レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。第三巻分冊版p.170-。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。
 第4章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化。
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 第13節・スターリニズムの最終段階でのヨーロッパ・マルクス主義②。
 (7)武装侵攻以外の全ての形態での圧力が激烈に加えられたにもかかわらず、ユーゴスラヴィア共産党はその自立性を維持し、スターリン主義共産主義体制に戦争以降で最初の実質的な亀裂をもたらした。
 分裂後すぐに、ユーゴの党イデオロギーは、共産主義諸党は自立していなければならないと強調し、ソヴィエト帝国主義を非難する点でのみ、ソヴィエトと異なった。
 マルクス=レーニン主義の一般的原理はユーゴスラヴィアに力を持って残ったままであり、その点ではソヴィエト同盟で観察されたものと異なってはいなかった。
 しかしながら、やがて政治的教理の基礎は修正主義へと進み、ユーゴスラヴィアは社会主義社会についての自分自身のモデルを生み出し始めた。それは、重要な態様でロシアのそれとは異なっていた。
 (8)この頃までのコミンフォルムは、反ユーゴスラヴィア情報宣伝活動の道具とほとんど同じだった。その<存在理由>は、1955年春にフルシチョフ(Khrushchev)がベオグラードと和解しようと決定したときに消滅した。
 だが現実には、コミンフォルムは1956年4月までは解体されなかった。
 知られているかぎりで、そのとき以降、ソヴィエトの党は国際共産主義の組織的形態を設立しようとはせず、可能なかぎり、個別の諸党に対して直接的な統制を加えることによって闘い、ときおりは、世界的問題に関する決議を採択するための会議を呼びかけた。
 しかしながら、これらは従前に比べると成功しなかった。努力したにもかかわらず、ソヴィエトの指導者たちは、かつてユーゴスラヴィアについて行ったのと同様に中国共産党からの国際的非難を受けないようにすることが、うまくはできなかった。
 (9)スターリン支配の最後の年は、共産主義世界全体での、教理のソヴィエト化(Sovietization)を特徴とした。
 このことの影響はブロック内の国々によって異なった。しかし、圧力と趨勢は、一般的に言って同一だった。
 (10)以前の章で述べたように、ポーランドのマルクス主義はそれ自体の伝統をもち、ロシアのそれから全く自立していた。
 この伝統には単一の正統な形態はなく、厳密な党イデオロギーもなかった。
 ポーランドの知的情景の中では、マルクス主義はたんに一つの傾向にすぎず、きわめて重要なものでもなかった。
しかしながら、型にはまった教理を主張するのではなかったが、マルクス主義の諸範疇をその研究に利用した歴史学者、社会学者、および経済学者たちがいた。
 とりわけLudwik Krzywicki とStefan Czarnowski (1879-1937)だ。後の人物は傑出した社会学者、宗教歴史学者で、その晩年には、ある範囲で、マルクス主義へと接近した。
 (彼は、プロレタリア文化に関するある小論文で、新しい精神性と新しい類型の芸術の起源を労働者階級の状況と関連させて分析した。)
1945年の後の数年のうちに、この伝統が復活した。新しいマルクス主義の思考は、古いそれと同じく、特定の厳格な方向に何ら限定されておらず、むしろ、合理主義や文化的諸現象を社会紛争と関連させて分析する習慣の背景であるように見えた。
 こうした緩やかで、聖典化されないマルクス主義は、月刊誌<Mysl Wspolczesna(現代思想)>や週刊誌<Kuźnica(前進)>などの雑誌で表現されていた。
 1945-50年に、諸大学が戦前の方針のもとで再設立された。たいていは同じ教育スタッフが担当した。
 教育の分野でのイデオロギー的な粛清(purge)は、まだ存在しなかった。
 この時期に出版された多数の科学書や科学雑誌は、マルクス主義とは何の関係もなかった。
 体制側は「プロレタリアート独裁」とはまだ自称しなかった。そして、党のイデオロギーは共産主義の主題を強調せず、むしろ、愛国主義、民族主義または反ドイツの主題を重視した。
 ソヴィエト類型のマルクス主義は、この時期の背景には多く見られた。
 その主要な語り手は、Adam Schaff だった。この人物は、レーニン=スターリン主義の範型の弁証法的唯物論や歴史的唯物論について解説する書物や手引き書を執筆した。但し、ソヴィエトにいる同種の者たちのものほどに幼稚ではなかった。
 最悪の時代であってすら、ポーランドのマルクス主義はソヴィエトの水準にまで低落することがなかった、と一般的に言ってよい。
 ロシアの範型によって浸食されたにもかかわらず、ポーランド・マルクス主義は、ある程度の独創性と、理性的な思考に対する内気な敬意を保った。//
 (11)1945-49年に、政治と警察による抑圧がより強くなった。
 戦争後のおよそ二年の間、ドイツの侵略者と闘った、そしてロシアによって押しつけられた新しい体制に屈服するのを拒む、地下軍隊との武装衝突があった。
 処刑と頻繁な流血は、武装地下軍団や戦時中の政治組織に対する闘いの特質だった。農民政党やその他の合法的な非共産主義集団に対する闘いについても同様だったが。
 にもかかわらず、この時期の文化的圧力は、純粋に政治的な問題についてに限られていた。
 マルクス主義はまだ、哲学または社会科学での拘束的な標準たる地位を占めていなかった。かつまた、芸術や文学での「社会主義リアリズム」は、知られていなかった。//
 (12)1948-49年、ポーランドの党は「右翼民族主義者」を粛清した。
