だと、私には思える。
 「はじめに」以降も、篠田は憲法「前文」に執着し?、現憲法の原理等々に、歴史や外国にまで触れて言及しているが、上にも書いたように、ほぼ戦後<法学>の範囲内・枠内のものであり、いろいろと議論されているよね、いろいろとよく勉強したよね、という感想しか持てない(これら自体に強い関心を持っていないことにもよるので、現在の私の問題の一部ではあるが)。
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 以上、もともとアホらしくて、あるいは当たり前すぎて、投稿を遠慮していた半年ほど前の文章だ(冒頭を含む)。無駄にするのも惜しくなったので、恥ずかしながら公にしておく。
 2017年平和安全法制は違憲だとする長谷部恭男らの「解釈」に私は決して同調しないが、だからと言って、当然のことながら、篠田英朗のこの本での主張・「解釈」に従っているわけでは全くない。