レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版p.178-p.182。合冊本では、p.929-p.933.
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 何度も記したように、この著の邦訳書はない。ドイツでは1977-79年に、独訳書が刊行された(のちにpaperback 版となった)。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義④。
 (22)戦争後のしばらくの間フランスで甚大な成功をかち得たサルトル(Sartre)の実存主義哲学は、この当時の態様では、マルクス主義と全く相容れないものだった。
 サルトルは、自然という決定要因に支配された異質で緩慢な世界にいる、絶対的な自由の虚無(Vacuum、真空)が人間という存在だ、と主張した。
 この自由は、人間が逃れようとしてきた耐え難い重荷だが、誠実さ(good faith)と矛盾することなしには逃れることができないものだ。
 私の自由は絶対的で無制限だという事実こそが、私が言い訳すること(alibi)を全く不可能にし、自分が行う全てについて百パーセントの責任を私に負わせる。
 私の恒常的な自己予想は、そこにこの自由が提示されているのだが、時間を発生させるものだ。それは人間存在の本当の形態であり、自由のごとく我々の全てがもつ独自の属性だ。
 サルトルにとって、協同的かつ共同体的な時間のごときものは存在せず、自然の、希望のない、かつ抑圧的な、個人が絶えることなく自分を生み出すための不可避性(necessity=必然性)以外には、いかなる自由も存在しない。-この自己の生産は、神またはその他の超越的価値、歴史的伝統や同類の人間たち、によって助けられることのない過程だ。
 私は空虚な自由と純粋な否認性によって定義されているがゆえに、私自身の外部にある全ての存在は私の自由を制限しようとしているものだ、と私には思える。
 したがって、存在というまさにその本性によって、いわば存在論的に(ontologically)、人間関係は、他の人間存在を併合しようとする、まるで他者は物であるがごとき、敵対的な形態のみをとることができる。-このことは、全ての論脈に、そして、政治的支配のように、愛(love)にあてはまる。//
 (23)いかなる形態のものであれマルクス主義と、このような基本的考え方の間には、共通する基盤が存在していないことが明瞭だ。この基本的考え方は、人間の共同体または共有される時間という観念を、全て排除する。そして、生活の全体を、自分自身の虚無性(vacuity、真空性)を非合理的に追求することへと帰一させる。
 この点によって、フランスの共産主義知識人たちは、実存主義に対して激しい非難を投げつけた。
 他方で、サルトルは初期の段階から、労働者階級と被抑圧者一般を同一視しようとした。その結果として、サルトルの共産党との関係の特徴は、逡巡と不明瞭さになった。
 彼は実際に、共産党員たちとの一体感と彼らに対する激しい敵意との間で揺れ動いた。その複雑な過程を、ここで立ち入って叙述することはできない。
 しかしながら、彼の全ての段階で、「左翼」(Leftist)としての自分自身の名声を維持しようと努めた。そして、自分自身と彼の哲学を<格段に優れた(par excellence)>「左翼主義」を具現化したものだと示そうとすらした。
 つまるところは、共産党員たちを攻撃して彼らから罵倒を浴びせられたときですら、サルトルは、反動やブルジョアジーの勢力、あるいはアメリカ合衆国政府に対して、もっとはるかに激烈な攻撃をする立場をとった。
 サルトルが一体化したプロレタリアートの諸要求を共産党が代表していると考えることで、彼は一時的に政治的共産主義と同盟したばかりではなく、解放という人間の最良の希望だとして、スターリニズムの最終段階にあったソヴィエト同盟を称賛した。
 彼の政治的活動全体の価値が減少する理由は、影響力を何ら持たないという知識人には絶えられない事態の典型的状況に陥るのを怖れる、そういう気持ちにもとづいていることにあった。
 要するに、サルトルのイデオロギーは、「内部」に存在したいという充たされない野心のうちに抱かれた、政治的<不満(manqué)>のそれだった。//
 (24)一時期はサルトルと一緒に活動したメルロ=ポンティ(Merleau-Ponty)は、マルクス主義と共産主義に関して、最初からもっと懐疑的だった。彼の自由の理論は、虚無としての自由というサルトルの考え方よりもマルクス主義に近いものだったけれども。-この理論は、自由はつねに現実の状況によって決定され、克服する障壁をつうじてのみ存在する、というものだ。
