レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳1978年、合冊版2004年)の試訳のつづき。
 前回に作者・文筆家として名が挙げられていたBoris Pasternak (B・パステルナーク)はのちにその小説・ドクトル・ジバゴがノーベル文学賞を授与され(本人は辞退)、その小説は二度にわたつて映像化もされた。1965年(ラーラ役/ジュリー・クリスティ)、2002年(同/キーラ・ナイトリィ)。
 この欄で記したように(2017/05/18=No.1548)、この小説の「10月革命」以降の背景は最後の一瞬を除けばレーニン時代であり、映像化されている伝染病蔓延も戦闘も、ジバゴの友人(ラーラの公式の夫)のボルシェヴィキ(共産党)入党と悲惨な末路も、スターリンではなくて、レーニンの時代のことだ。
 レーニンが<市場経済から社会主義へ>の途を確立したと日本共産党・不破哲三が「美しく」いう1921年にあった飢餓も詳しくないが描写されている。まさにその1921年夏の<人肉喰いも見られた饑饉>の様相は、リチャード・パイプス(Richard Pipes)・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994年)の<ネップ>に関する章の中で、生々しく歴史叙述されている(すでにこの欄で試訳を紹介したー2017/04/24-25、№1515-1516)。
 今回に下に出てくるPashukanis (パシュカーニス・法の一般理論とマルクス主義には邦訳書が古くからあった(第一版/日本評論新社、1958年、第二版/日本評論社、1986年、訳・稲子恒夫)。
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 第三巻・第二章/1920年代のソヴィエト・マルクス主義の論争。
 第1節・知的および政治的な雰囲気②。
合冊版、p.826~p.828。
 (5)新体制は識字能力を高め、教育を促進すべく多大の努力をした。
 学校はすみやかにイデオロギー的教化のために用いられ、教育制度全体がきわめて膨大なものになった。
 大学があちこちに設立されたが、多くは長く続かなかった。そのことは、つぎの数字が示している。
 戦争の前、ロシアには97の高等教育の場があった。1922年には、278になった。しかし、1926年に再びそのほとんど半分(138)に減った。
 同時に、「労働者学校(Workers' Faculties、rabfaki)」が創立され、労働者の高等教育を準備する速成課程を提供した。
 もともとは、ルナチャルスキのもとでのソヴィエトの文化政策は、限定された目的で満足するものだった。
 「ブルジョア」的な全ての研究者や教師を学問的諸団体から一斉に排除するのは、事実上は学習と教育を終焉させることになっただろうので、不可能だった。
 大学は最初から、アカデミーや研究所よりも強い政治的圧力に服しており、その当時でもまだ変わりはなかった。
 当然に、青年の教育に従事する団体に対しては、より緩やかな統制が行われた。
 1920年代に自然科学アカデミーは相当の範囲の自治力を維持していた。一方、大学は、早い時期にそれを失い、大学を管理する団体は教育人民委員部の代表者と労働者学校出身の党活動家で充たされていた。
 教授職は学術上の資格なしで政治的に信頼できる人物に配分され、学生の入学は「ブルジョア」の申請者、すなわち従前のインテリ層または中産階級の子女たちを排除するために、階級という規準(criteria)に従属した。
 公正で可変的なカリキュラムをもつ「リベラルな」大学という古い考え方とは反対の立場にある、「職業教育」に重点が置かれた。
 その目的は、古い意味でのインテリ層を生み出すのを阻止することだった。古い意味でのインテリ層とは、職業について熟練することだけではなくて、視野を広げ、全分野の文化を獲得し、一般的な諸論点に関する自分たち自身の意見を形成することを望む者たちのことだった。
 今日でも有効に維持されているこの原理的考え方は、初期に導入された。しかしながら、政治的圧力の強さは、多様な諸分野ごとに違っていた。
 自然科学の内容に関するかぎりは、最初は実際には強制(coercion)はなかった。
 人文社会科学の分野では、その中のイデオロギー上で敏感な分野で、すなわち、哲学、社会学、法および近現代史について、強制が最も厳しかった。
古代の世界、Byzantium、あるいは旧ロシアの歴史に関する非マルクス主義者の著作は、1920年代にはまだ出版が許されていた。//
 (6)ソヴィエト国家の中の非ロシア人に関しては、彼らの「自己決定権」はすぐに、レーニンが予告したようにたんなる一片の紙切れであることが判明していたが、彼らの母国語を媒介として、大学教育の利益を享受した。そして、ロシア化は、最初は重要な要素ではなかった。
 要するに、教育の一般的レベルは相当に劣悪なものだったけれども、新体制は、一般的に接近することの可能な学校制度を設立することに、ロシアの歴史上で初めて成功した。//
 (7)ソヴィエト権力の最初の10年間、諸大学は古いタイプのアカデミーにきわめて大きな影響を受けることとなった。いくつかの学部ですら-とくに、歴史、哲学および法の学部は、完全に「改良」されるか、閉鎖された。
 新しい教師階層を形成し、正統的な学習の伝搬を促進するため、当局は、党を基礎にした二つの研究施設を設立した。すなわち、大学での古いインテリ層の後継者を養成するための「赤色教授(Red Professors)」研究所(1921年)、そして初期の頃には、モスクワの共産主義アカデミー(Commuist Academy)。
