前回に紹介した(基本的に伊澤高志訳を書き写した)T・ジャットの文章の中に、1973年に英国歴史家E・トムソンが雑誌上の100頁の長さの公開書簡(open letter)でL・コワコフスキを批判したのに対して、コワコフスキが応答したのが「あらゆる事柄に関する私の正確な見解<My Correct Views on Everything>」と題する文章(これも「公開書簡」のかたちをとる)だった、ということが出てくる。
 このMy Correct Views on Everything と題するエッセイ(小論、トムソンへの回答・反駁文書)は1974年のもので、のちに、コワコフスキ死後の2010年に、L・コワコフスキの小論集に収載された。そしてまた、この小論集全体のムタイトルにも、このMy Correct Views - が選ばれている。
 ①Leszeck Kolakowski, My Correct Views on Everything(St. Augustine Press, 2010)だ。
 また、次いで、上のトムソンへの回答小論であるMy Correct Views on Everythingは、別のL・コワコフスキの小論集、2012年、にも収載された(収載されている全小考が①と同じでなのではない)。
 ②Leszeck Kolakowski, Is God Happy ? - Selected Essays (Penguin Classic, 2012)だ。
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 前回に重要なこととして付記する予定だったところ、思わず、忘れたまま投稿してしまった。
 一 この、<My Correct Views on Everything>の全文は、これを伊澤高志訳と少し異なって「全ての物事に関する私の適正な見方」と訳したうえで、かつ簡単に<「『左翼』の君へ-L・コワコフスキの手紙」いう題に変えて、昨2017年5月に、この欄に、秋月瑛二による試訳を掲載し終えている
 この欄で、八回で完結させている。日付・番号は、つぎのとおりだ。原書(上の②)ではp.115-p.140のもので、計26頁の長さのものを対象とする試みの邦訳だ。
 ①№1526-5/02、②№1528-5/04、③№1532-5/07、④№1533-5/08、⑤№1535-5/09、⑥№1536-5/10、⑦№1538-5/12、⑧№1540-5/13。
 内容をここで反復することはできない。L・コワコフスキはE・トムソンおよび読者に対して、自分はとっくにマルクス主義者ではない、と言いたかったことは間違いない。
 それは、長い「手紙」の最後の部分にも示されている。つぎのとおりだ(仮訳は秋月瑛二)。
 「長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ」
 二 この機会に、追記しておこう。
 上の実質的には最後の文の主語は「これ」とだけ訳しているが、そして「共産主義思想」のことなのは明らかだが、原文では this skull だった。
 この skull をどう訳せばよいか迷い、つまり唐突に「骸骨」または「頭蓋骨」を登場させるのに違和感をもって、これは省略して、「これ」とだけ訳した。
 のちに何ゆえだったか記憶をなくしてしまったが、<この骸骨は二度と微笑まない>というのは、シェイクスピア作の古典「ハムレット」に出てくるせりふではないか、ということを知った。シェイクスピア・ハムレットに通じていないと、意味が理解できない文章なのだった。-こう書いても確信はないので、日本のシェイクスピア・ハムレット学者の方は確かめてほしい。じつは私も「ハムレット」を一度捲ってみたのだが、すぐには該当文を発見できなかった。
 「ハムレット」から来ているのだとすると、おそらく当然に、L・コワコフスキは欧米(とくにイギリス)の読者は理解できるだろうと想定している。
 ヨーロッパ知識人との間の「教養」の違いは、いかんともし難い。
 三 L・コワコフスキのMy Correct Views on Everything を邦訳して見たくなったのは、おそらく、いま紹介しているT・ジャットの文章を読んだことがきっかけになっている。
 また、その背景には、レシェク・コワコフスキとはいかほどの、いかなるマルクス主義研究者なのか、確信を持っていなかった、ということもあった。
 つまり、レシェク・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』はすでに原書を入手していたが、読むだけの、または一部でも試訳してみる価値があるのかどうかは分からなかった。
 L・コワコフスキが昨年前半に(現在でもだが)強い関心を持ったレーニンやロシア革命に関する重要文献の一つに挙げられていることは知っていたが(この点は、別に書く)、いかなるマルクス主義研究者なのか、よく知らなかったのだ。
 そこで、長い三巻本またはその合冊本(いずれも全て所持している)に立ち入る前に、少しL・コワコフスキの文章を読もうと思って選んだのが、伊澤高志の分担訳のある邦訳書によるT・ジャットの文章をきっかけとしての、My Correct Views on Everything だった。
 じつに、面白かった。また、T・ジャットは「政治的議論の歴史で最も完璧になされた、一人の知識人の解体作業」かもしれないとまで評しているが、ここまで書かれては相手も大変だと思い、挙げられている特定の氏名が実在の、現役の(「左翼」)学者であることにも驚いた(日本では、名挙げしてのこんな批判文は公刊されないだろう)。
 内容も、翻訳作業自体も容易ではなかった。しかし、L・コワコフスキの頭脳の柔軟さと鋭さ、文章表現力の凄さには敬服してしまった。内容よりもむしろ、文章・論理の運び、修辞・反語、比喩・諧謔等々、読んでいる者の<頭と精神を鍛え直す>ような文章が並んでいた。
 この人の本ならば大丈夫だろうと、相当に感じたものだ(昨年5月のことだ)。
 三 さらに追記しよう。
 その後、上の②の表題に選ばれている、狭い意味でのIs God Happy?/神は幸せか?(2006年) も、全体で4頁余と短いこともあって、また、冒頭に何とシッダールタ(釈迦)を登場させている驚きにもつられて試訳し、二回に分けてこの欄に掲載した。
 ①№1559-5/25、②№1562-5/27。
 そして、邦訳書のない、Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (英訳版、1978)=『マルクス主義り主要潮流』の一部の邦訳を掲載し始めたのは、昨年6月になってからだった。
 最初の第1回めは、№1577-6/07。第二巻16章「レーニン主義の成立」の冒頭から。
というわけで、レーニンに関する部分だけは邦訳をし終えたいと今でも考えているL・コワコフスキの大著の試訳についても、秋月なりの<瀬踏み>の時期があったのだ。
 そして、期待は(今のところ、ということにはなるが)裏切られなかった。
 上の二つのコワコフスキの小論よりも、リチャード・パイプスのロシア革命関係本よりも、英語の文法構造自体の把握は容易だ。原ポーランド語の本の英語訳であるのが理由の一つではないかと思われる。
 内容の重要性・示唆性は別として、L・コワコフスキは、少なくとも表向きは、冷静に、淡々と文章を綴っている。これは、上の二つの小論とも異なるようだ。
 となると、上の二つは元々はいったい何語で書かれたのか、英語なのではないかと思うが、楽屋ウラ話は、この程度にしよう。
 *** 下の写真は、前回言及したG・リヒトハイムの原著と邦訳書、およびL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』のドイツ語版・第一巻、のそれぞれ表紙。所持しているもの。

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