 メルロ=ポンティは<人間中心主義とテロル(Humanisme et terreur)>(1947年)で、共産主義者のテロルとその歴史的正当化の可能性を論じ、我々は自分たちの行動の完全な意味を知ることはできない、全ての帰結をまだ知らないのだから、と主張した。その帰結がまさに「意味」の一部であって、否応なく我々の責任になるものだ、と。
 そのゆえに、歴史的過程とそこでの我々の役割は、不可避的に不明瞭で、不確実だ。
 また、その究極的効果が暴力を排除することにあるならば、暴力(violence)は歴史的に正当化されるかもしれない、ということになる。
 彼はしかし、このように寛容な暴力の承認について、いかなる規準も確定しなかった。
 時が経るにつれて、メルロ=ポンティはますます共産主義に対する批判を強めるに至った。//
 (25)西側ヨーロッパ諸国でのマルクス主義著作の様式と内容は、当然に、それぞれの異なる文化的伝統を反映した。
 フランスのマルクス主義は戯曲ふうに修辞的で滑らかな人間主義の語句に耽溺しがちで、革命的雄弁さをもって語った。
それは印象主義的で、論理的には杜撰だったけれども、文語的な(literary)観点からは有効だった。
 イギリスのマルクス主義は、何がしかの経験主義の伝統を維持した。すなわち、もっと現実的(down-to-earth)で、論理的議論に関心をもち、歴史にもっと根拠をおき、哲学的「歴史主義」(historicism)への傾斜が少なかった。
 イギリスでの共産主義はきわめて弱体で、労働者階級の中での大衆的支持を一度も獲得しなかった。
 しかし、他諸国でと同様に、共産主義は純粋に知的な運動ではなく、薄弱だったかもしれないにせよ、つねに労働組合との関係を維持した。
 多くの知識人たちが1930年代に共産党を通り過ぎ、別の者たちは、戦後もそうした。
 共産党の信条をもつマルクス主義哲学者の中に、モーリス・コーンフォース(Maurice Cornforth)とジョン・ルイス(John Lewis)がいた。
 前者は、<科学対観念論>(1946年)と題する、論理的経験主義と分析哲学に対する批判書を書いた。この書物で彼は、知に関するエンゲルス・レーニン理論を擁護し、「論理的原子論」、思考の経済の原理、哲学の言語分析学への矮小化を攻撃した。
 後者は、とりわけ、プラグマティズムを批判する書物を書いた。
 ベンジャミン・ファリントン(Benjamin Farrington)は、古代ギリシャの科学に関する書物など、戦後初期の時代に歴史に対する価値ある貢献をした。彼はこの書物で、技術をもつ現代国家へと哲学的諸教理を関係づけた。//
 (26)フランス・マルクス主義が人間主義的言い回しを強調し、イギリス・マルクス主義が経験的かつ理性主義的論拠を重視したのに対して、イタリアのマルクス主義は、その伝統に忠実に、「歴史主義」への注目を強調した。
 スターリニズムの最終時期ですら、イタリアのマルクス主義哲学はレーニン主義やスターリン主義の規準から遠く離れていた。
 しかしながら、イタリア共産党は、他諸国の同志たちと同様に国際的諸問題についてはソヴィエトの方針に従順だった。この党は、ファシズム瓦解のあとで、20年間の停滞と無気力状態からきわめてすみやかに復活していた。
 のちに1956年〔試訳者注-ハンガリー事件の年〕のあとで、Parnimo Togriatti(1893-1964)は、共産党指導者たちの中で最も「心を開いた」、モスクワから最も自立している人物だという名声を獲得することになった。しかし、このことをスターリン時代にまで遡らせることのできる根拠はない。
 Togriattiはこの当時は、ソヴィエトの政策の紆余曲折に、全て忠実に適応していた。
 しかしながら、彼は特段の困難なく、(共産党専門用語で「教条的」、「左翼主義」、「党派的」と表現された)厳格な孤立主義から、ゆより融通性があって効果的な「人民戦線」政策へと方向転換した。
 文化的諸問題について、イタリア共産党は一般に他のどの共産党よりも攻撃的に口汚く罵るということはなく、マルクス主義とイタリア独自の伝統の連環を強調し、伝統的にある反動的要素ではなく「積極的」要素を重視して宣伝した。
 グラムシ (Gramsci)が1947-49年に公刊した<獄中からのノート(note)>はイタリア共産主義の歴史上の画期的なもの(milestone)で、レーニン主義の教典が許した以上にはるかに柔軟な範型のマルクス主義を党知識人が受容することを可能にした、そういう発想方法の根源だった。