 これら両機関はともに権力にあった時代のブハーリンによって支援され、「左翼」または「右翼」偏向主義という理由でしばしば浄化(purge)された。
これら両機関はやがて、党が学術上の全ての団体を十分に統制し、信頼できるスタッフで充足させる特別の訓練機関はもはや必要がなくなったときに、解体させられた。
 この時期にもう一つ生み出されたのはマルクス・エンゲルス研究所で、これは共産主義の歴史を研究し、マルクスとエンゲルスの諸著作の第一級の厳密な校訂版(M.E.G.A.版)を出版し始めた。
 その所長だった D. B. Ryazanov は、実際上は全ての純粋なマルクス主義知識人と同じく、1930年代にその職を解任された。そして、おそらくは粛清(purge)の犠牲者となった。彼は1938年にSaratov で自然の死を迎えたと、ある範囲の人々は言うけれども。
 (8)1920年代の主要なマルクス主義歴史家は、すぐれた学者でブハーリンの友人のMikhail N. Pokrovsky だった。
 彼は数年間、ルナチャルスキーのもとで教育人民委員代行で、赤色教授研究所の初代所長だった。
マルクス主義を用いて歴史を教え、詳細に分析すればマルクス主義の一般的議論が不可避的に確認されることを示そうとした。技術の決定的な役割と階級闘争、歴史過程での個人の副次的な重要性、全ての国家は根本的には同じ進化の過程を通り抜けるという教理。
 Pokrovsky は、ロシアの歴史を執筆し、レーニンに高く評価された。そして、大粛清の前の1932年に死ぬという好運に恵まれた。
 彼の見解はのちに不正確だとの烙印を押され、例えば歴史は過去に投影された政治にすぎないというしばしば引用された言術に見られるように、歴史科学の「客観性」を否認するものだとして非難された。
 しかしながら、彼は、「科学的な客観性」を主唱する党学者と違って、純粋な歴史家であり、良心的に証拠を分別する人物だった。
 彼とその学派に対する非難は主として、国家イデオロギーでのナショナリズムの影響の増大や、歴史に関する至高の権威としてのスターリン崇拝(cult)に関係していた。
 Pokrovskyには「愛国主義の欠如」があり、その研究はレーニンやスターリンの役割を低く評価した、とされた。
 こうした責任追及は、Pokrovsky がのちの年代には礼式(de rigueur)になったようには帝政ロシアの打倒を称賛せず、ロシア人民の美徳と一般的な優越性を称揚しなかったかぎりでは正しい(true)。//
 (9)党の歴史は当然に、全くの最初から厳格な統制に従属した。
 にもかかわらず、多年にわたって、単一の真正な見方というのはなかった。じつに1938年の<ソ連共産党史〔Short Course〕>までは、なかった。それまでは、分派闘争が継続し、各派は自分たちに最も都合のよい光に照らして党の歴史を語った。
 トロツキーは革命の見方の一つの範型を提示し、ジノヴィエフは別のそれを示した。
 多様な手引書が、出版された。もちろん全てを党の活動家や歴史家が命令のもとで書いていたけれども(例えば、A. S. Bubnov、V. I. Nevsky、N. N. Popov)、それらの内容は厳密には同一ではなかった。
 しばらくの間、最も権威ある見方だとされたのはE. Yaroslavsky のもので、1923年に最初に出版され、指導者間での権力の転移に合致するようにしばしば修正された。
 最後にはそれは、Yaroslavsky が編集者として行った集団的著作に置き換えられた。しかし、彼のそうした努力の全てにもかかわらず、「致命的な誤り」がある、すなわちスターリンを科学的に賛美していない、と非難されることとなった。
 実際、党の歴史は、他のいかなる学習分野にもないほどに、初期にすでに政治的な道具の位置をもつものへと貶められた。すなわち、最初から、党史に関する手引書〔manuals〕は、自己賞賛のそれに他ならなかった。
 それにもかかわらず、1920年代には、主としては回想録や専門雑誌への寄稿文のかたちで、この分野についての価値ある資料も公刊されていた。//
 (10)1920年代の法および国制理論に関する最もよく知られた専門家は、Yevgeny B. Pashukanis (1890-1938)だった。この人物は、多数の者たちと同様に大粛清のときに突然に死んだ。
 彼は、共産主義アカデミーでの法学研究部門の長だった。そして、その<法の一般理論とマルクス主義>(ドイツ語訳書で1929年刊)は、この時期のソヴィエト・イデオロギーの典型的なものだと見なされた。
 彼の議論は、法的規範の個別の変化にのみあるのではなかった。法それ自体の態様は、すなわち全体としての法現象は、物神主義的(fetishistic)な社会関係の産物であり、ゆえに、それの発展形態において、商業生産の時代を歴史的に表現したものだ、とした。
 法は、取引を規律する道具として生み出され、そのあとで他の類型の個人的関係へと拡張された。
 したがって、法は共産主義社会において国家や他の商品物神崇拝の産物と同じように消滅するはずだと考えるのは、マルクス主義と合致している。
 今日に力のあるソヴィエトの法は、まさにその存在自体で、階級がまだ廃棄されておらず資本主義の残存物が当然にまだ現にある、そういう過渡的な時代に我々がいることを示している。
共産主義社会に特有の法の形態のごときものは存在しない。その社会での個人的関係は、法的な範疇によって考察されることはないだろうからだ。//
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 ③へとつづく。