一 伊澤高志(1978~)は、思いもかけず、重要な訳出の仕事をして、貴重な貢献をしたことになるだろう。
 トニー・ジャット・失われた二〇世紀(上・下)(NTT出版、2011)という邦訳書は五人が分担して訳して、河野真太郎(1974~)が「訳文の統一」を行ったとされる(下巻・あとがき、368頁)。
 上巻の177頁以下、第八章「さらば古きものよ?-レシェク・コワコフスキとマルクス主義の遺産」の邦訳を担当したのは、伊澤高志だ(下巻・あとがき、同上)。
 レシェク・コワコフスキは日本ではほとんど無名ではないかと思われ、とくにその『マルクス主義の主要潮流』は、欧米研究者の中にはコワコフスキといえば「マルクス主義の理論的研究」の第一人者として挙げる者もいるにもかかわらず、日本では邦訳書がない。昨秋に池田信夫がメール・マガジンでこの本をマルクス主義研究の「古典」として紹介していたようだが(全文を読んでいない)、「古典」とされるわりには、日本で翻訳されていない。考えられるその理由・背景は、すでに記している。
 そういう中で-すでに昨年に言及はしているのだが-、上の邦訳書は、L・コワコフスキの、神学者でも東欧お伽話作家でもない、社会・政治思想に論及するもので、十分に意味がある。
 むろん、もともとはトニー・ジャットの本だからこそ邦訳出版されたと見られ、トニー・ジャットの考え方の重要な一端も分かる。
 なお、トニー・ジャット(Tony Judt)をトニー・ジャッドとこの欄で記したことがあるのは間違い。また、コワコフスキ(Kolakowski)はコラコフスキ-と記載されていたこともあるが、英米語のlに該当しないポーランド語の独特のl(元来は斜め二本の線がつく)を英米語ふうに読んだ誤りのようだ。
 二 トニー・ジャットの上の本の上巻にあるⅡ部では「知識人の関与-その政治学」というタイトルのもとで、6人の「知識人」の書物を対象にして論評がなされている(たぶん全てが<書評誌または書評新聞>にいったん掲載されたものだ)。
 そのような論評・コメント類だから各著書・著者に対して「義理にでも」肯定的な評価を下しているのでは全くないのが、日本の新聞や雑誌の「書評」 欄と比べて新鮮なことだ。
 トニー・ジャットがほとんど手放しで賞賛していると言ってよいのはレシェク・コワコフスキの『マルクス主義の主要潮流』の三巻合冊本(の刊行予定)だけで、他のとくにつぎの3人の書物については、相当に厳しいまたは皮肉たっぷりの文章を載せている。
 表題だけ、記しておこう。いずれも、欧米<左翼>の者たちの本だ。
 ・「空虚な伽藍-アルセルチュールの『マルクス主義』」(6章)。
 ・「エリック・ホブズボームと共産主義というロマンス」(7章)。
 ・「エドワード・サイード-根なし草のコスモポリタン」(10章)。
 三 こうして書き始めたのも、トニー・ジャットのコワコフスキに関する上の記述と、 コワコフスキの死の直後の哀惜の情溢れる(しかしなお学問的な)文章-これにはたぶん邦訳がない-を紹介してみたくなったからだ。
 前者については、上記のようにすでに邦訳が出ている。だが、改めて紹介しておく意味はあるだろう。それに、すでにいったん訳されているので、邦訳にほとんど苦労は要らない、という利点もある。