Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 前回のつづき。
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 第1節・ボルシェヴィキと戦争②。
 このような訴えは、呆けた夢物語のように見えたかもしれなかった。一握りの社会主義者たちだけが、それを支持するつもりがあったのだから。
 ほとんどの社会民主主義者たちは、階級闘争を中止して祖国の防衛のために結集しようという考えだった。
 プレハノフはこのように考えたロシア人の一人で、自分はマルクス主義者だと表明し続ける一方で、心から愛国主義の見地を受け入れた。
 このことによってプレハノフとレーニンの間の休戦状態は瞭然として終わりを告げ、プレハノフとポトレソフはもう一度、『道化師』であり反動派の指導者のプリシュケヴィチ(Purishkevich)の従僕だと非難された。
 レーニンは、イギリスのハインドマン(Hyndman)やフランスのゲード(Guesde)、エルヴェ(Herve)のような、その態度の基礎に民族の自己防衛原理をおく、全ての社会主義指導者と類似の見解をもっていた。当然に、交戦諸国の中には『侵略者(aggressors)』はいなかったことになる。
 しかしながら、徐々に戦争反対の集団が全ての国で形成された。そのほとんどは、正式に中心的位置を占める社会主義者によっていた。ドイツのベルンシュタイン、カウツキーおよびレデブーア(Ledebour)、イギリスのラムジー・マクドナルド(Ramsay MacDonald)。
 これには、マルトフとアクセルロートが率いる、従前のメンシェヴィキのほとんど、およびトロツキーも、属していた。
 しばらくの間、彼らの基礎的な違いにもかかわらず、レーニンの集団はこれら『平和主義者(Pacifists)』と折り合いをつけようとした。
 主としてスイスとイタリアの社会主義者の努力によって国際的な会議が1915年9月にツィンマーヴァルト(Zimmerwald)で開かれ、妥協的な戦争反対の決議を採択した。
 ツィンマーヴァルトは一時的には、新しいインターナショナル運動の萌芽だと見なされた。しかし、ロシア革命の後では、中心部とツィンマーヴァルト左派の間の意見の違いは、平和主義者と、祖国を防衛する者はともかくもこう称された『社会的な熱狂愛国主義者』の間の対立よりも、大きいものであることが分かった。
 38人の代議員のうちの7名から成るツィンマーヴァルト左派は、一般的な決議に署名することに加えて、自分たちの決議をも発した。それは、社会主義者たちに、帝国主義的政府からの撤退と新しい革命的なインターナショナルの結成を呼びかけるものだった。//
 レーニンは、初期の段階では、戦争反対の平和主義的な社会民主主義者を、『社会的な熱狂愛国主義者』に対してしたのと同様に激しく攻撃した。   
 彼の主要な反対論は、第一に、〔ツィンマーヴァルト会議での、社会民主主義者の〕中央主義者(centrists)は、自分たちの政府に対する革命的な戦争を遂行することによってではなく、国際的な協定を通じて講和することを望んでいるということだった。
 このことは、戦前の秩序への回帰と『ブルジョア的』方法による平和への懇請を意味する、とした。
 中央主義者は明らかにブルジョアジーの従僕で、帝国主義戦争を終わらせる唯一の途は少なくとも三つの大陸大帝国を打倒する革命によってだ、ということを理解できていない、とする。
 第二に、平和主義者は『併合または賠償のない講和』を望んでいる、ということだった。そのことで彼らが意図しているのは、戦時中の領土併合の放棄だけであり、かくしてその民族主義的抑圧を伴う旧い諸帝国を維持することだ。
 しかし、レーニンが考えるには、革命的な目標は、全ての領土併合を無効にすること、全ての民衆の自己決定権を保障すること、そしてかりに望むなら、彼ら自身の民族国家を形成することでなければならない。 
レーニンは、併合と迫害を責め立てる社会主義者を咎める強い立場にあったが、それは、彼らの民族的な敵によって行われるときにだけだった。
 ドイツ人はロシアでの民族の問題の扱いに完全に憤慨していたが、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの状態については何も語らなかった。
 ロシアとフランスの社会主義者は、中央諸国の問題からの自由を要求した。しかし、ツァーリの問題については沈黙したままだった。
 結局、平和主義者は、きっぱりと日和見主義者と決裂する決心のつかない言葉で熱狂愛国主義者を非難したけれども、彼らと再合流することやインターナショナルを甦生させることを夢見た。
 このことは、とくに重要だ。
 党内部での従前の紛争や分裂の全ての場合と同じく、レーニンは、反対者および、反対派と完全に別れるのを躊躇し、組織的統一を渇望することで原理的考え方を満足させる自分の身内内の『宥和者』に対して、同等に激しい怒りを向けた。
 中央主義者は、レーニンの態度は狂信的でセクト主義的だと非難した。そして、ときどきは無力で孤立した集団の指導者の地位へと彼を陥らせるように見えた、というのは本当だ。
 しかしながら、最終的には、他のどの戦術もボルシェヴィキのような中央集中化した紀律ある党を生みだし得なかった、という点で、レーニンが正しかった(right)ことが分かった。危機的なときに、もっと緩やかに組織される党では、状勢を乗り切って権力を奪取することができなかっただろう。
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 ③へとつづく。