 党指導部は交替し、政治生活はロシアの指針に適合するようになり、農村の集団化が決定された(但し、いかなる程度にでも実施されなかった)。そして、体制はプロレタリアート独裁であることが、公式に宣言された。
 1949-50年、政治的な浄化のあとに続いたのは、文化のソヴィエト化だった。
 多数の学術および文化に関する雑誌が閉刊され、それらには新しい編集者が着任した。
 1950年代の初めに、ある範囲の「ブルジョア」教授たちが解任された。しかし、その数は大して多くはなかった。そして、教育や出版はすることができなかったけれども、給与を貰って、状況が苛酷でなくなった数年のちには出版することとなった書物を執筆していた。
 哲学学部の一定範囲の教授たちには職が残されたが、論理の教育に限定するように命じられた。
 その他の者たちには、科学アカデミーの中に再び職が与えられた。そこで彼らは、学生たちとの接触をしなかった。
 社会科学部門のカリキュラムは変更され、社会学の講座は歴史的唯物論の講座に替えられた。
 党の特別の研究所が、イデオロギー的に微妙な哲学、経済学および歴史学の部門について、「ブルジョア」教授たちに代わって幹部たちを研修するために、設置された。
 哲学については、マルクス主義的「攻撃」の手段は雑誌<Mysl Filozoficzna(哲学的思考)>だった。
 マルクス主義哲学者たちは一定期間、非マルクス主義の伝統と、とくに分析哲学のLwow-Warsaw 学派と闘うことに傾注した。Kotarbinski、Ajdukiewicz、Stanislaw Ossowski、Maria Ossowska、等々だ。
 多数の書物と論文が、上の学派の考え方の多様な論点を批判した。
 もう一つの攻撃対象は、トーマス主義(Thomism) だった。これは、Lublin カトリック大学を中心として強い伝統を持っていた。
 (この大学は-社会主義国家の歴史上例のないことだが-抑圧されたことがなく、様々な圧力と干渉の手段が講じられたにもかかわらず、今日まで機能している。)
 老若両世代の多数のマルクス主義者たち-Adam Schaff、Bronislaw Baczko、Tadeusz Kroński、Helena Eilstein、Wladyslaw Krajewski-が、この闘いに参加した。この著の執筆者〔L・コワコフスキ〕もそうだったが、この事実が誇りの大元だとは考えていない。
研究のもう一つの主題は、過去数十年間のポーランド文化に対するマルクス主義の寄与だった。//
 (13)この時代の文化的進展について完全に論評するのは、まだ時機が早すぎる。しかし、強要された「マルクス化(Marxification)」には、ある程度の埋め合わせ的な特徴があった。
知的生活は確かに、貧困でかつ不毛なものになった。しかし、マルクス主義の普及は、それが伴った強制にもかかわらず、良いことももたらした。
 破壊的で反啓蒙主義的な部分もあったが、本質的に価値があり、多かれ少なかれ知的な世界的相続財産たる性格をもつ特質を、それは持ち込んだ。
 例えば、文化的諸現象を社会的対立の側面だと把握したり、歴史的進展の経済的および技術的背景を強調したりする習慣だ。概して言うと、諸現象を、幅広い歴史的な趨勢との脈絡で研究する、ということだ。
 人文諸学問の新しい方向のある程度は、イデオロギー的な契機をもつものではあったが、例えばポーランドの哲学や社会思想の歴史に関して、価値ある結果を生み出した。
 哲学上の古典の翻訳書の出版やポーランドの社会思想、哲学思想、宗教思想に関する標準的著作物の再出版というかたちで、有意味な仕事がなされた。//
 (14)スターリン主義の時代には、国家は文化に対して全く寛容に助成金を支給した。その結果として、大量のがらくた作品が生産されたが、しかし、永続的価値をもつものも多く生まれた。
 一般的な教育水準と大学への入学者数は、戦前と比べて顕著に上昇した。
 破壊的だったのはマルクス主義での一般的教育ではなく、強制と政治的欺瞞の道具としてそれが用いられたことだった。
 初歩的で型に嵌まった形態だったとしてすら、マルクス主義は、その伝統の一部である有益で理性的な思考を植え付けることに、ある程度はなおも貢献した。
 しかし、そうした思考方法の種子は、マルクス主義の諸教理の抑圧的な利用が緩和されていてのみ、成長することができた。//
 (15)概していえば、厳密な意味でのスターリニズムは、ポーランドの文化にとって、ブロックの他諸国のそれに対するほどには有害ではなかった。そして、元に戻せない程度は、より低かった。
 このことには、いくつかの理由があった。
 まず、たいていは受動的だったが自発的な文化的抵抗と、ロシアに由来するもの全てに対する深く根ざした不信または敵意があった。
 スターリニズム文化の押し付けについては、一定の気乗り薄さ、あるいは首尾一貫性の欠如もあった。すなわち、マルクス主義が人文諸科学を絶対的に独占することは決してなかった。また、ソヴィエト的様式で生物学に圧力を加えようとする試みは貧弱だったし、効果もなかった。
 「社会主義リアリズム」の運動はある程度の釈明的な無価値のものを生んだが、文学や芸術を破壊することはなかった。
 高等教育の諸施設での迫害(purge)は、比較的に小規模だった。
 図書館で禁書とされた書物の割合は、他のどの諸国よりも小さかった。
 さらに加えて、ポーランドでの文化的スターリニズムは、比較的に短命だった。
 それは本気で1949-50年に始まったが、1954-55年にはすでに衰亡しつつあった。
 実証するのは困難ではあるが、もう一つの緩和要因が働いていた、と言うことができる。すなわち、戦前のポーランド共産党を破壊してその指導者たちを殺戮したスターリンに対する、多数の老練共産主義者たちの反感だ。//
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 ③へとつづく。