この本には、邦訳書がない。Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 第2節の前回のつづき。
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 第2節・1917年の革命②。
 1917年9月にレーニンは、こう書いた。
 『世界的な社会主義革命が成熟しており不可避であることは、疑う余地がない。<中略>
 プロレタリアートが権力を獲得すれば、その権力を維持し、西側での革命の勝利までロシアを導いていく,全ての可能性があるだろう。』(+)
 (『ロシア革命と内戦』、全集26巻p.40-p.41〔=日本語版全集26巻27頁,28頁〕。)
 十月革命のほとんど直前に、こう書いた。
 『疑うのは、問題外だ。我々は、プロレタリア世界革命の発端地(threshold)にいる。』(+)
 (『危機は熟している』。同上、p. 77〔=日本語版全集26巻66頁〕。)
 革命の後でレーニンは、1918年1月24日に第三回ソヴェト大会に対して、こう宣言した。
 『我々はすでに、世界の全ての国で、時々刻々に(by the hour)社会主義革命が成熟しつつあるのを見ている。』(+)
 (同上、p.471〔=日本語版全集26巻「労働者・兵士・農民代表ソヴェト第三回全ロシア大会」480頁〕。)(+)
 1918年8月には、以下。
 『我々はすでに、西ヨーロッパで革命の火の手がいかに頻繁に火花を散らしたり爆発とたりしているかを見ている。
 それらは、世界の労働者革命の勝利は遠くはない、という確信を我々に与えている。』(+)
 (全集28巻p.54〔=日本語版全集26巻「労働者の諸君!/最後の決戦にすすもう!」45頁〕。)
 1918年10月3日には、以下。
 『ドイツの危機は、始まったばかりだ。
 これは不可避的に、政治権力のドイツ・プロレタリアートへの移行で終わるだろう。』(+)
 (同上、p.101〔=日本語版全集28巻「全ロシア中央執行委員会、モスクワ・ソヴェト、工場委員会代表、労働者組合代表の合同会議にあてた手紙」100頁〕。)
 1918年11月3日には、以下。
 『至るところで世界革命の最初の日が祝福されるときは、すでに間近いのだ。』(+)
 (同上、p.131〔=日本語版全集28巻「オーストリア=ハンガリー革命を祝うデモンストレーションでの演説」133頁〕。)
 1919年3月6日、第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕第一回大会で。
 『世界的範囲でのプロレタリア革命の勝利は、保障されている。
 国際ソヴェト共和国の創立は、近づいている。』(+)
 (同上、p.477〔=日本語版全集28巻「共産主義インターナショナル第一回大会/閉会の際の結語」510頁〕。)
 レーニンは、1919年7月12日に党モスクワ県会議で、こう予言した。
 『来年の七月、我々は世界ソヴェト共和国の勝利を歓迎するはずだ。そして、この勝利は、完全で不可逆的(irreversible)なものになるだろう。』(+)
 (全集29巻p.493〔=日本語版全集29巻「ロシア共産党(ボ)モスクワ会議での共和国の内外情勢についての報告」501頁〕。)//
 これらの予言は、諸事態、『革命の上げ潮』やバヴァリア(Bavaria〔独・バイエルン〕)、ハンガリーおよびエストニアでの暴乱、の観察にのみではなく、欧州の戦争は資本主義の打倒によってのみ終止させることができるとのレーニンの確信にももとづいていた。
 レーニンは1918年7月3日に演説したが、<プラウダ>でこう報道された。
 『戦争は、絶望的なものに(hopeless)なっている。
 この見込みなさ(hopelessness)は、我々の社会主義革命が世界革命が勃発するまで持ちこたえる十分な機会がある、ということの保障だ。
 このことを保障するのは戦争だが、それを労働者大衆だけが終わらせることができるだろう。』(+)(*)
 (全集27巻p.502〔=日本語版全集27巻「第五回ソヴェト大会の共産党代議員団での演説」517頁〕。)
 レーニンが一国での社会主義の勝利の永続(permanence)を信じていなかった、ということもまた、疑いの余地がない。
 1918年1月の第三回ソヴェト大会で、こう語った。
 『唯一つの国での社会主義の最終的な勝利は、もちろん、不可能だ。』(+)
 (全集26巻p.470〔=日本語版全集26巻「(既出)」480頁〕。)(+)(**)
 1918年3月12日の論文では、以下。
 『救いは、我々が着手した、世界社会主義革命の途にのみある。』
 (全集27巻p.161〔=日本語版全集27巻「今日の主要な任務」161頁〕。)(+)(***)
 1918年5月26日の演説では、以下。
 『我々は、かりにつぎのことがあっても、唯一つの国では社会主義革命を自分たちの力のみで完全に遂行することはできない、ということに、目を閉ざしはしない。すなわち、その国がかりにロシアに比べてはるかに後進性が少ないとしても、また、我々が前例なき、苦しい、苛酷な、そして惨禍の戦争が4年間続いたあとで、よりよい条件のもとで生活しているとしても。』(+)
 (全集27巻p.412〔=日本語版全集27巻「国民経済会議第一回における演説」427頁〕。)(+)
 1918年7月23日の演説では、こうだ。
 『その革命が孤立していることを意識しているので、ロシアのプロレタリアートは、自分たちの勝利の不可欠の条件であり基本的な必須条件が全世界の、またはいくつかの資本主義が発達した諸国の労働者の統一した行動であることを、認識している。』(+)
 (同27巻p.542〔=日本語版全集27巻「工場委員会モスクワ県会議での報告」562頁〕。)(+)//
 こうした望みが絶えて、つぎのことが明白になったとき、党は、奪い取った権力で何をすればよいのかという問題に直面した。すなわち、ヨーロッパのプロレタリアートはボルシェヴィキの例に従うつもりがない、そうでなくとも彼らの革命の企ては失敗するだろうこと、また、戦争を革命以外の別の方法で終わらせることができること、が明白になったとき。
 権力を放棄するなどということは、あるいは実際に、権力を別の社会主義勢力と分かち合うということも、問題にならなかった。
 (左翼エスエル〔社会革命党左派〕に関する短いエピソードは重要ではなく、『権力への参加』という叙述に値するものではなかった。)//
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 (+ 秋月注記) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 (*/秋月注記) この1918年1月の演説の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集27巻518頁の訳による)。-「…われわれは、わが同胞ばかりではなく全世界の労働者にたいしても、責任を負っている。/彼らは社会主義が不可能なものではなく、労働者の堅固な制度であって、全世界のプロレタリアートは社会主義を目ざさなければならない、ということがわかるにちがいない」。
 (**/注記) この1918年1月の文章(演説)の結びの部分は、つぎのとおり(日本語版全集26巻482頁の訳による)。-「われわれは、革命の発展がどこまで大きくすすむかをはっきりと見きわめている。ロシア人が火蓋をきった。-ドイツ人、フランス人、イギリス人は完成させるだろう。そして社会主義は勝利するだろう。(拍手)」.
 (***/注記) 日本語版では「3月12日」ではなく、「3月11日」の論文とされている。
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 段落の途中だが、ここで区切る。
 レーニン死後の、「世界」・「一国」にかかるスターリンとトロツキーの間の論争?等についての、③へと、つづく。