レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気③。合冊版、p.828~p.831。
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 (11)Pashukanis の理論はじつにマルクスの教えに深く根ざしており、当時にルカチ(Lukács)やコルシュ(Korsch)によって進められたマルクスの解釈と合致していた。
 他方で、Renner やカウツキーのような社会民主主義者は、法を個人間の関係を規律するための永続的な道具だと見なした。
 物象化を分析したルカチの議論によれば、法は商品交換が支配する社会での人間関係を具象化して物神崇拝的な性格のものにする形式だということは、マルクスの社会哲学から帰結する。
 社会生活が介在者のいない形態に戻るときには、人間は、抽象的な法的規則を通じて彼らの関係を管理することを強いられないだろうし、あるいはそうできすらする。
 Pashukanis が強調したように、法的な協同は、抽象的な 法的範疇へと個人を変化させる。
 従って、法は、ブルジョア社会の一側面であり、そこでは全ての個人的協同関係は具象化した形態をとり、諸個人は、非人間的な力のたんなる操り人形だ。-経済過程における交換価値のそれら、あるいは政治社会における抽象的な法的規則。
 (12)マルクス主義から同様の結論が、1920年代のもう一人の法理論家、Petr I. Stuchka によって導かれた。この人物は、法はそのようなものとして階級闘争の道具であり、ゆえに階級対立が継続する間は存在するに違いない、と主張した。
 社会主義社会では、法は敵対階級が抵抗するのを抑圧するための道具であり、階級なき社会ではそれを必要とすることはもうあり得ない。
 コミンテルンでラトヴィアを代表したStuchka は、長年の間、ソヴィエト秘密警察の幹部だった。//
 (13)党の歴史よりも政治的敏感度が低い文学やその他の分野では、国家や党指導者たちは多くの場合、体制に対する一般的な忠実性の範囲内である程度の多元主義を認めることに痛みを感じなかった。
 レーニンもトロツキーも、ブハーリンも、文学に対して拘束着(strait-jacket)を課そうとはしなかった。
 レーニンとトロツキーは古い様式のものが個人的な好みで、<アヴァン・ギャルド>文学とかプロレタリア文学(Proletkult)とかを読まなかった。
 ブハーリンは上の後者に共感を寄せたが、文学を話題にしたいくつかの記事を執筆したトロツキーは、「プロレタリアートの文化」ではなく、かつ決してそうなり得ないと、にべもなく述べた。
 トロツキーは、つぎのように論じた。プロレタリアートは、教育を受けていないために、現在ではいかなる文化も創出することができない。将来についても、社会主義社会はいかなる類の階級文化も創出しないだろう。しかし、人間の文化全体を新しいレベルにまで引き上げはするだろう。
 プロレタリアートの独裁は、輝かしい階級なき社会が始まるまでの短い過渡的な段階にすぎない。-その社会は、全ての者がアリストテレス、ゲーテ、あるいはマルクスと知的に同等になることのできる、超人たち(supermen)の社会だ。
 トロツキーの考えでは、文学様式のうちのいずれか特定のものを崇めたり、内容と関係なく創作物に対して進歩的とか反動的だとかのレッテルを貼るのは、間違いだった。
 (14)芸術や文学に様式化された型をはめたこと以降の推移は、全体主義の発展の自然な結果だった。すなわち、それは国家、党、そしてスターリンを賛美するメディアへと移行していった。
しかし、創造的なはずの知識人界、少なくともその大部分は、そのように推移するのををかなりの程度、助けた。
 多様な文学および芸術の派が競争し合っていて、体制に対する一般的な忠実性を守るという条件のもとで許容されていた間は、ほとんど誰も、好敵たちに対抗するために党の支援を依頼することなどしなかった。このことはとくに、文学界と演劇界に当てはまる。
 かくして、自分たちの考え方が独占するのを欲した文筆家等は、つぎのような毒に満ちた原理を受容し、かつ助長した。すなわち、人文や芸術のあれこれの様式を許容したり禁止したりするのは党および国家当局の権限だ、という根本的考え方を。
 ソヴィエト文化が破壊された一因は、文化界の代表者たち自身にあった。
 しかしながら、例外もあった。
 例えば、「形式主義(formalists)」派による文学批判は1920年代に盛んになり、重要な人間主義的動向として敬意が払われた。
 これは、十年間の最後には非難された。この派の若干の者たちは政治的圧力と警察による制裁に屈することを拒んだけれども、結局は沈黙を強いられなければならなかった。
 つぎのことは、記しておくに値する。このような頑強さの結果として、形式主義派は地下の動向として存在し続けた。そして、25年後のスターリン死後の部分的な緩和のときに、力強く純粋な知識人の運動だったとして、再評価された。もちろん、そうした間に、この派の指導者たちの何人かは、病気その他の理由で死んでいたのだけれども。//
 (15)1920年代は、「新しいプロレタリアート道徳」の時代でもあった。-これは計画的または自発的な多数の変化を表象する用語だったが、全てが必ずしも同一の方向にあったのではなかった。
 他方で、「ブルジョア的偏見」に対する継続的な闘いがあった。
 これは、とくにマルクス主義的というのではなく、古いロシアの革命的伝統を反映していた。
 これは例えば、家族に関する法制度の緩和に見られた。婚姻と離婚はゴム印を捺す作業となり、嫡出子と非嫡出子の差別は廃止され、堕胎に対していかなる制限も課されなくなった。
 性的自由は、革命家たちの間の決まり事だった。Alexandra Kollontay が長らく理論の問題として擁護したように、また、その時代のソヴィエトの小説で見られ得るだろうように。
 政府は、親たちの影響力を弱めて教育の国家独占を容易にすることに役立つかぎりで、このような変化に関心をもった。
 公的な宣伝活動(propaganda)によって、幼児である子どもたちについてすら、あらゆる形態の集団教育が奨励された。そして、家族の絆はしばしば、たんなるもう一つの「ブルジョア的残存物」を意味するものとされた。
 子どもたちは、彼らの両親をスパイし、両親に反対することでも知らせるように教え込まれた。そして、そのように行ったときには、褒美が与えられた。
 しかしながら、この点に関する公的な見解は、授業や軍隊のような、生活の別の側面でのように、のちには著しく変化した。
 国家が個人に対して絶対的に支配することを助けるもの以外は、革命の初期の時代に説かれた急進的で因襲打破的な考え方の中から放擲された。
 それ以来、集団教育および両親の権威を最小限度にまで減らそうという理念は支配し続けた。しかし、主導性と自立性を促進すべく立案された「進歩的な」教育方法には終わりが告げられた。
 厳格な規律が再び原則となった。この点でソヴィエトの学校がロシア帝政時代のそれと異なっていたのは、思想教化(indoctrination)の強調がきわめて増大したことだけだった。
 そのうちに、厳格な性的倫理が、好ましいものとして復活した。
 最初のスローガンはもちろん、軍隊の民主化に関係するものだった。
 トロツキーは内戦の時期に、有能な軍隊には絶対的な紀律、厳格な階層制、職業的な将校団が必要であることに十分に気づいていた。しかし、兄弟愛、平等および革命的熱情にもとづく人民の軍隊という夢は、ユートピア的なものだとすみやかに認めざるを得なかった。//
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 ④へとつづく。