L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。この本には、邦訳書がない。  
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。
 前回のつづき。 第二巻単行本のp.459-。
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 第8節・レーニンと宗教①。
 レーニンは、党のイデオロギー活動の鍵となる論点だと宗教を見なした。敵となるのは大衆的な現象であって、たんに経験批判論のような理論家集団ではなかったからだ。
 宗教に対する彼の態度は哲学の問題としては絶対的に明確だったが、彼の戦術は、比較的に融通性があり、可変的なものだった。//
 レーニンは、頑迷ではない宗教的な雰囲気の中で育った。15歳か16歳のときに信仰心をなくしたが、マルクス主義とはまだいかなる接触もなかった。
 そのとき以降、無神論を科学的には自明のこととした。そして、そのことを擁護してとくに論じることも決してなかった。
 彼の見方では、宗教の問題は、本質的な難事ではなくて、教育、政治そして情報宣伝(propaganda)の問題だった。
 『社会主義と宗教』(1905年、全集10巻〔=日本語版全集10巻70頁以下〕)およびその後の著作物で、レーニンは、宗教的信条は被抑圧者および貧困に苦しむ民衆が無能力であることの表現であり、彼らの苦痛を和らげる代償物だ-マルクスとエンゲルスの言葉をいつものように粗雑化して彼がいう『精神上の酒』だ-と論じた。
 同時に、宗教と教会は民衆を卑しくかつ従順なままにしておく手段であり、搾取者が権力を維持し民衆を悲惨な状態に置いたままにする『イデオロギー上の笞(knout)』だった。
 正教派教会は、精神的抑圧と政治的な抑圧が結合している、明白な例だ。
 レーニンはまた、宗教聖職者に対する体制側の抑圧的な態度を利用する必要も強調した。
 党の綱領は、最初から宗教上の寛容さについて語り、個人が自分の選択する信仰を告白する権利を、また無神論の宣伝活動に従事する権利をも、語った。
 教会と国家は分離されなければならず、宗教に関する公教育は廃止されるべきものだった。
 しかし、レーニンは、西側の多くの社会民主主義者たちと違って、社会主義者は宗教を国家と関係のない(vis-a-vis)私的な問題だと見なしてよく、党に関係があるかぎりでそれは私的な事柄ではなくなる、と強調した。
 いままさしく信仰者である者に対して寛容でなければならない現在の状況ではあったが(無神論は党の綱領には明確には表現されていなかった)、反宗教の情報宣伝を実施したり党員が戦闘的な無神論者になるよう教育することは、認められた。
 党は、哲学的に中立であることはあり得なかった。党の哲学は唯物論であり、そのゆえに、無神論であり反聖職者的であった。そして、この世界観は、政治的な違いの問題ではあり得なかった。
 しかしながら、反宗教の情報宣伝は階級闘争と接合されなければならず、『ブルジョア的自由思想』の意味のごとく、目的それ自体だと見なされてはならなかった。//
 戦術的な譲歩がどのようなものであれ、レーニンは、政治的な理由で、宗教的信念に対する執念深い反対者だった。
 そのゆえに、経験批判論に対する攻撃の激烈さもあった。経験批判論の哲学の一部は、『神の建造者(God-builder)』のそれと一致していた。
 後者は、マルクス主義に対して修辞上の情緒的な装飾を加えようとしているだけだった。しかし、レーニンの眼には、宗教との間に危険な妥協をするものと映った。
 主要な哲学上の著作やゴールキへの手紙、あるいは別の箇所で、レーニンは、野蛮な迷信を身に着けていない、社会的進歩的な言葉遣いをしている宗教は、ツァーリ専政政治と同盟することを冷厳に公言している、のぼせ上がった正教派教会よりも危険ですらある、と主張した。
 人間中心主義的な偽装を施した宗教は、よりよく、階級の意図を隠し、油断する者を欺瞞することができる。
 かくして、レーニンは戦術上の理由で信仰者たちと妥協する用意はあったが、彼の意思は根本問題では固く形成されていた。そして、党の世界観にはどんなものであれ宗教的信仰のいかなる余地も決してない、ということの示唆を拒むつもりは全くなかった。//
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 ②へとつづく。