Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (ニューヨーク、1995)、第5章の試訳のつづき。
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 第3節・ナツィの反ユダヤ主義③。
 
これら国外移住者(emigre)の中で最も悪名高いのは、ドイツ系出自のロシア将校、F・V・ヴィンベルク(Vinberg)だった。この人物のユダヤ人に対する強迫観念は、病的な程度にあった。(48)
 彼はロシア革命をユダヤ人人の、かつユダヤ人だけによる手仕事だと見なした。その出版物の一つの中に彼は、ほとんど全てはユダヤ人だと言われているとする、間違ったソヴィエト将官のリストを載せた。(49)
このような見方はたちまちにドイツの右翼グループに受け容れられた。彼らは、ドイツの敗北という苦渋をなめ、共産主義者の反逆に怯えていた。
 悪名高いユダヤ恐怖症のドイツ人と一緒に、<議定書>の最初の翻訳書をドイツで発行したのは、ヴィンベルクだった。
 1920年1月に発刊され、すぐに人気を博した。
 のちの数年の間にドイツには、数十万冊のこの本が溢れた。
ノーマン・コーンは、ヒトラーが権力を奪うまでにドイツで少なくと<も28版までが流通していた、と見積もる。(50)
 ほどなく、翻訳書がスウェーデン語、英語、フランス語、ポーランド語で出版され、その他の外国語版が続いた。
 1920年代に、<議定書>は、国際的なベスト・セラー本になった。//
 <議定書>のメッセージにとくに敏感だったのは、駆け出したばかりのドイツ国家社会主義党だった。この党は1919年の最初から病的な反ユダヤ主義を表明していたが、そのための理論的根拠を欠いていた。
 1919年に発表された最も初期のナツィ(Nazi)の綱領は、ドイツの敵として、第一にユダヤ民族、第二にベルサイユ条約、第三にマルクス主義者を掲げた。このマルクス主義者は共産主義者ではなく社会民主党を意味しており、ナツィス(Nazis)は、共産党とは友好的な接触を保っていた。(51)
 ユダヤと共産主義との連結は、<議定書>の助けで確立された。これがヒトラーの注目を惹いたのは、アルフレッド・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)による、と言われている。
 ロシアで建築設計を勉強したバルト系ドイツ人の一人は、ロシアの旅券を持ち、ドイツ語よりも流暢にロシア語を話した。このローゼンベルクは、ヴィンベルクの考え方を支持するように変わり、それをナツィの運動へと接ぎ木した。そして彼は、ナツィ運動の主なイデオロギストとなった。
 ヴィンベルクによって彼は、ロシア革命はユダヤ民族が世界制覇をするために設計したものだった、と確信した。
 <議定書>は、未来の総統(Fuehrer)に対して圧倒的な印象を与えた。
 ヒトラーは、初期の同僚だったヘルマン・ラウシュニンク(Hermann Rauschning)に、こう語った。
 『「シオン賢者の議定書」を読み終わった。-全く唖然とした。敵が秘密的なこと、そして、いたる所にいること!
 私はすぐに、我々はこれを真似なければならないと分かった。-もちろん、我々の方法で。』(52)
 ラウシュニンクによると、<議定書>は、政治的な思いつき(inspiration)をする主要な情報源としてヒトラーに役立った。(53)
 こうしてヒトラーは、世界征服のためにユダヤ人の戦略に関する本当ではない手引き書を利用した。ユダヤ人はドイツの不倶戴天の敵だと叙述するためのみならず、その方法を採用して世界支配という彼自身の願望を実現するために。
 彼は、世界制覇の追求へのユダヤ人のいわゆる狡猾さに敬意を払ったので、彼らの「イデオロギー」と「プログラム」を完全に採用することに決めた。(54)//
 ヒトラーが反共産主義へと転じるのは、彼が<議定書>を読んだ後のことにすぎない。//
 『ローゼンベルクは、ナツィのイデオロギーの上に永遠の痕跡を残した。
 党は、1919年のその創立のときから病的な反ユダヤ主義だった。
 しかし、1921-22年だけは、ロシアの共産主義に夢中になった。
 そして、これは多くはローゼンベルクがしたことだったように思われる。
 ローゼンベルクは、ロシアの黒い百人組(the Black Hundred)のタイプの反ユダヤ主義と、ドイツの人種主義者の反ユダヤ主義とを、連結させた。
 もっと細かく言うと、ボルシェヴィズムはユダヤ人の陰謀だとするヴィンベルクの考え方を彼は採用したうえで、民族的・人種主義的(voelkisch-racist)な用語でもって再解釈した。
 それが帰結させた夢想は、数多くの記事や冊子で説明されているように、ヒトラーの思考とナツィ党の見解やプロパガンダにおける強迫観念的(obsessive、偏執症的)主題となった。』(55)//
 ヒトラーには大きくはつぎの二つの政治目標しかなかった、と言われてきた。ユダヤ民族の破壊と東ヨーロッパの生存空間(Lebensraum)への膨張。彼の政綱のその他の要素は全て、社会主義であれ資本主義であれ、これらの目標に達する手段にすぎなかった。(56)
 このようにして、祖国を襲った厄災についての生け贄(scapegoat、贖罪者)を世界ユダヤ民族の「隠された手」のうちに探して見出したロシアの過激派君主主義者たちの狂信は、やがてドイツの全権力を獲得することとなる党の政治イデオロギーへと注入された。
 ナツィによるユダヤ人絶滅のための理由づけは、ロシアの右翼グループに由来した。
 ユダヤ人の肉体的な絶滅を最初に公然と呼びかけたのは、ヴィンベルクとその仲間だった。(57)
 ユダヤ人のホロコーストは、こうして、予期されも意図されもしなかった、ロシア革命の多くの帰結の一つだったことが分かる。//
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 (48) この人物については、Walter Laqueur, Russia and Germany (ロンドン、1965年)、p.114-8. を見よ。〔ワルター・ラカー・ロシアとドイツ〕
 (49) F. Vinberg, Krestnyi put' I, 2nd ed. (ミュンヘン、1922年)、p.359-p.372.
 (50) Cohn, Warrant, p.293.
 (51) Laqueur, Russia and Germany, p.55.
 (52) Rauschning, Hitler Speaks, p.235.
 (53) 同上、p.235-6。
 (54) Alexander Stein, Adolf Hitler, Schueler der "Weisen von Zion" (カールスバート、1936年).〔アレクサンダー・シュタイン・ヒトラー-『シオンの流儀の生徒』〕
 (55) Cohn, Warrant, p.194-5.
 (56) Eberhard Jaeckel, Hitlers Weltanschauung〔ヒトラーの世界観〕 (テュービンゲン、1969年)。Kuhn, Das faschistische Herrschaftsystem 〔ファシストの支配体制〕のp.80 から引用した。 
 (57) Laqueur, Russia and Germany, p.115.
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 第4節へとつづく。つぎの表題は、「ヒトラーと社会主義」。