 1950年代初期の傑出した著述者は、Galvano della Volpe(1896-1968)とAntonio Banfi (1886-1957)だった。彼らは人生のかなり遅くにマルクス主義者になり、かつ共産党員となって、普遍的な人間中心主義についてのイタリア的精神でもって、新しい信条を解釈した。
Della Volpe は、Eckhart に関する価値ある書物を執筆し、認識論に関する<Logica come scienza positiva>(1950年、ここでの「論理」は知に関する理論一般を意味する)と題する書物を書いた。彼はこれによって、マルクス主義を反ヘーゲルの立場および経験論者の用語法で解釈した。
 この解釈にもとづくと、マルクス主義は世界に関する科学的説明というほどのものではなく、さらに形而上学の体系以下のものだ。こうしたものではなくて、人間の自己創造の今日的段階を歴史的に表現するものであり、人間の生(life)の条件を統御しようとする実践的闘いを明瞭に叙述しようとするものだ。//
 (27)要約するとすれば、つぎのように言えるかもしれない。すなわち、西側ヨーロッパでのスターリニズムの最後の時代は、理論書および歴史書に関するかぎりで全体として無意味なものだったわけではない。しかし、何らかの価値のある数少ない書物は、組織された政治的瞞着の洪水の中で溺れ死んでいった。これについて非難されるべき責任は、何の例外もなく世界中の全ての共産主義知識人たちにある。(なお、何らかの価値のある数少ない書物も大部分は、今日ではそれ自体を目的として読む価値はない。)
 この時代に共産主義運動に加わったフランスまたはイタリアの著作者たちは、一般的に言ってソヴィエト体制や世界革命の展望にはほとんど関心がなかった。彼らが党を支持した理由の一部は、共産党が熱心に彼らの要求と利益を語ったことにあった。
 しかしながら、彼らはマルクス主義と共産主義を普遍的な教理として心に抱いていた一方で、運動が完全にモスクワによって支配されていることや、ソヴィエトの政治目的に従属していることに、十分に気づいていた。
 それにもかかわらず、無批判に、彼らは、ソヴィエトの社会体制の真の(true)性格に光を当てる全ての情報を拒絶した(そうした情報は西側の書物から、また直接に東ヨーロッパ諸国から、容易に入手可能だった)。
 彼らは、状況に応じてつねに、言葉と行為でもって、また共産党の党員であることをもって、この体制を賛美した。
 彼ら全員が、茶番劇の「平和運動」に参加した。この標語のごときオーウェル的表題は、冷戦時代のソヴィエト帝国主義の重要な道具だった。
 彼ら全員が、全く平気で、アメリカは朝鮮半島で細菌戦争を行っているという非難のごとき、狂信的な捏造事を信じ込んだ。
 ソヴィエト体制の完璧さに疑いを差し挟んだ者は誰もが、「結局は」(after all)、共産主義がファシズムに対抗する唯一の、または最も有効な防塞だ、と自分に言い聞かせた。そして、そのゆえに共産主義を百パーセント、無条件で受容しなければならない、と。
 このような自発的な自己欺瞞の心理的な動機は、さまざまだった。
 とりわけあった心理的動機は、普遍的な人間的友愛という古来からの夢を世界の誰かが具現すると信じたい、というきわめて切実な欲求だった。
 「歴史の進歩」に関する知識人たちの幻想。
 多くの西ヨーロッパ諸国では大戦間に完全に地に落ちた、民主主義的「既得権益層」(establishment)に対する侮蔑意識。
 歴史や政治を含む普遍世界(the universe)の秘密をこじ開ける、そういう万能の鍵(master key)を求める切望感。
 歴史という波の頂上に、換言すると、勝利する側に、立っていたいという野心。
 知識人たちはとくに陥りがちな、現実的影響力(force)への信仰。
 彼らが考えていたように現世界で剥奪され迫害されている人々と同じ防塞の中にいると願望しつつ、共産主義〔共産党〕知識人たちは、最も抑圧的な体制の預言者となり、そして、権力を拡張するために用いる、巨大で効率的な虚偽(lies)の装置のための、現存するかつ自発的な工作員(agents)となった。//
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 第13節、および第四章が終わり。
 次章以降の表題は、<トロツキー>、<アントニオ・グラムシ>、<ジョルジュ・ルカチ>、<カール・コルシュ>、<ルシアン・ゴルトマン>、<フランクフルト学派と「批判理論」>、……。