Yuri Felshtinsky, Lenin and his Comrades (New York, Enigma Books, 2010).
=ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
<レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
---
「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
過去のこの部分が、この本の対象だ。
この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
---
内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
以上。
=ユリ・フェルシュチンスキー・レーニンとその同志たち(ニューヨーク, Enigma, 2010)。
本文、p.264 まで。注・索引等全てでp.292 まで。序文(Intoduction)で、おおよその内容は分かる。
この本を適切に論評する資格、能力は私にはない。但し、序文の最後には、wide-ranging な根拠・情報源にもとづくとは記されている。
明治維新に関する史料・資料に比べても、時期的にはもっと後のロシア革命・レーニン「ソヴィエト」国家に関する史料・資料の方が、どうやらかなり少ないようだ。それは、<まずい>文書は可能なかぎりで徹底的に廃棄したからではないかと想像される。今後も、種々の新資料等にもとづく新しい歴史書がロシア等々で出版される可能性はある。
1990年・ソ連解体前の史料・資料にもとづくが、下の①、②、③について、リチャード・パイプス・ロシア革命1899-1919(1990)はすでに、ほぼ史実として叙述している。
1976年のL・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流もまた、①について、つぎのように書いていた。試訳済みの部分の中にある。
<レーニンは身体的(肉体的)テロルにはこの時点で反対したが、鉄道・銀行・国有財産の収奪には賛成した。これはメンシェヴィキにより党大会で非難された。銀行強盗等の活動家の中には、スターリンもいた。>。
③をR・パイプス著はかなり詳しく迫っている。立ち入らないが、ドイツ側文献にも出てくるので、基本的史実は動かない、と考えられる。アレクサンダー・パルヴゥス(Parvus)〔革命の商人〕とレーニンの間の接触関係の詳細はまだ曖昧さが残るとはいえ。
この点については、2010年以降に、デンマーク・コペンハーゲンで、建物解体中に、この二人の接触を示す、二人の変名を使った文書が入ったカバンが発見されたと書いている、そしてこの二人のことを改めて叙述している某英語書も読んだが、今すぐには見つけられない。その本の信憑性も私には分かりかねるが。
上の著の「序文(Intoduction)」の冒頭と末尾だけを割愛して、残りの全文の試訳を掲載しておこう。①~⑨、および「第一に」・「第二に」は、秋月瑛二が挿入した。
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「ロシアは、しかし、いくつかの異なる種類の歴史ももった。すなわち、犯罪の歴史。
過去のこの部分が、この本の対象だ。
この本は、20世紀の前四半世紀の間の、ボルシェヴィキ指導者たちの相互作用と活動方法における、犯罪の側面に焦点を当てる。
①ボルシェヴィキは、革命の前に、資金確保のための収奪を遂行した。
②彼らは、相続財産を奪うために、サッヴァ・モロゾフ(Savva Morozov)やニコライ・シュミット(Nikolai Shmidt)という金持ちを殺害した。
③また彼らは、外国の〔ドイツの〕諜報機関およびロシアに敵対していた政府と金銭上の関係に入り込んだ。
レーニンがせき立てて、ソヴィエト政府は1918年にドイツでの革命を妨害する皇帝ヴィルヘルム一世との分離講和に署名した。
④レーニンによるブレスト=リトフスク条約の敵-最も重要なのはフェリクス・ジエルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)、ロシアの秘密警察であるチェカの長官-は、条約を破棄するようドイツを刺激するためにドイツ大使のミルバッハ(Mirbach)公の暗殺を組織した。
そして、⑤レーニン、トロツキーおよびスヴェルドロフ(Sverdlov)は、左翼社会主義革命党〔左翼エスエル〕を破壊してロシアに単一政党独裁を樹立するために、ミルバッハ殺戮を利用した。
ブレスト=リトフスク条約を無意味にするこの企てが失敗したあとでのつぎのことは、我々が主張したい命題だ。
すなわち、第一に、⑥ジェルジンスキーとヤクロフ・スヴェルドロフ、党の事実上の総書記、は1918年4月30日に、レーニンに対する暗殺の企てを組織した(いわゆる『カプラン暗殺企図』)。この事件の間に、レーニンは負傷した。
そして、第二に、⑦そのあとの1919年3月のスヴェルドロフの突然の死は、事故ではなく、この企てに彼が果たした役割に対する復讐の行為だったかもしれない。
ドイツ共産主義運動の指導者-リープクネヒト(Karl Liebknecht)とルクセンブルク(Rosa Luxemburg)-の殺害。⑧私見が支持するのは、この当時にドイツにいた著名なロシア・ボルシェヴィキのカール・ラデック(Karl Radek)が、この二人の殺害に関与していたかもしれない、というものだ。
⑨1922年の最初以降に、スターリンとジェルジンスキーによってレーニンは徐々に権力を奪い取られ、党内部での権力闘争の結果として、レーニンは彼らによって殺害された。
そして、そのあと、トロツキーは駆逐され、また一方で、ジェルジンスキー、スクリャンスキー(Sklyansky)およびフルンゼ(Frunze)-別の重要なボルシェヴィキたち-が排除された。
ボルシェヴィキ党の指導部は、組織犯罪集団ときわめてよく類似した様相を呈している。
彼ら構成員のほとんど誰も、自然には死ななかった。
そして、スターリン自身を含めて、スターリンの世代のほとんど全てのソヴィエトの指導者たちは、次から次へと除去されて〔殺されて?〕いった。」
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内容構成(目次)は、つぎのとおりだ。
「1・革命のための金。/2・ブレスト=リトフスク条約。/3・ミルバッハ公暗殺と左翼エスエル党の破壊。/4・ウラジミル・レーニンとヤコフ・スヴェルドロフ。5・カール・ラデックとカール・リープクネヒトおよびローザ・ルクセンブルクの殺害。/6・レーニンの死に関するミステリー。」
以上。