L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 <フランクフルト学派>に関する章の試訳のつづき。
 ----
 第10章・フランクフルト学派と「批判理論」。
 第2節・批判理論の諸原理(principles)②。
 (7)分かるだろうように、「批判理論」の主要な原理はルカチ(Lukács)のマルクス主義だ。但し、プロレタリアートがない。
 この相違は、この理論をより柔軟でかつ教条的でないものにしているが、それを曖昧でかつ一貫していないものにもしている。
 ルカチは、理論をプロレタリアートの階級意識と同一視し、ついでそれを共産党の知見と同一視することによって、彼の真実に関する規準を明確に定めた。すなわち、社会を観察する際には、真理は自然科学にも有効な一般的科学の規準を適用すること以上に進んではならず、その発生源でもって明らかにされるものだ。
 共産党が誤謬に陥ることは、あり得ない。
 このような発生起源論は少なくとも、真理が一貫しており完全に明確だ、という長所をもつ。
 しかし、発生論的規準がどのようにして理論の知的自立性と結合されるのか、どこからその正しさを統御する規則が生じてくるのか、を批判理論から知ることはできない。なぜなら、批判理論は「実証主義」的規準を拒み、かつプロレタリアートとの自己一体視も拒否しているからだ。
 一方では、Horkheimer は、思考するのは人間であってエゴ(自我)や理性ではないというフォイエルバハ(Feurebach)の言明を繰り返す(「現在の哲学での合理性論争」1934年で)。
 そうすることで彼は、科学的手続に関する規準と科学で用いられる蓄積された観念はいずれも歴史の創造物であって実際的な必要性の所産だ、そして知識の内容はその発生起源と分離することができない-換言すれば、先験論的主体は存在しない-、ということを強調する。
 これにもとづけば、理論は「社会進歩」のためにあるならば「善」だまたは正しい、あるいは、知的な価値はその社会的機能によって明らかになる、ということになりそうに見える。
 他方で、しかし、この理論は現実<に対する>自立性を維持するものと想定されている。
 その理論の内容は、現存するある運動との何らかの一体視に由来するものであってはならず、社会階級は言うまでもなく、人間という種の観点からすらしても、実用主義的(pragmatistic)であってはならない。
 ゆえに、どのような意味で「真実だ」と主張しているのかは、明瞭ではない。現実をそのままに叙述するがゆえになのか、あるいは「人間の解放のために奉仕する」がゆえにか?
 Horkheimer が提示する最も明確な回答は、おそらく、つぎの文章のようなものだろう。
 「しかし、開かれた弁証法は真実の痕跡を失うことがない。
 人が自分の思考、あるいは他人の思考に限界や一方性のあることに気づくことは、知的な過程の重要な側面だ。
 ヘーゲルも唯物論者の彼の継承者も、批判的で相対主義的接近方法は知識の一部だということを正しく強調した。
 しかし、自分自身の確信は確かだとか肯定できるとか考えるためには、観念と客体の統合が達成された、あるいは思考は終点に到達することができる、と想定する必要はない。
 観察と推論、方法論的検討や歴史的出来事、全ての作業と政治的闘争、こうしたものから得られる結果は、我々が用いることのできる認識手法に耐えることができるならば〔この句のドイツ語原語は省略-試訳者〕、真実だ。」
 (「真実の問題について」同上、第一巻p.246.)
 この説明には不明瞭なところがない、というわけでは全くない。
 社会環境がどのようなものであれ、批判理論は最終的には経験的な正当性証明の規準に従うものであり、それに従ってその真偽が判断される、ということをかりに意味しているとすれば、認識論的には、この理論が「伝統的」と非難する諸理論と何ら異ならない。
 しかしながら、かりに何かそれ以上のことを、すなわち理論が真実であるためには経験上の吟味に耐え、かつ同様に「社会的に進歩的」でなければならない、ということを意味しているのだとすれば、Horkheimer は、二つの規準が衝突している場合にはどうすべきかを我々に語ることができない。
 彼はたんに、「前(supra)歴史的」なものではない真実や知識の社会的条件、あるいは観念とその客体の間の「社会的媒介項」と彼が称するもの、に関する一般論を繰り返しているにすぎない。 
 Horkheimer は、この理論は「静態的」でない、主体と客体のいずれも絶対化しない、等々と請け負う。
 全く明らかなのは、「批判理論」はルカチの党教条主義を拒み、正当性証明に関する経験的規準を承認することも一方では拒んで、理論としてのその地位を主張しようとしていることだ。
 言い換えると、批判理論は、それ自体の曖昧さのおかげで存立している。//
 (8)このように理解される批判理論は、明確なユートピアを構成することはない。
 Horkheimer の予言は、ありふれた一般論に限定されている。すなわち、普遍的な幸福と自由、自分の主人となる人間、利潤と搾取の廃棄、等々。
 「全てのもの」は変化しなければならない、社会改良ではなく社会変革の問題だ、と語るが、どのようにしてこれを行うのか、あるいは何が実際に生じるのだろうか、については語らない。
 プロレタリアートはもはや歴史の無謬の主体とは位置づけられない。その解放は依然として、この理論の目標であるけれども。
 しかしながら、この理論は一般的解放のための有効な梃子だと自らを主張しないがゆえに、思考の高次の様式であって人類の解放に寄与するだろうという確信だけを除いて、明瞭に残されているものは何もない。//
 (9)社会の選好と関心に関してHorkheimer が述べていることは、社会に関する多様な理論が用いる観念上の諸装置にすでに含まれていた。そして、確かに本当のことだが、彼の時代ですら新しくはなかった。
 しかし、社会科学は異なる利益と価値を反映する、ということは、Horkheimer がそう(ルカチ、コルシュおよびマルクスに従って)考えたと思われるように、経験的判断と評価的判断の相違は超越された(transcended)ということを意味していない。
 (10)「批判理論」は、このような意味で、プロレタリアートとの自己一体視を受け入れることなくして、真実に関する階級または党の規準を承認することなくして、マルクス主義を保持しようという一貫した試みだった。また、このようにマルクス主義を縮減すれば生じる困難さを、解消しようともしなかった。
 批判理論はマルクス主義の部分的な形態であり、それが無視したものを補充することがなかった。//
 ----
 第2節おわり。次節・第3節の表題は、<否定弁証法>。